私が彼と初めて直に対面したのはこの身の内に巣食う不穏な感情に気づいて
から一週間後のことだった。エーデルシュタイン家での用を済ませて帰ってきた
私に、彼はもう弟が姿を見せてもむやみやたらに怯えたりしないようだと末弟が
告げたのだ。可能ならあの冷たい鉄扉越しなどではなく同じ空間を共有して彼の
ために音楽を奏でててみたいと思っていたのは確かだったが、これほど早く実現
すると却って戸惑ってしまう。あんなことがあってからは余計に。荒れ狂う音色、
暴走するピッチ、操縦の利かない強弱、まるで私が私ではなくなったような感覚。
顔も知らぬ相手に何を血迷っているのだと何度自身に問いかけたことか。その
顔、そのまなざし、その表情、出会ってしまったら私の中で別の生き物のように
存在を主張する何かがどう反応するのだろう。私はそれが恐ろしかった。それと
同時に、私は念願が叶うことに喜びを感じていた。当然東洋にも楽器や音楽は
あるだろう、しかし彼は西洋のそれを知らない。相手の知らぬものを馴染ませて
いくのは処女雪に足跡を残すような不思議な陶酔を私にもたらした。彼がどんな
風に耳を傾けているのか、あるいはどんな風に私を見るのか私は知りたかった。
耳障りな金属音を伴って開いた重い鉄扉の向こうは幼い頃から見知った通りの
石造りの牢獄で、彼はいつもと同じように私の奏でる音楽を聞くつもりだったのか
扉のすぐ前にいた。私が扉を開けたことに驚いたようで地下の薄闇よりもずっと
純度の高い漆黒の瞳を瞠り、私と目があった途端壁を背にするまであとずさる。
短い悲鳴が今まで築いてきたはずの、いや、私が築いたと勝手に思い込んで
いた信頼をすべて打ち崩した。何故私のほうが傷ついたと思うのかわからない。
彼がここにいる事情を知っていれば簡単に事が進まないのも承知の上なのに。
やり直しだった。全部やり直すしかない。それでもいい、それでいい。私と彼は
今日初めて出会ったのだから。
「初めまして、菊。何も怖がる必要はありませんよ、私はあなたに何もしません。
ただここで趣味の音楽を奏でたいだけです。しばらくお邪魔しますよ」
 私は最初の日と同じ台詞を選んだ。あれからどれだけの時間が流れただろう、
季節はそろそろひと巡りしただろうか。でもここには季節も時間も何もない。彼は
まだここに来たときと変わらない、少し西洋の音楽を耳にしたことがあるだけの
連れ去られてきた東洋人、粗忽者の弟のせいで西洋の人間を過剰に恐れる
哀れな男、弟の愛する人。私の役目は骨の髄まで染みついた警戒を少しでも
和らげて弟の弁解を聞いてもらう機会を作ること。出来ることなら純粋な分だけ
不器用で乱暴だった愛を許して、もう一度弟と向き合ってほしい。それが家を
出たとはいえ、血のつながった兄としての役目。私は繰り返し己に言い聞かせ、
それ以上は一歩も動かずヴァイオリンを弾いた。すると彼の悪魔でも見たような
震えはぴたりと治まって、向こうから近づきはしないもののそこから怯えきった
視線がおそるおそる楽器と、私の指先と、私を見る。一年近く扉の外から音楽を
奏でていた者の正体が私だと気づいたのだろう。彼はじっと見ていた。ちょうど
私の周りから見えない音の形をしたものが次々と放たれていくのを見るように、
彼の目に逃げの姿勢はなかった。先ほどの彼とはまったく違う彼がいた。曲の
合間に私も彼をちらりと見る。彼が弟の。恋愛沙汰とはてんで無縁の、剣や力で
どんな道でも開けると疑いもしない、生まれながらの戦士のような男が、相手の
気持ちも汲むことすら忘れて恋という迷宮に迷い込み、いまだ出口の見えない
暗路にいる、この地下室のように。その出口たる男。私が弟の恋を闇のようだと
思ったのは彼の瞳だけではなく髪も美しい漆黒だったからかもしれない。決して
華やかな容姿とは言えない、だが弟は言った。とても優しく笑うのだと。今の彼に
そんな面影はない。捻じ曲げられた彼の本質を悲しく思う。もしも奇跡が起きて
弟の望みが叶えられるなら私もその笑顔を見てみたい。晴れた日には城を抜け
出してどこまでも広がる青空の下、一面の野原でステップでも踏みたくなるような
曲を、雨の日にはしとしと泣き出しそうな切ない旋律から重い雲が去り、透明な
しずくが草花を潤して見慣れた景色に虹を架ける様子を脳裏に描く寓話めいた
曲を、夜は月や星が愛を囁きあい、眠りの砂をまかれてやがて静かに眠りにつく
ような曲を、そんな移り行く風景や心情にあわせて笑顔に限らず喜怒哀楽や、
それらに大別出来ないもっと繊細な彼の変化を見てみたい。もっと近しい者と
して、手を伸ばせば届くほどに近くで。ひと通り演奏し終えて私は己の間違いに
気がついた。私は鉄扉を開けるべきではなかった、彼に出会うべきではなかった
のだ。私は弟と同じ轍を踏もうとしている。責任感や罪悪感がそうさせていたの
ではなかった。もちろん好奇心やボランティアでもない。私は、私の意志で彼に
音楽を捧げている。弓を離したとき、畏怖や警戒で硬かった彼の表情が緩んで
いるのを見てしまった。笑う寸前の柔らかい表情が私の足をその場に縫いつける
ように引き止めて、私は間違いを正すきっかけを失った。
「…あなた、いつも、音、くれますね」
 次の瞬間、言葉が通じないはずの彼が拙い発音を口にした。燭台の明かりを
頼りに床に目を凝らすと、部屋中にたくさんの書物が積み重ねられていた。この
長く終わりの見えない虜囚のごとき日々にあっても、彼は絶望もせず何か光を
つかもうと足掻いていたのか。その結果、わずかでも言葉を得たのか。私は胸を
衝かれたような気分だった。
「私、あなたがいて、嬉しい」
 混じり気のない感謝の言葉に私は二の句を継げなかった。彼は私の素性など
知らない。地位も名誉も財産も、退屈しのぎも家柄に相応しい器量も求めては
いない。彼にとって価値があったのは私という存在そのものだ。武勲で地位を
築いたバイルシュミット家の跡継ぎとして相応しい男でも芸術に秀でたエーデル
シュタイン家の跡継ぎとして理想の男でもない。第一楽章を弾いたのが私なら、
第二楽章を弾いたのは彼だ。最終楽章を待たずに幕引きなど出来るだろうか。
「でも私はあなたを攫ってきた男の兄ですよ、それでも同じことが言えますか?」
 私はあえて彼を傷つけて試すようなことを言うしかなかった。そうでもしなければ
一気に引きずられてしまう、そんな恐ろしい予感に駆られたのだ。けれどすでに
遅かった。彼は一瞬だけ闇色の瞳を不安げに揺らして身を竦ませたが、私から
目を背けることはなかった。声がうまく出せなかったのか代わりにしっかりと頷く。
それで充分だった。先ほど築き上げた信頼は崩れ去ってしまったと思った。だが
そんなことはなかった。今度から私は私として彼に接することが出来る。たとえ
完成するものが恋でなくていい。それは弟のものだ。私はただ彼に喜んでほしい
だけだ。だからこれは恋ではない。





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