※死にネタ注意!




 最初の国を出て、それから半年。まっさらだった偽造パスポートにはスタンプが
いっぱいで、まるで海を跨いで忙しく働く真っ当なビジネスマンになったみたいな
気分だった。この半年で菊についてわかったことは少ない。名前も本名かどうか
俺は知らないけどデイジーなら可愛くて菊にぴったりだ。それから菊はパソコンで
悪いことをするのが得意だ。「ああそうだ、お二人がクズなら私もクズってことに
なっちゃいますね、あはは」なんてあっけらかんと笑うから、俺は自分を卑下する
ことも出来なくなった。ありもしないお金を作ったり、いもしない人のパスポートを
作ったり。悪いことが得意なのは俺も同じだけど痕跡を残さないでそういうことが
出来るのはたぶんすごいことなんだと思う。あとは洗濯も料理も掃除も得意で、
俺がちょっと悪戯するとこら!フェリシアーノ君!ってお母さんみたいに叱るんだ。
それから何かの病気、らしい。これは俺も心配してるんだけど、菊は全然教えて
くれない。毎日たくさんの錠剤を飲んでいるのを見かける。その量が尋常じゃない
から、痛い顔も苦しい顔もしないけど本当はすごく重い病気なんじゃないかって
不安になる。そして何かに追われてる。物騒なお客さんがたまに押しかけてくる
たびに俺たちは隠れ家を移動しなきゃならない。なるべく相手を傷つけないように
やっつけて足取りを消すのは始末するより大変だけど、これは俺とルーイの約束
だから仕方ない。最後に、初めて俺たちが会ったあの日、菊の肩にあった銃創。
実はまだ、塞がってない。ルーイが包帯を取り替えてるのを見ると、半年も前に
負ったとは思えない生々しい傷口があって、ガーゼには血も滲む。それが異常
なのは俺にだってわかった。生まれつき傷の治りが遅いんです。もうそんな嘘
じゃ済まないことも。もしかしたら菊が追われてる原因はそこにあるのかなって
俺は思ってたりする。でもこれ以上踏み込んだら何もかも終わっちゃう気がして
何も聞けない。それに何も知らなくたってこの半年は映画の登場人物になった
みたいに楽しくて、特に南の島に行ったときなんか傑作だった。バカンスらしい
服装を選んだつもりなのにアロハシャツにサングラスかけたルーイがどう見ても
迂闊に話しかけちゃいけない人に見えて俺たち全員の荷物検査をされたんだ。
菊の膨大な薬がバレたらマズイってドキッとしたらトランクにはエックス線対策が
仕込んであって結果的にはうまく通り抜けられたんだけど、ムキムキのルーイが
深刻な顔をして俺のせいで本当にすまないって謝るから俺と菊は可笑しくって!
あれ以来ルーイはサングラスを避けるようになった。これで結構堪えてるんだと
思うと今でも思い出し笑いしそうになる。それに菊はいつも困ったみたいにしか
笑わないから、俺はあのときみたいに菊に心から笑ってほしくていろいろな話を
するんだけどなかなか難しい。思い出話には菊に聞かせられるようなきれいな
ものがあんまりない。だからいつも何でも屋に関係する話が多かった。ショコラ
ちゃんっていうペットの世話の依頼のとき可愛い犬か猫なんかを想像して迎えに
行ったら俺を頭からボリボリ食べちゃいそうなでかいワニで、半泣きでルーイに
代わってもらったとか、鍵を失くした金庫を開ける依頼のとき中に何が入ってる
かと思ったら二十年も行方不明だった結婚指輪が出てきてとても喜ばれたとか、
そんな他愛のない話ほど菊は優しい顔で笑って聞いてくれるからなんだか俺の
ほうが嬉しかった。菊は分担した家事とか食事やおやつ以外の時間はほとんど
パソコンのある部屋にこもっちゃうからその分まで俺は一生懸命口を動かした。
コメディアンみたいに完璧な笑い話が出来たらもっとたくさん笑ってくれるかなと
考えたことがある。でもそれはニセモノのお話でしかなくて、菊はたぶん笑って
くれるだろうけど俺が見たいのはホンモノの笑顔だったからやめた。こうやって
今まで考えたこともないことを考えるようになって気づいたのは人に話したくない
過去を引きずってる俺にも人並の当たり前な日常が許されて、その中に幸せな
コトもあるんだって。菊がいないあいだにそんなことをルーイに話してたら「お前は
菊が好きなんだな」と言った。うんそうだよ、俺は菊が好きだよ。素直に認めたら
「そうじゃない、恋愛の"好き"だ」と指摘された。その途端、俺は世界が引っ繰り
返ったみたいな衝撃を味わった。だって否定出来なかった。そんな感情が俺にも
