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私がエーデルシュタイン家の跡取りになってからまもなく、すぐ下の弟が東洋に 行くと置き手紙を残して城からいなくなったという知らせを受けたのは三年も前の ことになる。三人兄弟の真ん中という環境で育ったこともあってかねてから自分 勝手な男だとは思っていたが、まさかバイルシュミット家の跡取りという重責を 放り出していくとは。三年のあいだ一度も便りを寄越さないので東洋にたどり着く 前にどこかで野垂れ死んでやしないかと心配性な末弟は危ぶんでいたけれど、 あの弟に限ってそんなことはあり得ないと妙な確信があった。やがて我々の気も 知らず英雄の凱旋気取りで帰ってきた弟は東洋から婚約者を連れてきたそうだ。 異国の地で少しは大人になったのかと思い、私はいまだ現役である養父に家を 任せて久々に生家に戻ることにした。これでも血を分けた兄弟だ、私もまったく 心配しなかったわけではない。この目で無事を確かめて、そして弟が生涯を共に する相手に挨拶をしたい、不肖の弟ながらどうかよろしくと。それがいざ城に来て みればどうだ。無駄に有り余る自信と元気は長い旅路のどこかに落としたのか 弟の心は海の底より深く沈み、肝心の婚約者は地下室に閉じ込められている。 生まれ育った城だ、地下室のことは私も知っている。この国が昔、戦乱時代に あった時代、有事の避難先にと作られたもので堅牢ではあるがあれはまさしく 牢獄だった。四方を石壁に囲まれた内部は一片の光も差さず、湿って淀んだ 空気が常に垂れ込む絶望の暗闇だ。この三年で弟に一体何があったのかと 私は驚愕した。婚約者をそんなところに放り込むなど狂気の沙汰でしかない。 しかしその経緯について末弟から説明を受ければ弟がまだ正気であることは 理解した。要するに生まれつきの致命的な短慮、と丁寧に表現するのも惜しい あの手の施しようもないお馬鹿ぶりは微塵も成長していなかったということだ。 婚約者とは弟の一方的な思い込みで実際は告白もしていない、だから求婚も していない、当然返事は聞いていない、本人の意思も無視して強引に東洋から 攫ってきただけ、なんともお粗末な現実だ。ならば責任を持って帰してあげれば いいでしょうと指摘するが、末弟は深々とため息をつくばかりだ。心身共に彼の 衰弱はひどい有様で途中で力尽きるのが関の山だと。そこで彼、という言葉が 引っかかった。聞き間違えかと思えばどうもそうではないらしい。弟の見初めた 相手は男性だったのだ。まあ特に何かそういった偏見はない。跡継ぎは養子を もらうなり何なり手段はあるので性別の問題は別に構わない。それよりしばらく 見ないうちに随分と趣味が変わったものだと思う。そもそも私の知る弟は恋だの 愛だのはまるで無縁で剣を振り回しているほうがよほど性に合う、図体だけが 大人になったような男だった。そこは少しマシになったのだろうか。かといって 経験の少なさが招いた結果と片付けるには深刻すぎる事態だ。弟たちはろくに 食事にも手をつけようとしない固く閉ざされた彼の心をどうにかして開き、体力を 取り戻してもらうことを目標にしたという。末弟は密かにあわよくば弟の仕打ちを 彼に許してもらい、愛を受け入れてもらいたいと願っているようだ。私もそう願う。 あの鋼索より図太い神経をした弟がこんなにも傷ついているのを、私はこれまで 一度も見たことがない。弟はおそらく本当に彼を愛しているのだ。そうでなければ こうして傷つく必要もない。愛しているからこそ弟は己の仕出かした罪にかつて ない痛手を受けて立ち直れないでいる。実るはずの愛が空想の産物だったこと、 何よりも愛する彼を他でもない自分自身が傷つけたのだという事実。力を貸して くれるかと末弟に頼まれれば私に否はない。揃いも揃って人の心の機微に鈍い 弟たちだ、言葉が通じなければ言葉以外のものがあるではないか。私は持参 したヴァイオリンを手に地下に向かった。目つきの悪い弟と厳つい体格の末弟 では必要以上に怯えられるのも仕方ない。私なら大丈夫という保証もないので、 弟たちに倣い最初は扉の外から声をかける。 「初めまして、菊。何も怖がる必要はありませんよ、私はあなたに何もしません。 ただここで趣味の音楽を楽しみたいだけです。しばらくお邪魔しますよ」 今は言葉など通じなくて構わない、言葉など意味が通じなければ何の面白味も ない音の集まりに過ぎない。だが音楽は違う。美しい音楽はすべてを乗り越える 力がある、私はそう信じる。この冷たく重い鉄扉のさらに奥、何重にも封じられた 見えない氷の壁の向こうにまでいつか届くと。私はその日から毎日、日に何度か 地下に足を運んでは練習がてらヴァイオリンを奏でた。曲目は定番から個人的な 好み、あるいは即興も。私としては石壁の反響はあまり気に入らない。いっその こと彼を城の外に連れ出して、晴れた空の下、若々しい緑の草原の上、陽気な カンツォーネでも聞かせてあげたい。歌は専門外だが彼が望むならそれもいい。 耳がいいので当初は私が来た途端、彼が部屋の隅に素早く移動してそこから ずっと動かないことに気づいていた。それが時間を重ねるにつれて徐々に扉に 近づいているのがわかる。彼はどんな表情をして私の音楽に耳を傾けているの だろうか。私はまだ扉を開いたことがない。弟の愛する人の顔をまだ知らない。 ともあれ彼は実に理想的な聞き手だった。邪魔な音を立てない、知ったかぶりの 感想も言わない、じっと耳を澄まして旋律に身を任せている。もっといろんな音を 聞かせてみたい、もっと彼の知らない世界を伝えてやりたい。私はいつのまにか そんな風に思うようになった。こんな無粋な鉄扉など取り払って直に彼の表情を 見ながら、彼の心の動きを窺いながら、彼の好みそうな曲を選びながら。そうする ことが叶うならどんなにかこの時間を楽しめるだろう。けれど私もまだまだ考えが 浅い事実を知らされる。いくら養父が元気であるからといって家を任せきりにする わけにもいかない。跡取りとして養子になったからにはそれなりの責任が伴う。 月のうち何日かはエーデルシュタイン家に戻る必要がある。その数日の空白を いかに説明したらいいのやら。やはり言葉は必要なのか、音楽ですべてを埋める ことは不可能なのか。音楽療法というものがあるように彼は以前より食事を摂る ようになったと聞いた。少しずつ彼は元の自分を取り戻しているのかもしれない。 数日ぐらい私がいなくても彼は平気なのかもしれない。空白の理由を説明したい のは最早私のわがままだった。 「あなたのことが気にならないわけではないのです。それでも私には私の責任が ある。どうか理解して下さい。…でも、それを伝える手段はないのですね」 石床に落ちた呟きに返事はない。当たり前だ。それにしてもこの胸を掻き乱す ものは何なのか。城を離れる直前など特にそうだ。不協和音のようにひとつに まとまらない、音は乱れに乱れて醜態を晒す。置き土産だからこそより良い音を 残して行きたいのに馴染んだ楽器が私の思いを無視するなんて初めてのことだ。 これではまるで、まるで私のほうが。その瞬間、耳障りな音を立てて切れた弦を 呆然と見つめた。まさか、そんなことが。 |