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非難同然の彼の言葉は意図していないからこそ俺の心を一層深く突き刺した。 最初は地下室に閉じ込めている兄を俺も非難したではないか。いつのまに俺は それが正しいと思うようになったのだろう。彼を哀れと思うならば兄が彼に向ける 感情を無視してでも早く東洋に帰してやるべきだった。俺までこうなる前に。先に 予告した通りに俺はそれ以来地下室に寄りつくことはなくなった。その分、兄に 俺がこれまで学んだ知識を教えることに没頭しようとした。兄はぶつぶつ文句を 言うし、休憩と称して剣の鍛錬に逃げてはそのまま昼寝に及んでいることもあり 相変わらずだが、その足が日に何度かあの地下室に向けられることに対しては 気づかない振りをする。兄がそこで何をしているのかは知らない。今はきちんと 非礼を詫びて、この事態を招いたそもそもの誤解を説明し、改めて不器用な愛を 囁いているのかもしれない。けれど彼はその"愛している"を知らないのだ。兄の 名を出した途端、彼が垣間見せた動揺もある。まだ会話すら出来ていないかも しれない。わからない、わからないがもう俺の関知するところではない。俺はこれ 以上関わらない、関わりたくない。己の醜い感情など知りたくない。あの地下室と 同じ、冷たく重い扉で蓋をして、永遠に閉じ込めておかなければ。あれは決して 表に出してはいけないものだ。彼が兄の愛する人であるからというだけではなく、 制御を失いそうになるあの感覚が恐ろしいのだ。それが愛というのなら人は何故 正気を保っていられる?どれぐらいそうした日々が続いただろうか。最初に彼に ケンタウレアの話をしたときはちょうど中庭に青く美しい花が咲いていた。季節は 巡り、再び咲いた花も枯れ落ちた。憎たらしいほどに常に強気で、兄の意地も あるだろう俺に弱音など吐いたことのない兄が消え入りそうな声で俺を呼んだ。 「ルッツ…どうしよう」 兄は地下室から駆け上がってきたらしい。荒い息で特徴的な赤い瞳を不安に 揺らめかして俺を見た。あれから兄はらしくもない気を遣って少しずつ少しずつ 彼との距離を縮めていこうとしていたそうだ。今では話しかけると応答もあると いう。言葉も俺と最後に話したときよりも随分上達したようだ。出会ったときから ずっと彼に伝えかったことを一息にまくしたてたい欲求を懸命に堪えて少しずつ 少しずつ。兄のそういう一面を俺は初めて知った気がする。兄の行動はいつも 大胆で、悪く言えば大雑把だ。やはり愛というものは恐ろしいものだ。あの兄を そこまで変えてしまうなど。しかしそのおかげで彼と今はいい方向に進んでいる のだと思えば、兄は生まれつき発達した犬歯が皮膚に食い込んで血が出そうな ほどに強くくちびるを噛み締めて言った。 「…あいつ、死ぬかもしんねー」 俺はそれを聞いて全身の血がさっと引くのを感じた。彼の世話を侍女に任せ、 俺たちが直接触れられない分、体調管理には特別気をつけていたはずだった。 最後に会ったときも俺たちに比べて痩せてはいたが顔色も悪くなかったと思う。 一体彼の身に何が起きたのか。兄は何を目にしたのか、何を聞いたのか。俺は すっかり冷静さを失い、兄の両肩を掴んで激しく揺さぶって問い詰めた。彼は 徐々に食事に手をつけなくなっていき、どうして食べないのかと聞いても要領を 得ない返事ばかりでついには意識を失っているところを侍女に発見されて、さっき まで医者に診てもらっていたのだというのだ。何が原因なのかと医師に問えば、 特に何らかの病気の兆候はなく、心理的な問題ではないかと答えが返ってきて 兄は途方に暮れたのだと。彼を心を蝕むものの正体を兄も俺もよく知っている。 彼の置かれた状況すべてがそうだ。だがここまでひどくはなかったではないか。 何が彼を追い詰めた、一体何が。 