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下町の住人は、あらかじめある程度の金品を掻き集めてから医者を呼ぶ。お金が多少足りなくても 残りは後日に、ぐらいの融通は利くからだ。ただし、まるきり回収の見通しが立たないとなれば話は 別だ。帝都では薬代だって税金だって何だって高い。医者にも医者の生活がある。善意だけでは 食べていけないのだ。故に医者が必要な場面と、実際に医者を呼んだ回数が一致することはない。 そんな下町で育った子供はおおむね我慢強く、滅多なことでは弱音を吐かない傾向にあるようだ。 フレンはその顕著な例だと幼い頃からよく言われている。現在でも箒星で酒の肴にされる伝説的な 逸話があるほどだ。 あれはフレンが八つの冬のこと。流行風邪で四十度近い大熱を出したフレンがこのまま茹で蛸に なって死んでしまうのではないかとユーリは片時も離れようとしない。いくら周囲が伝染ったら大変 だから別の部屋で休むよう言い聞かせても、頑なに拒んでベッドの足にしがみつく。始末に困った 大人がどうしたものか思案に暮れるさなか、フレンはこんなの全然へっちゃらだよユーリ、と余裕の 笑みをぶちかましたのだ。もちろんへっちゃらなわけがない。数日経ち、案の定熱を出したユーリは フレンの嘘つきとたいそうご立腹だった。熱のせいで意識が朦朧としていた本人はまったく覚えちゃ いないので、そんなこと言ったっけ?でもユーリが心配してくれるんなら風邪ぐらいたまにはひいて みる価値はありそうだねと完全に他人事なのだから腹立たしいったらない。あのときは本当に気が 気じゃなかった。医者が呼ばれる、それはつまり最後の手段に頼る他ない状況だ。要するに、幼い ユーリにはフレンを診る医者の姿が半分死神に見えたのだった。のちのユーリはお前のせいでああ いう人種が苦手になったんだよと主張する。しかしフレンもフレンで同様の体験がある上、流行風邪 どころの騒ぎではなかった。そんな程度では医者嫌いの理由にもならない。おそらく、この子は長く 生きられまい。そう告げた医者はフレンにとって少なくとも半分以上死神だった。 最初は小さな違和感だ。息が詰まったような感覚。それが少しずつ胸を刺す痛みを伴い、坂道を 転がり落ちるように悪化していく。只事ではないだろう予感は薄々していたが、消毒薬の臭いを纏う 白衣の死神がいまだ恐怖の象徴として脳裏に居座るユーリは、フレンにさえ相談しないまま丸一年 ひたすら自分自身をごまかし続けた。子供にもできる給仕や物売り、あるいは子守、あるいは剣の 稽古。無理やり今までと同じ日常を送ってきたツケはある日突然やって来て、ユーリは倒れた。幸い その場に居合わせたフレンは泡を食って立ち竦むばかりの子供ではなかったので速やかに大人を 呼び、大人は医者を呼んだ。そして例の宣告である。何故?どうして?説明を受けたフレンは己が 病と死の関係を誤認していたことを知った。病とは医者に診てもらい、きちんと薬を飲めば必ず治る もの。病で人が死ぬのは下町の経済状態ではそれらが叶わないせいだと思っていた。でもそうでは ない、そうではなかった。明日から大人と一緒に働いてお金を貯めて、医者を呼び、いくら苦い薬は 嫌だと駄々をこねるユーリを無理やり説き伏せて必要な分だけ飲ませても、フレンが大人になって 騎士として剣を振るい二人の夢が叶う日が来ても、ユーリの病は治らない。その頃にはもうフレンの 手の届かないところにいるかもしれない。もしかしたら明日にでも、今夜にでも。医者は"おそらく"と いう言葉を用いて断定はしなかった。けれどそれが死神の鎌に似た鋭さをいくらか和らげる程度の 効果しか持ち得ない。 ひとつ予想が外れたのはユーリが苦い薬や絶対安静を拒否しないことだ。短い残りの人生ぐらい 俺の好きにさせろよぐらいの癇癪は予測していたのだが、驚くほどすんなり受け入れた。下町一の 問題児もさすがに堪えたのかと思えば何のことはなく、フレンのしたいようにさせてやるしか俺には 何もできないからと予測を大幅に超えて別の問題を抱えてしまっただけだった。人間そんな諦念を 持つには何十年も早い。子供は子供らしく我侭を言い、死ぬのは怖い、死にたくないと泣けばいい。 我慢強く弱音を吐かないのも善し悪しだと皆頭を抱えた。雨上がりの御剣の階梯に虹がかかったと 賑やかな広場を養生のため宛がわれた寝台から窓越しにじっと眺めていたり、皿に乗せて届けて くれた結婚式の振る舞いケーキを嬉しそうに二等分にして、どうせ俺あんまし食えないからと大きい ほうをフレンに譲る様子など見ているほうが辛い。やがて火の消えたような下町を慮ってか、程なく ユーリは知り合いのところに行くことになったとだけ書き残して姿を消した。まるで死期を悟った猫の ようだと誰もが肩を落とし、フレンは一生心に残るであろう傷を負った。 ので、バカ三人が炭屑になってもフレンはまったく弁護しようとは思わない。特に幼馴染のバカは もっとウェルダンに焼かれるべきだ。何が知り合いのところに行く、だ。知り合いってどういう知り合い なんだ、よりによって舞茸とは。そもそもだ、どこか別のところに身を寄せるならせめて行き先ぐらい 教えていくのが筋だろうに。医者の知り合いの知り合いの知り合いから紹介された知り合いの…と いった具合に、死に物狂いで行方を探したフレンが大人になってからも手がかりすら掴めなかった ように、ユーリとアレクセイの接点は皆無だ。心臓魔導器を開発したはいいが実用に耐え得るかの 実験には被験体が必要で、年齢が若く適応能力と体力がそこそこあって万が一失敗しても遺族に 訴えられることもなく、できれば本人の同意を得るために近々心臓を入れ替えたくなるような事情を 持った人間、ということで紹介を受けたのが初対面。短い話し合いながら条件ぴったり、ではよろしく という流れで合意に至り、手術は成功。術後の経過が芳しくないがそのケアを含めて生活の面倒を 見るのは当たり前、君さえ良ければお父さんと呼んでくれて構わないのだよ。なに最近友人の種馬 がな、グラマラスなクリティア女性とのあいだに娘がひとりいるにも拘わらずアスピオのインテリ美人 とも娘をこさえてな、私だって縁談がないわけじゃないが貴族の女は金がかかるし面倒臭いしでも 可愛い娘は欲しいなとは私も少しは思っていたんだが…男?その容姿でか?なに、気にすることは ない云々という経緯があるならあるでもっと早く説明すべきであって、死んだと思っていた幼馴染と 騎士団の採用試験で再会したときの驚愕といったら。 そしてフレンははたと気づく。僕はアレを相手に息子さんを嫁にくださいって頭下げなきゃいけない のか!と。 |