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良きにしろ悪しきにしろ私はアーサーさんのことはすべてアーサーさんの口から 聞きたいと願っていた。もちろんお互い国という存在である以上、何もかも包み 隠さず、ありのまま話すことなどできないことは承知している。故にそれがたとえ 偽りであっても、その口から紡がれるものならば私には真実として信じてしまう だろう。それほどまでに私はアーサーさんを深く深く愛している。それなのに束の 間の逢瀬に水を差す無粋な視線がひとつ。最近はこんなことがしょっちゅうある。 細い針で刺すような小さな違和感の元をたどるといつもそこに同じ人物がいる。 どういう意図を持ってこんなことをしているのか知らないが、アーサーさんと共に 過ごす時間を大切に思う私にとっては嫌がらせそのものだった。ほとんど隠居の 身の私と違ってアーサーさんは忙しい。会話の途中で携帯電話が鳴り、私に 侘びをいれつつその場を離れてしまった。不躾なこの視線のせいではないとは いえ八つ当たりのような怒りを抱いてしまうのも仕方ないというものだ。アーサー さんに向かう感情と真逆の方向に同じだけの強さで私は視線の主を憎んでいる。 キッと睨みを利かせると私がそうするのを待っていたかのように彼はにやにやと 卑しく笑う。「…何のおつもりですか」怒気も軽蔑も隠しもしないままに尋ねると フランシスさんは整えられた髭を撫でながら「別に〜?仲がよろしくて結構だと 思っただけよん」と人を小馬鹿にするような口調で答えるのみだ。何をされても 怒らないと冗句があるほどの私にも限度がある。「このような真似、再びなさる おつもりなら私にも考えがあります」と脅し文句を吐けば「あれえ?俺、お仕置き されちゃう?おお怖い怖い」と両手をひらひらさせて苛立ちを煽るようにしながら 立ち去った。誰もいなくなった空間で私は小さくため息をつく。本当に何の企みが あるのか。フランシスさんは決して悪い人ではなかったはずなのに。しかしこれで 覗き見のような行為が終わるわけではなかった。アーサーさんと二人きりでいる ときだけでなく、複数人で何気ない会話をしているときでさえフランシスさんは その輪にも加わらず、けれど絶妙な距離を保って聞き耳を立て、ぴりりと首筋が 痛むような錯覚を起こす鋭い視線を私に向けるのだ。最近ではフランシスさんの 言動に悪意さえ感じる。憎んでいるのは私だけではなく、フランシスさんもまた 私を憎んでいるのではないか。何か害を為そうと機を図っているではないのかと 被害妄想めいたものを抱いてしまう始末だった。外交上は特に問題はない。では 私個人が何か不興を買ったのだろうか。必死に記憶の底を浚うも何もそれらしい 出来事は思い出せない。私はいっそアーサーさんに相談を持ちかけたほうが いいのではと思った。でも古くからフランシスさんと因縁の深いアーサーさんの ことだ。かえって事態をこじらせてしまう可能性のほうが大きい。恋愛関係にある アーサーさんにすら相談できないことを第三者に話すわけにもいかない。あれで アーサーさんは少しばかり嫉妬深いのだ。私は八方塞りとなった。相変わらず フランシスさんの視線は矢のように突き刺さり、猜疑心が私の中で膨らんでいく。 疑念と不審が私の心に楔となってヒビを入れる。あの人を見るたび、あの人の 声を聞くたび、あの人を思い出すたび、容赦なく槌が打ち下ろされて心が砕けて しまいそうだった。「…菊?」そんなとき不意に背後から声をかけられ、私はびくり と大袈裟に体を揺らした。その声は愛しいアーサーさんのものに違いないのに、 一瞬フランシスさんと勘違いしてしまったのだ。「少し痩せたんじゃねえか?」 気遣いの言葉に私は胸の奥が温まるのを感じた。