※死にネタ注意!




「 Farewell, my dear ghost. 」



 ようやくすべての荷物を運び終えてフランシスはフローリングに寝転び、大きく
伸びをした。前のアパートは学生時代から住んでいて思い入れもあったが道路
拡張に伴う解体となれば仕方がない。幸い大家の紹介ですぐ見つかった新居は
駅やコンビニも近く日当たりも申し分ない好物件。なのに家賃は格安ときている。
俺ってツイてるなと浮かれていたフランシスはその原因を探ろうともしない。だが
それは即日嫌でも判明した。入居したその夜のこと、枕元をワンパターンな白い
着物を着た何者かが通り過ぎたのだ。予告のない客には足がなく、透けていた。
怖くなかったといえば嘘になる。しかしどこか懐かしい気配がして恐怖だけでは
ない何かに奇妙な安らぎを覚え、いつしか眠っていた。フランシスは翌朝一番に
不動産屋に怒鳴り込み、人の良さそうな顔であの部屋を勧めた男を締め上げると
幽霊の正体はあっさり知れた。八年前、そこに住んでいた本田菊という男が心臓
発作で亡くなったのだという。どうりで懐かしく感じたはずだ。本田菊はそのさらに
二年前、当時まだ大学生だったフランシスが振った男だった。ずっと大学に来て
いないと話に聞いていたが、死んでいたとは知らなかった。それも、八年も前に。
フランシスが菊と知り合ったのは共通の友人の紹介がきっかけで、菊はあまり
積極的に話すほうではなく印象は極めて地味だった。その分、滅多に見れない
朗らかな笑みなどは恋愛感情を持っていないフランシスにも動悸をもたらす存在
ではあった。そんな菊に慕われて嫌なわけがなかった。性別自体気にしたことも
ない。ただ、自分のことは二の次で、そのくせ見返りも求めない菊の愛情が若い
時分には重く感じたせいだった。もし菊が未練を残して成仏出来なかったのだと
したら、その元凶は己にあるのではないかとひたすら気分が沈んだ。

 重苦しい知らせを菊が住んでいたあの部屋に持ち帰るのは気が引けたが他に
帰る場所はない。重い足取りでやっとたどり着いた部屋の前でフランシスは再び
驚愕する。部屋の明かりがついていたのだ。幽霊部屋という事実に鳥肌が立つ。
それでも逃げるわけにいかない。いけるぞ俺、いけるいける!まずスライディング
土下座だ!と勢いをつけて突入すると、フランシスの目の前には心霊番組で見た
ようなポルターガイスト現象の残骸ではなく引っ越し二日目とは思えない荷物が
すっかり片付いた室内があった。テーブルには温かい食事まで並んでいる。一瞬
部屋を間違えたかと思ったぐらいだ。そしてオーソドックスな昨夜の白い着物では
なく生活感溢れるあずき色のジャージの透けるものはにっこり笑ってフランシスを
出迎えた。
『おかえりなさい!』
 フランシスは目の疲れや異常を疑って一旦部屋から出て目元を擦り、もう一度
そっとドアを開いて覗き込んでみたが目の疲れでも異常でも幻覚でもないようで
半透明の菊はくすくす笑っていた。驚かせてすみませんと謝罪を口にしながらも
その表情は裏腹に楽しそうだ。実は菊と不動産屋はグルで、誰も死んでなんか
いない、菊は今も元気にしていてちょっとおふざけをしたかったのだと言われたら
信じてしまうに違いない。足があって、透けてさえいなければ。おそるおそる指を
差して、お前俺を恨んでるんじゃないのかと聞けばいいえと菊は首を振る。普段
フランシスが愛用しているキッチンミトンを宝物のように抱えて言った。不思議な
ことに死んでから先のことがわかるようになったんです、あなたが越してくるのが
わかったらままごとみたいな真似がしたくなってついここに残ってしまいました、
ずっとあなたのために何かしたかったんです。そうして菊は幽霊にしておくには
惜しいほど幸せそうに微笑むのだ。冷めないうちにと勧められるままに味わった
料理はどこか懐かしい家庭の味がして、うまいと素直に褒めれば嬉しそうにまた
笑う。昔の菊はこんな風にまっすぐ感情をあらわにする男ではなかった。それで
ほだされたというか、戸惑いながらも結局フランシスは菊の気が済むまで好きに
させることにしたのだった。とはいえ戸惑いは最初のうちだけで時間を経るごとに
次第に馴染んでいった。両隣にはひとりごとの激しい住人だと思われているかも
しれないが菊の姿はフランシス以外には見えないのだから説明のしようがない。
そんな非日常が日常にすりかわった日々が一年も続けば菊は同居人という枠を
超えて立派な恋人だった。肉体の交わりを持てない相手にはいつまで経っても
純粋な愛情ばかりが溢れた。己にしか聞こえない声で恥じらいと共にフランシス
さんと呼ばれるだけで胸の中が温かく満たされるのがわかるぐらいに。ある日、
その声が行きがけのフランシスを呼び止めた。掃除や料理といった家事の他に
菊が得意なことがもうひとつある。天気予報だ。先読みの力のせいだろう、気象
予報士が外しても菊の天気予報は絶対に外れなかった。帰る頃に一雨きますよ
と持たせてくれた傘が何度役立ったか知れない。空は青々と晴れていたが菊の
言葉に従って傘を持って出て行く。けれど妙なことに駅を出ても一向に雨が降る
気配はない。珍しいこともあるもんだと仕方なしに歩き出すと、電車に傘を忘れて
しまっていたことに気づいた。安いビニール傘でも菊が渡してくれた傘だ、咄嗟に
踵を返した瞬間、鼓膜が破れるかと思うほど大きな金属音が全身を震わせた。
振り返ると金属の柱がまだ生き物のように跳ねている。すぐ脇の建築現場から
作業員の騒ぐ声が聞こえる。クレーンで吊った建材がフランシスの背後を掠めて
落下したのだ。運が悪ければ、傘を取りに戻ろうとしなければ、確実に直撃して
いた。下手すると命はなかったかもしれない。もし傘を忘れていなかったら、もし
菊が雨を予告していなかったら。菊は先のことがわかる。ならばこれも予知して
いたのだろうか。本当だったらここでフランシスが命を落とすことを。急に得体の
知れない不安に襲われて、命を救われた傘のことも忘れてフランシスは部屋に
駆け戻った。いつもと違って部屋には明かりがなく、テーブルでは冷めた料理と
菊らしい丁寧な筆致の書き置きが待っていた。広告の裏にただ一文。"思い出を
ありがとうございました"。菊の姿はどこにもなく、フランシスの心をもぎとったまま
二度と現れることはなかった。





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