※女体化、強姦、妊娠ネタ要注意






「 カルボラン酸の雨が染む 」



 憐れみを受けても仕方がないと理解する者にわざわざ憐れみの言葉をかけてやるほど残酷な
仕打ちもなかろうに、死人の鈍磨した神経ではそんなことさえわからぬのかと仕出かしたあとで
後悔した。シュヴァーンは騎士として職務に忠実な男ではあるが、騎士として当たり前に備える
べき正義感やら何やらは当人にとっては着脱可能なアタッチメント程度のものでしかない。故に
かすかに聞こえた女の悲鳴など素通りしたところで心の痛む出来事とはなり得ないはずだった。
だのに手を伸ばせば届く範囲で行われている反社会的な行為に何だかんだで介入してしまった
のは着脱の叶わない生来の気質の仕業と見える。
 その日、心地の良い夜風に誘われて市民街を巡り歩くシュヴァーンが出くわしたのは下町へと
続く坂道を横に逸れた、暗く狭くじめじめした路地で繰り広げられている婦女暴行の未遂、では
なく、完遂中のまさにその現場である。知名度だけなら抜群の橙の隊服は遠目の暗がりでもよく
見えたようで、制止の声が響くなり脱兎の如く逃げ出した不逞の輩ども目掛けて投げた一本の
短刀はその場にいた全員を足止めするには至らず、二人ばかり逃がしてしまった。得物が弓で
あったならばそのような不覚もなかったかもしれないが、あいにくとこの状況ではまんまと逃げ
おおせた卑劣漢の人相すらはっきりとはわからない。残るはこれから被害者本人の口から引き
出す情報が頼りとなる。しかし、状況が状況だけに果たしてまともな会話が成立するかどうか。
できるだけ被害者を怖がらせないよう、慎重に慎重を重ねて優しく穏やかに声をかけつつ助け
起こそうとして、言葉を失った。擦り切れた粗末な布服、おそらくは何代かに渡って受け継がれた
お下がりと思しきぶかぶかの男物は無残にも引き裂かれてぼろ布と化し、今更隠してもしょうが
ないといった諦念を伴う痣だらけの裸体が冷たい地面の上に力なく投げ出されている。何よりも
成長途中もいいところな痩せぎす、饐えた臭いの立ち込める惨状からシュヴァーンを睨みつけた
幼い面差し。女と呼ぶには何年も早い、ほんの子供ではないか。ぼさぼさに乱れた長い黒髪を
邪魔臭そうに掻き上げ、泣き出すでもなく取り乱すでもなく、やっと解放されたとでも言いたげな
気だるいため息を吐いた少女は確かにたいそう見目が良かった。さりながら子供はどうしたって
子供だ。他人の性癖に口を出せるお偉い身分ではないとはいえ、大の男が数人がかりで。情け
ない限りだ。さらに情けないことに、足の腱を浅く裂いて地べたに這いつくばらせたクズの一片を
詳しく取り調べた結果、連中は貴族階級の騎士であることが判明したのだ。仰るとおり、帝国は
順調に腐敗の道を進んでおりますよ閣下。シュヴァーンは心の中で上司に報告しておく。傷んだ
林檎を放置するとその林檎が発する臭気で全体が腐ってしまう、帝国はそれと同じだ。現在の
帝国は末期も末期、早く手を打たねば手遅れになる。あるいはすでに手遅れだとしても、死人は
口を出すまい。あの男の手によって賽は振られてしまったのだから。
 さて、保護した少女はといえば、もはや衣服としての役目を成さなくなったぼろ布の代わりに
シュヴァーンの橙の隊服を纏い、手続きのために詰め所で必要な聴取にも淡々と応じている。
男の自分がするよりいいだろうと呼び出した数少ない女性騎士もさすがに面食らっていた。俺が
ちゃんと証言してきちんと罰してもらわねえとあいつらまた同じことやらかして今度は別のやつが