あったなんて!驚いたけど、信じられないけど、言葉にすればするほど俺の中で
確信が募っていく。キスしたりハグしたり、それだけじゃなんか足りないなあって
思ってたのも全部説明がつく。奪いたいとか汚したいとかそんな凶暴な感情じゃ
なくて、そばにいるだけ幸せで、温かくて、こんな日々がずっと続けばいいなって
いう願いが心を占める、そんなもの。菊の薬はこのペースだったらひと月足らずで
尽きてしまう。依頼は薬がなくなるまで、だった。もう時間が少ない。夢はもうすぐ
終わっちゃうんだ。「それなら得意の泣き落としでもすればいい。"求めよ、さらば
与えられん"って言うだろう?俺も今の生活は気に入ってる。もちろん菊のことも。
頭を下げるなら手伝ってやる」ルーイが苦笑しながら口にしたのは聖書の文句。
今までの俺たちは神様の教えを踏みつけにして、求めた分だけ失ってきたのに
今更許されることはあるんだろうか。俺はもう神様に許されなくていいから菊に
許されたい。多くは望まない。俺とルーイと菊の三人、もうそれだけでいいから。
俺は声にしないで何度も菊を呼んで祈った。どうかそばにいて、そばに置いてよ。
俺の願いが届いたように菊は飲む薬の量を徐々に減らしているようだった。でも
ロスタイムが増える代わりに菊の体調は目に見えて悪くなっていった。俺たちの
目のないところで壁にもたれかかってたり、床にうずくまってたり、食べたものを
戻してたり、俺たちに悟らせたくないみたいだったけどバレバレだった。このまま
だったら菊は死んじゃうかもしれない、けど薬の量を戻したら菊はあっというまに
いなくなってしまう。だけど放っとけない。どっちが大事かなんてわかりきってる。
俺は前と同じに薬を飲んでと頼んだ。「菊がいなくなっちゃうのは嫌だけど、菊が
つらいのはもっと嫌なんだ」両手で菊の小さい手を包み込んで縋ると、菊はまた
困った風に笑う。「あなたの気持ちはとても嬉しいです。でも私にはやらなくちゃ
いけないことがあるんです、それまでは…ごめんなさい」ソレが終わるまで菊は
苦しいのを引き伸ばさなきゃいけない、菊はソレが何か教えてくれない。つまり
俺は力になれない。泣き出したい気持ちってこのことだ。項垂れる俺の頭を菊は
子供にするみたいに撫でていた。やっぱり菊はマンマみたいだなと思ったら少し
胸のあたりがじわあって温かくなった。そうして薬も残りワンシート。ほんとなら
一日分にも足らないのに最近は一日に一錠飲むかどうか。もし薬がなくなったら
どうなっちゃうんだろう。最悪のことしか思い浮かばない。必死で考えないように
していたある日、ドアから這いずるように出てきた菊は「やっと終わった…!」と
喜びを噛み締めるように声を絞り出してそのまま気を失った。目を覚ましたのは
次の日の朝で、菊が死んじゃうんじゃないかと気が気じゃなくて一晩中ルーイが
運んだベッドの横に座っていた俺たちはもういっぱいいっぱいで、眠いとかおなか
すいたとか感じる余裕もなくて、ただ菊と一緒にいたくて、何でもするからお願い
しますって一度は捨てたはずの神様をバカみたいに信じるしかなかった。「もう、
フェリシアーノ君もルートヴィッヒさんもしょうのない人ですね…」って力の入らない
手がそれでも俺たちの頭や頬を撫でてくれるのが嬉しくて、どうしても伝えたい
ことは言葉にならなかった。そうやって俺は神様はそうそう都合よく救いの手を
差し伸べてくれないと知る。三日後、菊はいなくなった。もう体は平気だと前夜は
久々に菊が手料理を振る舞ってささやかなパーティをしたばかりだった。食べて
飲んで歌って騒いで笑って、俺は明日こそカッコワルイ泣き落としでも何でも菊に
お願いしようと思ってて、その朝に菊は消えていた。残されていたのは十年は
派手に遊んで暮らせそうな札束と、死ぬまでお金に困ることはなさそうな額面の
二人分の通帳と、何でも屋をしていた借家の鍵と、行く宛てのない俺の気持ち。
ごつごつのルーイの手が慰めるように撫でてくれる。子供の頃はお互いこうして
たっけと思って、拳を握り締めるルーイの頭を背伸びして撫でてやった。これで
失ったものが埋められるわけじゃないってわかってるけど、昔から俺たちは他に
どうしたら泣かずに済むのかわからなかったんだ。ねえ菊、菊はどうして俺たちを
置いていったの?





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