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※死にネタ注意! 俺たちは他にすることもなくただ途方に暮れて、結局何でも屋をしていた借家に 戻った。この半年ちょっとのあいだ家賃を払っていないからとっくに家具や細々と したものは撤去されてると思ったらホンダキクという人が俺たちの代わりにずっと 家賃を振り込んでいたと大家さんに聞いた。"本田菊"。それが菊のフルネーム だと俺たちは初めて知る。室内は埃っぽいけど町を出て行ったときと変わらない 慣れ親しんだ住処だ。初めは俺とルーイ、そして菊が増えて…楽しかったのに。 金銭契約なんてどうでもよくなるぐらい幸せだったのに。菊は違ったんだろうか。 菊が言ったことは全部嘘で、そのうち俺たちも菊のことを忘れて、まるで菊なんて 人間は元々存在しなかったみたいに生きていくんだろうか。それじゃあんまりだ。 考えれば考えるほど暗くて重たい気持ちになるから俺たちは自然と菊の話題を 口にしなくなった。暇で暇で仕方がなかったからお金は有り余るほどあったけど 何でも屋も再開した。庭の芝刈りをしたり、浮気調査に駆り出されたり、驚くほど 簡単に俺たちは日常を取り戻した。意外だったのは町の人たちも俺たちが帰って 来るのを待っていて、俺たちがいないせいで不便をしていたと口々に言うことだ。 金のためなら何だってしてきた俺たちが、多少の金銭を受け取るとはいえ本当に 何だって、人の命だって平気で奪ってきた俺たちが、こんなに信頼されるなんて。 俺はまたひとつ何か大切なものを手に入れた気がした。人はどこまで堕ちたって 這い上がれる、俺たちがクズだったのはなかったことには出来ない事実だけど、 変われないことなんかないんだって、そう思った。この温かい嬉しい気持ちを他の 誰より菊に伝えたいと願いながら叶わないままあっというまにひと月近く経って、 俺とルーイが仕事から帰ってくるとドアを開ける前から全身がゾワゾワするような 違和感を覚えた。いざっていうときのために武器は家の中にも外にも隠してある。 殺気は感じなかったけれど念のため銃を手に俺たちは気配に気づかないフリで 家の中に入っていった。目を凝らすと真っ暗なリビングに人影が見える。引鉄に 指をかけて蛍光灯のスイッチを入れると、見知らぬ侵入者はまったく動じないで 悠々とお茶を飲んでいた。コンロには湯を沸かしたらしいヤカンがある。自分で お茶を淹れて飲んでいたみたいだ。なんて図太い侵入者なんだろ。部屋の中は 泥棒が入った直後のように散らかっている。こいつの仕業なのは間違いない。 「ああ汚くしてごめんね?本田君が君たちに託してないか調べたかったんだよ」 にこにこ笑う侵入者はそう言った。俺たちは"本田"なんて男なんて知らないし、 何も託されてなんかいない。俺たちが知ってるのは"菊"で、残していったのは 大金とどうにも片づけられない感情だけだ。菊の秘密を俺たちは最後まで知る ことが出来なかった。ここを探しても何もあるわけない。すると男は「本田君も 残酷なことするよね、可哀想に」とクスクスと癇に障る笑い方をした。俺たちの ことを何も知らない人間に表面だけ浚って哀れみを向けられるのは屈辱でしか ない。つい悪い癖が出そうになる。引鉄をひいてしまいたくなる。だけど男は笑う だけだった。「何も知らない?少なくとも僕は君たちより本田君のこと知ってるよ、 教えてあげようか?」その言葉が俺を余計に苛立たせた。ルーイもきっとそうだ。 この男から菊のことを聞きたくなんてなかった。こんな風に知らされるぐらいなら 俺たちは自力で菊を探して本人に問い詰めたかった。菊の口から聞きたかった。 なのに男は勝手にぺらぺらと語りだす。それはにわかには信じがたい、現代の 御伽噺だった。