俺は菊がこちらの言葉も理解している可能性という朗報を早速兄に届けるべく
城中を探した。王城の騎士団に憧れてよく剣を振り回していた中庭にも、疲れて
早々に昼寝に耽っていた自室にも、東洋から帰ってきて以来ぼんやり眺めている
ことの多い東に面したテラスにもいない。結局兄の姿を見つけたのはこの領地に
関する記録や資料などを集めた執務室だった。普段は俺が兄の代行をしている
その部屋は古い紙のにおいがうっすら漂い、とても落ち着く。そこで兄は地図や
いくつかの書籍を紐解いて何やら唸っていた。視線の先には昔から水源が近い
割に灌漑設備が整っていないせいで水が不足しがちで何度も陳情があった村が
ある。俺は近いうちに王に工事の許可を求める手紙を書くつもりだった。おそらく
兄も同じところに目をつけたのだろう。俺は物心ついた頃から家を継ぐのが長兄
でも次兄でも、どちらにせよ補佐を務める立場と信じてそのために必要な知識を
蓄えてきた。長兄が養子に出たからには次兄が継ぐのものだと、東洋に行くから
あとのことは任せたと四年前、無責任な手紙を残して城を出たときもその考えは
揺るがなかった。やはりこの家を継ぐのは兄であるべきだ。そして、菊の笑顔を
取り戻すのも。兄さん、と声を掛けると兄は顔を上げた。俺は件の事実を告げる。
もしかしたら彼は兄の言葉を聞いてくれるかもしれないと。喜んでくれると思った。
すぐに誤解を解き、彼と兄は幸せな方向へ進んでいくのだと思った。しかし兄は
今更何を言い訳しても遅いだろと呟いてそれきり菊のことは口に出さなかった。
菊の前に姿を現さなくなっても毎日数回、兄が地下室の前に佇んでいることを
俺は知っている。口ではそう言っても本心はそうではないだろうに。俺は自分の
ことのように胸が痛かった。もうあの場所に行ってはいけないと一度は誓ったが、
俺以外誰がこの哀れな兄の心を伝えることが出来るだろうかと思い直した。俺は
禁を破ってまたあの地下室の前に立ち、勝手に話しかける。
「君がどれぐらい俺の言葉を理解しているかわからないが、兄は君に助けられた
とき神や天使の存在を確信したそうだ。全財産を失って困っているのに誰も手を
差し伸べてくれない異国の地で君が唯一の優しさだったと。何の不自由もない
貴族の家に生まれながら日々の糧を得るために下働きのようなことをするのも
君がいるから何も苦痛ではなかったと。男と知ったあとも君を生涯の伴侶とする
決意はまったく変わらなかったと。兄は君を愛してるんだ。君がそうではないと
気づかなかったのは兄の落ち度だ。俺からも謝罪する。だが本当に、兄は君を
愛しているんだ」
 そうだ、彼を愛しているのは兄だ。俺はただ兄の感情に引きずられただけだ、
俺は違う、違うんだと何度も心の中で言い聞かせる。もう遅いなんてことはない、
きっと兄の気持ちは通じるはずだ。俺は兄のあんな表情を見たことがなかった。
いつだってすぎるほどの自信家だったあの兄が、あんな諦めに沈んだ顔をする
なんて。遅いことなんてない。そうでなければ困るのだ。そのとき部屋の奥から
小さな物音が聞こえる。彼が厚い扉のすぐ向こうに移動したようだ。俺は距離の
近さにどきりとした。もう何ヶ月も見ていないのに彼の怯えきった様子が頭から
離れない。ところがこの日の彼は俺に臆することなく声すら発したのだった。
「"愛している"は、何、ですか?」
 拙い言葉遣いは記憶に残る幼い容姿も相まってさらに愛おしい。不穏な感情に
蓋をしながら、俺は努めて平静を装って辞書に書いてないのか?と聞き返した。
「辞書、あります。"愛する"は、"ウォーアイニー"。私、あの国、生まれてない
から、"ウォーアイニー"はわからない」
 それは兄にも聞いていないことだった。彼は東洋の大国から連れてきたのでは
ないのか。そこで兄と出会い、そこから連れ去られてきたのではなかったのか。
「私、子供のとき、怖い人に連れて来られた。私生まれた、もっと東、小さい国。
私の国、"愛している"はない」
 "愛している"がない?愛を伝える言葉がないなど、俺には想像もつかない世界
だった。それではどうやって恋人同士は愛を育てていくのだろうか。それにしても
ここまで言葉が話せるとは、辞書や書物があって侍女に教えてもらったにしても
この上達ぶりは驚くばかりだ。彼は元々聡明なのだろう。想像するに、幼い頃に
人買いか何かに連れ来られたのではないか?かの地でもその聡明さでこれまで
平穏に暮らしていたのではないか?