近頃は眠りが浅く、ほんの 少しの風でも目を覚ましてしまうことがある。食事もろくに喉を通らない。確かに その通りかもしれない。それでも重責を負うアーサーさんに余計な心配をかける わけにはいかなかった。「ええ、最近ちょっと立て込んでて…」私はそう嘘をつく しかなかった。アーサーさんは私の髪のひと房を手にとり、「別に、お前のために 言ってるんじゃないが、ほどほどに休んで無理はするな」とアーサーさんらしい 物言いで優しく私の体調を気遣ってくれる。付加される本心とは異なるいつもの 虚勢を愛しく思う気持ちは際限なく募るばかりでうまく表せない。遠ざかる背中に ありがとうございますと心から礼を言いながら、私はひと時心の平安を得る。だが 次の瞬間には冷え冷えとした視線が背筋に刺さり、振り向けばまたフランシス さんがそこに立っているのだ。私はこれ以上我慢できなかった。「一体、どういう つもりなんです!」ともはや声を潜めるのも忘れて問い質す。「だから仲が良くて 羨ましいなあって」フランシスさんはなおも誤魔化そうとする。「それだけではない でしょう!」とさらに問い詰めるとフランシスさんはお手上げといったような仕草の 後に、笑った。それは人の心の無防備なところを何か鋭利なもので抉るような 恐ろしい笑みだった。私はこの瞬間、フランシスさんから憎悪以上の強い感情を 感じた。本能的に逃げ道を探すが、背後は壁だ。フランシスさんは一歩一歩、 ゆっくりと足を進めながらじわじわと私を追い詰める。どろどろに溶けたどす黒い タールのようなものが悪臭を放ちながら意思を持って私の足先から這い登り、 心のヒビから中枢に侵入して全身を支配されてしまうような、そんな感覚。私は 逃げることも声を出すことも出来ずにただその歩みが私のすぐ目の前で止まる のを待つのみだ。そして彼が何を言うのか。今こそすべての答えが明かされる のだ。「…先に俺のこと見てたのは君でしょ?」私のコントロールを外れた脳は その言葉の意味を理解できない。「アーサーとよろしくやってるときもチラチラチラ チラこっち見て。あれは何?何なの?見せつけてるわけ?」私は何も思考する ことが出来ない。手足を動かすことも、返事をすることも、表情を変えることも。 呆然とする私にフランシスさんは苛立ったように私の顎をつかみ、強引に上に 向けた。言葉を紡ぎ続けるくちびるの動きに私の目は囚われる。「それとも… 俺に妬いてほしいわけ?」吐く息がかかってしまいそうなほど、心臓の早鐘が 聞こえてしまいそうなほど接近しながら、私たちのあいだには薄い膜のような 見えない障壁がある。これ以上は近づくことも離れることも出来ない。私の足が、 手が、くちびるが震える。私が愛しているのはアーサーさん、アーサーさんだ、 アーサーさんのはずだ。呪文のように心の中で唱える。なのにフランシスさんの 声は私の心に次々と波紋を作る。小さな波紋同士がやがて干渉しあって大波と なり、それは私の一切を奪っていく。私が愛しているのは、私が愛しているのは。 「…お前、俺のこと好きなんだろう」フランシスさんは私の答えを聞かない。その 必要もないといった素振りで降りてきた生ぬるいくちびるが私の荒れたくちびるに 触れ、あんなにも愛しているアーサーさんとさえしたことのない濃密なくちづけが 渇ききった口内をフランシスさんの唾液が湿らせていく。いまだ私の思考は停止 したままだ。私は、私は本当に、フランシスさんの言う通り、本当は、フランシス さんのことを?「愛してやるよ、お望みの通りに」何も、何も考えられない。まるで 心が粉々に砕けてしまったかのように、どす黒い別の何かが私を動かしている ように、私が私でなくなったかのように、最初からそうであったかのように。あまり にも甘美な誘惑に私は頷くほかなかった。 |