『ルート、ヴィッヒ?"愛している"は、何、ですか?』 彼の声が脳裏に鮮やかに蘇る。それから彼は"愛している"の意味を知ったの だろうか。侍女に辞書や本を差し入れさせていたのは兄だったと知った。諦めを 口にしながらいつか彼に理解してもらえる日が来ることを兄は夢見ていたのだ。 俺もあの日から本を差し入れさせた。作り物の恋愛小説で愛を学んでほしいとは 思わない、何より愛とは恐ろしいものだ。そんなものが目当てではない、単純に 言葉をもっと上手に操れたら彼のためになると思っただけで他意はない。おそらく それらに答えは載っていないだろう。俺は少しでも彼の現在の心境が知りたくて 彼とどんな会話をしていたのか兄に聞いた。 「足音で俺が来てたのは気づいてたって言ってたな、あなたの足音はせっかちな 音がするって、まあ合ってるかもしんねーな。そんで、知らない足音が来て言葉も わからないのにいつも勝手に話をしていく男がいて、それが初めに人攫いの仲間 だと思った男だったから怖かったけど、でも必死に何か訴えているのが伝わって きたから足音を覚えたって。規則正しい足音で真面目な人だと思ったって。あと、 お前の名前が難しいって。せっかく練習したのにもうここには来ないと言っていた から、もう呼ぶこともないんだろうって。うーんあと、あとは、なんだっけな…ああ、 あなたたち兄弟は何を恐れているのですか?って、意味わかんねーけど」 彼の言う通りだ。恐れるべきは彼のほうで、俺たちが恐れるのはお門違いだ。 だが現に俺も兄も恐れている、兄は彼を失うことを。もし憎まれても彼を手放して しまえば二度と戻ってはこない、だから兄は彼を地下室に留め置いている。己を 曲げてでも失わず済む方法を模索している。本人は無意識なのかもしれないが、 その努力は報われつつあるのかもしれない。そうでなければ彼が兄の声に反応 してくれることはなかっただろう。では俺は?俺は何を恐れている?俺はそうだ、 愛そのものを恐れている。得体の知れないものに己を変えられてしまう、この愛 そのものが怖い。何も知らないくせにその正体を無遠慮に問う彼が怖い。俺は 兄のために彼の前に現れなくなったのではないのだ、最終的には彼の声から 逃げ、俺自身から逃げたのだ。 『せっかく練習したのにもうここには来ないと言っていたから、もう呼ぶこともない んだろうって』 彼はどんな顔でそれを兄に告げたのだろう。あのとき扉を開いた俺を見上げる 彼の顔を思い浮かべた。畏怖を含んだ瞳は見知らぬ男に対してのまなざしで、 俺自身を否定するものではなかった。毎日扉の向こうに居座っては勝手に話を していく男と、人攫いの仲間と思っていた男と、ルートヴィッヒという名の目の前の 男が一致したとき、彼が逃げようとしなかったのは確かだ。確認するように名を 転がしながら、俺をまっすぐに見つめていた。拙い発音で俺を呼んだあの声を 今もはっきりと覚えている。兄のように愛称でも何でも呼びやすいものを教えて やればよかった。 『ルート、ヴィッヒ?"愛している"は、何、ですか?』 俺はあの日、己の愛が恐ろしいものだと気がついた。兄の愛する人であるにも 関わらず彼を愛してしまった俺が恐ろしい。醜い俺を暴いてしまう彼が恐ろしい。 そして恐怖と同じだけ恋慕が募る、それを認めるのが俺は恐ろしい。しかし俺が 認めなくてもそれはそこに在り続ける。頭か、心臓か、心か、どこにあるのかは わからないが俺の中で生き続け、こうしてすべて忘れたように過ごそうとも少しも 息絶える気配を見せてくれない。俺は、俺は菊を愛している。以前は兄を許して ほしいと願っていた、もう許してくれなくても構わない。その代わり俺を見てくれ。 俺を呼んでくれ。俺を受け入れてくれ。 「…兄さんすまない、俺は」 菊の親愛の情を勘違いで兄は裏切った。俺は違う。すべてを承知の上で、兄を 裏切るのだ。 |