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大穴だらけの死体だらけ、誰も見たことのない巨大な魔物の咆哮が轟き鋭い爪が一閃、人間は 玩具の兵隊よりも簡単にバラバラになる、新鮮な鉄錆と焼け焦げた死肉の臭いが肺の隅々まで 満ち、生存者の肉体の隅々にまで循環する、そうして親しい者もそうでない者も等しく死に至り、 やがてその列に自分も加わる。が、さんざ思い描いたものより何十倍も何百倍も最悪な夢から 覚めて男はさらなる絶望を知った。どうして俺は、生きている?違和感が強く残る左胸で偽物の 心臓が脈打つ。なるほど、死の先に待ち受けるのは確かに地獄だ。 生死の境を踏み越えて世の理を理解した男は亡羊とした日々を無為に過ごすばかりで、いつ 食事をとったのか、いつ眠ったのか、今日が何月何日で今が昼か夜かもわからぬままただただ 時間を食い潰していた。頻繁に命の恩人と思しきお偉いさん、おそらく何者か知っているけれど、 思い出すのも億劫だ。お偉いさんは毎度何事か言っているようだったが、何もかもが右から左に すり抜けるのでまったく記憶に留まらない。煙のように跡形もなく消えてなくなることだけを夢見て ひたすら願う、そんな地獄にあるとき変化が訪れる。 十かそこらの子供が男の枕元に野花を置いていく。赤い花、白い花、黄色い花。あるいは飴玉 やら焼き菓子やら、甘いものが嫌いな男にとっては天敵に等しいものを。ぼんやりとした視界を やたらちょろちょろするのでさすがに目障りになって声を荒らげてみれば、子供はちっとも怯まず おっさんずるいと言った。誰がおっさんだ、誰が。子供から見ればおっさんには違いないだろうが イラッとした。しかし、子供は動じない。さも男のほうが悪いのだとでも言いたげに頬を膨らして、 おっさんはずるいと同じ非難を繰り返す。だって、生きたくても生きられないやつがいっぱいいる のに、俺だって。そう呟いてぷちぷちと寝巻きのボタンを外して開かれた子供の胸にあったのは 男の胸にあるものと比べてずいぶんと無骨な造形で、なんというか、試作品といった風情の歪な 代物だ。 お偉いさんによれば、男が死ぬ一年ほど前に子供は心臓の病で死の淵にあったそうだ。生き 延びるため否応なく施された代替品は新技術の完成に大きく貢献したという。今まで不具合は あったかと問われて男は首を横に振る。どれぐらいの月日が経ったのか定かではないが、そう 短い期間ではない。そのあいだ一度たりとも不調はなかったように思う。もし死の危険を感じた ことがあれば歓喜したはずなので。だが、実験段階だったソレはそこまでの性能はないらしい。 たまに不具合を起こしてはその都度死の危機に瀕する。いつまで保つのか誰にもわからない。 時々、子供の小さな胸では抱えきれない不安に押し潰されそうになる。けれども今すぐ死ぬより ずっといいと子供は言う。どうしてそこまでして生きたいの?男が尋ねると子供は答えた。俺が まだ生きてるから、生きてるなら、最期まで頑張らなきゃいけない。幼い子供とは思えぬシンプル ながら力強い言葉に、望んでもいない生を貰い受けて果てのない虚無の泥沼に漂っていた男は ひどく打ちのめされた。それが後のシュヴァーンと、アレクセイの養い子であるユーリとの出会い だった。 あのときのお前の気持ちがやっとわかったぞと、病床の男は不器用な作り笑いを浮かべてそう 言った。長年仕えた帝国に反旗を翻し、次期皇帝候補でもある皇女を道具のように扱い、帝都を 悪夢の境地に貶め、あまつさえ文献の読み違いから星喰みという古代の災厄を蘇らせた元騎士 団長アレクセイ・ディノイアは騎士団及び凛々の明星一行と交戦の末、巨大な魔核の下敷きに なって死んだことになっている。もはやアレクセイでも騎士団長でもない、大怪我を負い療養中 である男をなんと呼べばいいのか、かつての懐刀にも適当な呼び名が思いつかないので今や レイヴンとなった男は大将、と応えるに留めた。あの子の行方はまだわからないのか。男を匿う 室内に憤りを含む声が沈む。とんだお笑い種だ、自らの手で拾い上げた三つの命を自らの手で 葬ろうとした。さらにはそこまでしてでも貫こうとした覇道は完全に誤りだったのだ。その上、根底 から崩れ去った理想に涙するばかりの己を救った張本人がいまだ生死不明とは何たる皮肉か。 いっそ私が死ねばよかったのだと呟けば、いつからか死人の顔を見せなくなった男がそんなこと 聞かれたらユーリ君にぶん殴られますよと窘めた。あの子が無事に戻ってきて殴ってくれるなら それもいいなと虚ろに笑うあたり、彼の件がよほど堪えたと見える。昔から小さな衝突はよく目に したが、それでも彼らのあいだに親愛の情があったのは間違いない。年を経るごとに積み重なる 些細な不和が帝国に対する憤りと相俟って彼が養い親に一言の相談もなく騎士となり、去った 頃にはあらゆる負の感情を通り越して互いに無関心と成り果てていた。けれど、彼のほうは心の 奥底でまだ恩人を慕っていたのだ。死を以って己が招いた最悪の現実と、それを招いた悲哀と 絶望から逃避を図ろうとする男の手を引いて、それを許さぬ程度には。 義を以って事を成せ、不義には罰を。突然レイヴンがやけに芝居がかった物言いで重苦しい 沈黙を切り裂く。胡乱げなまなざしに、あの子の所属するギルドの掟なんですよと教えてやる。 素直で純粋、まっすぐでひたむき、それ故に傷つきながらも前に進むことを諦めないあの小さな 首領は何か大切なものを失ってしまった大人たちをひどく惹きつける。もちろん彼とて例外では ないはずだ。曰く、世界のために必要な重すぎる荷物をひとり抱えること、打ち明けられてない からといってそれを知らないままでいること、どちらも同等に不義であり、罰を受けねばならない という。その理屈でいけば誤った方法で帝国の在り方を変えようとしたアレクセイ、次第に暴走 していくアレクセイから目を背けたシュヴァーン、帝国もろとも見限ってしまったユーリは三人とも 罰の対象になるのではないか?男は強引な論理だと呆れた風に吐き捨てながらも真っ向から 否定はしない。みんなで罰を受けましょうやとレイヴンが片目を瞑って笑えば釣られて男もククク と笑い出す。虫けらを見下ろす狂気じみた笑みでも表向きだけ取り繕った澄ました笑みでもなく、 単純に可笑しくてたまらないといった爽快な笑い声だった。 もうどれぐらい男のこんな姿を見ていなかったろう、少なくともあの子が男の手元にいた頃には まだ。私たちは親子喧嘩からやり直さなくてはならないな、と男が呟く。幸いダングレストの赤い 空は昼間ならいつでも夕日の沈みかけた河原で拳と感情をぶつけ合い、長い空白のあいだに 積もり積もったわだかまりを解消するシチュエーションが味わえる。あとは役者が揃うそのときを 待つだけだ。不思議とそれは遠くないよう思われて、レイヴンは待ち遠しくて仕方がなかった。 |