とある大手製薬会社の社長の弟は進行性の不治の病を患って 余命いくばくもなかった。現時点で治療法はない。だから兄は法をいくつも破って 愛する弟のために魔法の薬を作り出した。長く生きようとすればするほど病巣が 広がるなら命の針を止めてしまえばいい。少なくとも死なないで済む。ただし短い 研究時間では完璧な不死は完成しなかった。新たに怪我や病気をすればそれが 命を奪うことも充分にあり得る。病気をしないように無菌室に閉じ込めて、怪我を しないようにベッドに繋いで愛しい弟を大事に大事に守らなくてはならない。薬も 絶やしてはいけない。それは毒でもあるのだから。しかし彼は逃げ出した、薬の 製造法の半分を持ち出して。世の中に死にたくない人間はゴマンといる。研究を 進めていけばいい金になるだろう。薬の情報を交換条件に社長はある男に弟の 捜索を依頼した。弟を無事見つけ出してくれるならマフィアと呼ばれる職業の者で あっても構わなかった。「…それが僕、なんだよね」ふふ、と男は笑う。「君たち、 どうして追っ手を殺すの止めたの?そうしてれば君たちがここに戻ったことも嗅ぎ つけられなかったのに。まあ本田君の嫌がりそうなことだよね。ああ、僕の部下を 殺したことなら別にいいんだ。無傷で確保しなきゃいけないのに発砲するなんて、 ちゃんと命令聞いてなかったのかな?どっちにしても処分しなきゃいけなかったし 気にしなくていいよ。手間を省いてくれた君たちに何かするつもりはないから安心 してね。残りのデータも破壊されちゃったし、持ち逃げしたデータの持ち主はもう 存在しないし、ここも関係ないデータしかなかったしね」男は来客用ティーカップの 中身を飲み干すとそれじゃあねと親しい顔見知りのように去っていった。俺たちは 男の話の内容を理解するのに精一杯だった。「ルーイ…」と縋るように隣を見ると ルーイも愕然として銃を取り落とした。暴発しなかったのがラッキーだ。そのぐらい 余裕がなかった。俺だってそうだ。だって、だってあいつの言ったこと。"データの 持ち主はもう存在しない"。そんなの信じられない。信じたくない。だって、菊は、 おかしいよ!そんなのおかしい!そうだよ、そんなのおかしいんだ、絶対嘘だ。 あいつは嘘を言ったんだよ。そうじゃなきゃいけない。だってそうじゃなきゃ俺は どうしたらいいの。俺たちがやっと手に入れたと思ったきれいな世界が急にこの 部屋みたいにごちゃごちゃとゴミが散乱した汚い世界になっていくのを感じた。 ルーイはいろんなものが散らばった床を気に留めることなく歩き出してさっきまで 男が座っていた席に置いてあったディスクを手に取った。こんなもの一体どこに あったんだろう?菊はどういうつもりでこんなものを隠してたんだろう?俺たちが ここに戻らないかもしれないのに、俺たちが見つけられないかもしれないのに。 現に俺たちは今まで気づきもしなかった。そんなことして今更何だっていうのって 思いながら開いたディスクには数枚の画像が入っていた。まだここで菊と一緒に 暮らしてた頃の画像だ。カメラの修理の依頼があって、それが完了した日に俺が 『ねえねえちゃんと直ったかテストしてみようよ!』って何枚か撮ったその画像。 俺の指が写りこんでるけど俺とルーイと菊がいて、笑っていた。菊は確かに存在 していた。夢や幻じゃなかった。俺たちはちょっとだけスリルを伴う逃避行をして、 菊はまた別の旅に出たんだ。そうでしょ?いつかまた会える、きっと会えるよね。 菊は俺たちを捨てていったんじゃない。菊は遠い未来、どこかでちゃんと俺たちが 来るのを待っている。この画像が証拠だ。だから俺たちはちっとも寂しがる必要は ないんだ。頬を生温かいものが伝ってく。でもこれは悲しいからじゃないんだよ? ねえ、菊。俺とルーイは明日からまた明るい世界を生きていくよ。 |