痛い目見るかもしんないだろ。たかだか十三年しか生きてない子供の言葉だ。親のない子供が
下町という帝国の庇護の薄い環境下で生きていくには逞しくあらねばならないとしても、たいした
逸材だと感心する。意思の強そうな黒葡萄色のまなざしは少しも光を失っていない。腫れた頬は
時間が経過するにつれて紫色に変化して見るも痛ましいのに。やがて親代わりだという老人が
子供の身柄を引き取りに来た。怒りと悲しみを懸命に押し殺しているようだった。女性騎士から
ひと通りの事情を聞くあいだにシュヴァーンはちょいちょいと指の動きだけで少女を呼び、小首を
傾げるいとけない仕草に口元を緩めつつ手早く治癒術を唱えるとそばかすひとつない白く柔い
肌が見る見るうちに蘇る。すっげえ、ありがとな騎士様と礼を述べる笑顔は実に可愛らしく将来
有望で、下衆に共感を覚えてしまう男の性につくづく反吐が出た。そんな自己嫌悪を知る由も
ない少女はぶんぶん手を振りながら元気に帰っていく。だから可哀想、などとはそのとき思いも
しなかったのだ。決定的な過ちはその数ヶ月後に起きる。
 シュヴァーンは帝国騎士団隊長主席であると同時に別の顔を持つ。二重生活に忙しく、最初の
二、三度ぐらいは少女の身を案じたが、思い出す作業が必要なぐらいならそれは不要なものだと
切り捨てたきりすっかり忘れていたので、帝都で偶然再会を果たしたときは驚いた。あの極端に
おうとつの少ない体が、一部だけ不自然に膨らんでいたのだ。宿屋と酒場の看板がぶら下がる
建物の前で木箱を持ち上げたりなんかしていると、建物の中から飛び出した同じ年頃の金髪の
少年に叱られてしゅんとなる。シュヴァーンはひい、ふう、みいと指折り数えた。産み月にはまだ
早い。けれど未発達の体に十分すぎる負担となっていることは一目瞭然だった。黒髪の少女が
不服そうに言い募ると少年はひどく優しい表情をして何事か言い、そして壊れ物に触れるような
手つきで命を宿した腹に触れる。納得いかない顔をした少女がとうとう言い返せなくなったのを
見、少年は優しく微笑みながら屋内に戻っていった。あのまなざしには覚えがある。あれは男の
目、一丁前に恋をした男の目だ。だけど少年、本当にわかっているのかい?恋なんてするから
ひとは苦しむのよ?現実なんてものはいつだっていとも容易く愛や心や夢や希望や未来を踏み
躙るというのに、なんて危うい、おままごとの世界。
 可哀想に。思わず口にしてしまった。誰が、とは言わなくとも目の前には父親の名さえ知らぬ
子を孕んだ少女しかいない。誕生日を迎えたところで所詮十四の子供。ちょうど俺の半分じゃあ
ないか。故に、心の底から憐れだと思ってしまったのだ。あんなことがなければ、と。そのせいで
シュヴァーンは少女の涙を見る羽目になる。キッと噛みつくように鋭い視線は一見怒りに震えて
いるようであっても、潤んだ黒葡萄から次々と零れる涙はそうではないと訴える。ああ、そうか、
これが哀しみだったのか。
 失ったはずの感情から息を吹き返したひとつを拾い上げると、胸の真ん中あたりにぽっかりと
空いた洞で幻の痛みがぎしぎしと軋む。気丈な少女の心を土足で踏み荒らしたのは騎士だの
貴族だのとは名ばかりのならず者ではなく、真に悲しませたのはこの、心の無い男。ぽろぽろと
零れる生者の温い涙があまりに清く透き通るので冷たく濁る世界に沈んだ死人は拭ってやること
さえできず、いっそこのまま溶けてなくなればいいのにとひたすら己を嫌悪した。





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