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個人に限ってはあまりいい印象がなかった。強引な態度でまだ見ぬ統一を確約 してかつての戦国時代のようにバラバラなドイツ三十諸国との条約をいっぺんに 結ぼうと迫ってきたことももちろん少なからず影響はあるが、プロイセン単独を 条件に無事話が進みいざ締結するにあたって互いに握手を交わそうとしたその とき、ギルベルトは差し伸べられた菊の手を振り払い、東洋の猿の手なんか 握れるかと悪し様に言い放ったのだ。慌てて即座に立ち上がった彼の上司が このバカ!謝れ!すみませんこいつバカなんです!とギルベルトの頭を押さえ 畳に額をこすりつけ、一時騒然として刀に手をかけた者もさえいた菊の部下 たちは直々の制止もあって落ち着きを取り戻し、両国の友好のためにもその 一件はなかったことになった。ただ、元来相手に接触する習慣を持たない菊の 大きな勇気を要したその右手に残るわずかな痛みが、胸の奥深くにまで達する ような錯覚を菊は拭いきれずにいた。やがて両国間の交流が盛んに行われる ようになってもその棘は深く突き刺さり、以来二人は会話を交わしたこともない ままだ。菊が挨拶をしても、ギルベルトは冷ややかに一瞥をくれてやるだけで 応じることはなく無言で立ち去っていく。そんなすれ違いが長く続き、時代は 変わって江戸から明治へ。近代的な憲法を制定するにあたり、日本はプロイセン を範とすることに決めた。けれどギルベルトは直接関わることはない。教えるのは もっぱら学者で、ギルベルトはその進捗についてたまに報告を受けるのみだ。 勤勉な彼らの飲み込みは早く、学者も驚くほど。しかしひとつ気がかりな点が あった。学者からそれを聞いてギルベルトは俺から言っておくと答えた。その日、 菊はギルベルトから部屋に来るよう伝言を受けた。当然菊は困惑した。今まで ギルベルトから接触があったことなど一度もない。嫌われているのだろうという 思いは、菊に嫌な想像ばかりを招いた。おそるおそる踏み入れた部屋では ギルベルトが豪奢な椅子にふんぞり返るように足組みをして座っていて、よもや 戦争とまではいかないだろうがそれなりの覚悟と構えは忘れずに話しかけると、 意外と言うべきかギルベルトが尋ねてきたのは憲法のことだった。菊の考えを いくつか聞き、ギルベルトが言ったのはこの東洋の猿が、猿真似してんじゃ ねえよといつぞやのような見下した台詞だった。やはりギルベルトは自分を 嫌っていて、苦労して作り上げた自国の憲法を安易に取り入れようなどとする 輩が気に食わないのだろうと思った矢先、続けざまにギルベルトはまくし立てる。 そもそも憲法っつうのはな、その国の歴史や伝統や文化を下敷きにして成り立つ もんであって、俺んとこの憲法をそのままお前んとこで使おうったってうまくいく はずがねえんだよ。何でもかんでも西洋の真似するのがいいことじゃない。お前 にもいいとこあるんだから、いい憲法作りたかったからまずお前んとこの歴史を 勉強しろ。呆気にとられた菊はしばし何かものを言うのを忘れて、己の内でその 一字一句を反芻して、そして笑い出した。なんだよ、と思いも寄らない反応に ギルベルトは怪訝な顔をする。あなたに褒められるとは思いもしませんでした、と 菊は屈託なく笑う。フン!いいものいい、それだけだと腕を組んでそっぽを向く ギルベルトの顔はやや赤らんでいた。その様子が年嵩の菊には年頃の少年 めいて見えて微笑ましく思えた。長い冬の間積み重なった雪の層が春になって 暖かな陽射しに融かされていくように、あっという間に菊の中で重く胸を支配して きたものはすべて瓦解して消えてなくなっていった。あとに残ったのはひとつの 疑問だけ。どうしてあの時握手してくださらなかったのですか。菊が問えば、 ギルベルトは見るからに気まずそうに後ろ頭を掻いた。しばらくの逡巡があっても 変わらず菊がまっすぐに見つめ続けるとそのうち根負けして一目惚れなんて 恥ずかしいだろうが!と乱暴に言い捨てるに至った。またもや呆気にとられて ギルベルトを見ると、おかしけりゃ笑えよ!と真っ赤な顔で喚くのでたまらず 吹き出すとすかさず笑うな!と怒鳴られる。一体どうすれば満足するのか、 ともかくようやく得心のいった菊はもはや笑みを堪えられない。これでギルベルト という男のことが少しはわかった気がした。悪態は恥ずかしがり屋な彼なりの ポーズなのだ。ありがとうございます、いい憲法作りますねと微笑みかければ 菊の視線に弱いギルベルトはうっと呻いてお、おうといささか頼りなくも頷いた。 その後、出来上がってみれば明治憲法は見事にプロイセン憲法の影響を受けて いて、いいところは真似するのが私どもの文化なのでとしたたかに言ってのける 菊の抗えない引力に、ギルベルトはまた目を奪われたとかいうのはまったく もって秘密である。 |