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人物を容易に見つけることができた。見知らぬ人であっても女性の泣き顔は 見たくないなあと目で追ったその表情ははっきり怒りに満ちていて、どこか安堵 すると同時に何やったんだろあの人、と余計な心配をしてしまう。カフェ中の 客の目を一身に受けながら、当の本人はどこを吹く風、さして気にするでもなく マイペースにカップを傾ける。やがて周囲の異様なざわめきも元に戻っていった。 追わなくていいんですか?と向かいの席につくなりそう声をかけると、いいんだよ あの子とはもう終わったんだとフランシスは赤くなった頬をさすった。どうしたん ですフランシスさんともあろう者がと揶揄するように給仕にカフェオレを頼みつつ 探りをいれてみてもまーな、とあいまいに答えるそぶりから触れてほしくないの だろうと菊は踏んだ。以降の打ち合わせは順調に話がまとまり、雑談の合間に フランシスは胸ポケットに手を入れごそごそと探ったがカフェでの喫煙は禁止に なったばかりなのを思い出して苛々した様子で指を打楽器のようにテーブルで 鳴らし、急に神妙な面持ちになったかと思うとなあ、と切り出した。 「お前、恋ってしてるか?」 そう来るとは思わずに菊は一瞬面食らったが先ほどの平手の原因は恋愛の もつれかと察し、お決まりのパターンとしておそらくこのあとに続く相談にも真摯に 向き合おうと腹を決める。しかし年嵩とはいえ恋という気恥ずかしくも懐かしさすら 感じる単語に役立ちそうな経験はとんと思い出せない。少なくともここ数百年は まるで抱いたことのない感情だった。二次元を除いては。仕方なく随分ご無沙汰 ですねえと正直に答えればそうだよなあ、色恋ごとにうつつを抜かすお前なんて 想像できないもんなあとフランシスは笑う。釣られて菊も笑い、そういうあなたも 惚れたはれたで己を失うところは想像つきませんと少し冷めたカフェオレに口を つける。 「まーあれだよ、大人の付き合いってやつ?恋愛のうまみだけ味わって飽きたら 後腐れなくさようなら、本気になったら負けってな」 詩でも諳んじるような軽やかな台詞はフランシスらしい言い草だ。諸手を挙げて 賛成はできかねるがそんな恋愛の駆け引きを成り立たせるためにはある種の テクニックが必要だろう。人付き合いが得意でない菊はその器用さを羨ましくさえ 思う。こんなやつ見習ってどうすんだというアーサーの声が頭の中に響かない でもなかったが、己にないスキルというのは往々にして素晴らしく見えるものだ。 「…てのが今までの俺ね」 と、菊の思惑をよそに不意にフランシスは話の転換点を見せた。何か心境の 変化でも?と尋ねれば思わせぶりな含み笑いが返ってきて、なんつーか本気で ぶつかんねーとびくともしない相手を好きになっちゃったっていうかーと照れの ためかそっちこっちへ落ち着きなく視線をさまよわせながら予想外にまっすぐな 恋をしているような答えがあった。なんとも微笑ましいではないかと菊も口元を 緩ませる。では先ほどの女性はその恋のために幕を引いたということだろうか。 恋多きフランシスにしては一途なことだ。思わず応援したい気持ちになり、突然 キスしたら怒られるかなー?などと参考にもならない相手にそのような質問を してくるフランシスにいきなりはいけませんよいきなりは、ちゃんと告白して順番を 踏んでからですね、と当たりさわりのない助言を与えたりなどしていたのだが、 突如そうかよし!と大声をあげたかと思うとフランシスはがたんと椅子を鳴らして 立ち上がった。菊も腕を引かれわけもわからず無理に立たされたかと思うと 次の瞬間強く引き寄せられ、再びカフェ中の客の視線を集めながら愛を囁くのに 向いているとされるフランス語が正しい用途に使用されたのち、菊は己の口が 呼吸や飲食や会話のためだけに存在するのではないことを久方ぶりに思い出す のだった。 |