「私、兄様に聞いた。"ウォーアイニー"は何ですか。兄様教えてくれた。でも私、
わからなかった。兄様は、本当の兄様と違う。私可哀想だから、兄様怖い人から
私、助けた。兄様は、優しい人」
 彼の言う、怖い人。何も知らない子供の自由を奪い、強引に連れ去って異国の
土地に連れてきた何者か。その恐怖はいかほどか知れない。兄はそれを知らず
彼の傷ついた心にまた深い傷を作ってしまったのか。だからあんなに怯え、泣き
暮らしていたのか。今回は彼を助ける人はいない。兄の目的もわからないまま
暗い地下室に閉じ込められた一年もの長い日々。俺ならとっくに精神に異常を
きたしている。
「あなた、いつも話、する。誰、ですか」
 俺は嘘偽りなく君を攫った男の弟だと名乗った。軽蔑は覚悟の上だ。ギルの、
と彼が息を呑むのが俺にも聞こえた。名前を聞くだけで彼の恐怖は揺さぶられる
のか。俺は慰めの台詞も思い浮かばない無力な男だった。しばらくして彼が気丈
にも動揺を抑え、俺の名前を聞いてくる。ルートヴィッヒと名乗ると発音に苦労し、
何度も口内で転がしてやっと「ルー、ト、ヴィ、ヒ」と彼の口から呼ばわれた瞬間、
俺は抑えようのない動悸に襲われた。理性も何の努めを為さず気がつけば扉を
開けていた。彼は部屋の隅に逃げるでもなくそこに座り、畏怖が滲む黒く美しい
双眸で俺をまっすぐに見上げていた。俺は衝動に任せて彼を抱きしめたかった。
心の底に秘めた思いを、兄の愛ではなく俺の愛を告げたくてたまらなかった。
「あなた、ルート、ヴィッヒ?」
 彼が俺の名を呼んでいる、俺を見て、名前を呼ぶ。これでは、これでは仕方が
ない。兄が恋に落ちたのも仕方がない。彼は決して華やかな外見ではなかった。
彼より魅力的な女性は星の数ほどいるはずだ。東洋には彼のような夜闇の色を
した髪も黒曜石の瞳もありふれているのだろう。それでも兄は運命だと思ったと
いう。運命とは根がロマンチストな兄らしい表現だ。非現実なものだと俺は思う。
しかし運命は確かに存在し、強い力で人の心をいとも容易く変えてしまうのだ。
人はそれに抗えない。抗うには大変な努力が要る。そうして俺はその強い力と
胸の内で戦っている。そこへ、彼が再び口を開いた。
「"愛している"は、これ、ですか?」
 俺はその問いと彼の指先にあるものを見て愕然とした。冷たく重い鉄扉、光を
奪う一面の石壁。視線をぐるりと巡らせると室内にはベッドや机や椅子といった
最低限の調度品、山積みの本、手の届く範囲を照らすのが精一杯の燭台、帳の
向こうには確か簡素なトイレと風呂がある、だがそれだけだ。牢獄と何の違いが
ある?もし逃げ出したら辛い目に遭うのは彼のほうだと言い訳をしながら、これが
本当に彼のためだったのだろうか?愛とはこんなにも醜悪なものだろうか?違う
はずだ、なのに彼がここからいなくなってしまうことを考えると全身を何か恐ろしい
ものが支配しそうになる自分を否定出来ないのだ。
「ルートヴィッヒ?"愛している"は、何、ですか?」
 俺はその質問に対する答えを持ち合わせていなかった。





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