野生の獣の子でもここまで怯えはしないだろう。生えたばかり小さな爪や牙を
剥いて威嚇するぐらいなら獣だって出来る。彼は人間だがコミュニケーションが
取れないなら動物と大した差はない。さらに兄は随分少女趣味だったのだなと
驚いたほど幼く見え、実は男だと聞いて疑念はますます深まった。男なら素手で
あっても多少の反抗は可能なはずだ。それとも東洋の男どもはそんなに軟弱者
なのかと初めのうちは苦々しく思ったものだが、話を聞けば聞くほど兄の所業は
悪質だ。なおかつ本人にはまったく悪意がなかったのだからもっと性質が悪い。
手足を縛り、口に詰め物をして、荷物と同じ扱いのまま長い距離を長い年月に
渡って何ひとつ説明もなく連れ去ってきたのだ。道中の食事は質素だと聞いた。
兄曰く出会ったときから小さくて細かったそうだが彼の体は今ではそれ以上に
痩せ細っているはずだ。完全な独学ながら医学書を愛読する俺としてはすぐに
ちゃんとした医者に診せてまともな食事を摂らせてやりたいところだ。でも今の
怯えようではそれも無理のようだ。俺は改めてこの菊という名の少年に兄が何を
したのか問い詰めた。荷物の身分では小用もままならないことが多く俺が愛情
込めて始末してやっただのたまにまともな宿が取れても枷は外せないから俺が
風呂に入れてやっただのあまりに食べないから心配になって無理やり口に詰め
込んでやっただのといった御託は抜きにすると、そもそも彼は兄と情を交わして
遠いこの地にやって来ることを望んだわけではなく一方的に兄が想いを寄せて
攫ってきたも同然だった。見知らぬ土地で有り金失くして困っていた異国の男を
世話してやった代償がこれでは、どんな屈強な精神を持つ男でも戦意どころか
生きる気力を丸ごと失っても仕方のないことだ。兄も兄で不憫ではあるけれども
この少年に対してはどれだけ同情しても足りない。兄が顔を出すと恐慌を起こす
というので代わりに弱った胃でも飲み込めるスープや長いあいだ口にすることも
叶わなかっただろう甘い菓子を差し入れてみるも、拒絶反応はより顕著になった
ようだ。冷静な長兄がおそらく俺の顔や体躯が厳つく見えて怖いのだと分析した
ため、侍女に世話を任せてみれば確かにその日から警戒は和らいだ気がする。
長兄の言った通りであればそれはそれで俺もショックは拭えない。姿を見せる
からいけないのだと俺は兄が長らく放り出していた領主の職務の合間、鉄扉の
外から話しかけることにした。もちろん言葉は通じない。ただ俺が独り言を言う
だけだ。
「我々は君を悪いようにするつもりはない。兄はあれでも君を愛してるんだ。理解
出来ないかもしれないが、本当なんだ。あんなに落ち込んだ兄を俺は見たことが
ない。兄から君の故郷にいた頃の話を聞いた。君はよく笑う少年だったと聞いて
心が痛む。今の君は怯えるばかりだから、叶うならば俺も一度見てみたい。君の
笑った顔を。兄が恋に落ちたというその笑顔はどんなものなのか、見てみたい。
こんな地下ではなく晴れた空の下で、野の花のたくさん咲くような場所で、ああ、
君はケンタウレアを知っているだろうか。空よりも青く美しい花だ。東洋では君と
同じ名がついていると以前本で読んだことがある。俺も好きな花だ。君は花が
咲くように笑っていたと聞いたのに、その笑顔が見れないのは残念でならない」
 当然応答はない。が、不要な返事がないというのもいいものだ。それに乗じて
俺はさまざまなことを話した。中庭に咲いた花、幼い頃に聞いた童話、俺たち
兄弟の思い出、時には愚痴めいた呟き、それからいずれは兄が治める領地の
こと。俺たちが生まれ育ったこの城一帯は一面の麦畑で、夏には青々と波打ち、
秋には金色に染まる恵みの多い土地、つまりいい意味での田舎だった。大昔の
戦乱時代の遺産、万が一に備えて避難用に作られたこの地下室には光の一筋
すら差す隙間がない。季節の香りを乗せた田舎の風も彼に届くことはない。彼が
日がな一日眺めて過ごすのはともすれば気が狂いそうになるほどの冷たい石、
石、石。その部屋の隅で、彼は親しんだはずの男の手酷い仕打ちに涙を流す。
「菊、お願いだ。信じてくれ。兄に悪気はなかったんだ。君の前に現れないのは
君の心を傷つけたことを反省しているからだ。兄は変わった。兄が東洋で君に
出会う前は重苦しいだけの爵位など要らないと散々嫌がったくせに、あれから
どうしたら領民は安寧に暮らせるのかとそれらしいことを気にするようになった。
兄が変わったのはきっと君のおかげだ。君の笑顔を一向に取り戻せない自身に
怒りを感じたからだ。兄は今でも君を愛しているんだ」
 俺の声はどうせこの分厚い鉄扉に、あるいは彼が閉ざした心の扉に遮られて
届かないのだ。せめて言葉が通じれば、致命的な誤解が解ければ。しかし彼の
心のなんと遠いことか。いっそすぐにでも東洋に送り届けてやればよかった。凍り
ついた心もいつかは温んだかもしれないのに。それでも身の回りを侍女に任せた
成果か、最近彼は少し食事を手をつけてくれるらしい。可哀想なほど痩せた体も
いくらかマシになっただろうか。確かめようにも室内を覗こうとするだけで最初と
同じように部屋の隅に移動し、寝具を唯一の守りのように身にまとってこちらの
様子を恐る恐る窺う彼の心はいまだ極寒の世界だ。
「菊、菊、君はどうしたら兄を許してくれるんだ。どうしたら君は笑ってくれるんだ。
君をこの城から解き放っても言葉もわからない君がひとりで東洋に帰り着くのは
難しいんだ。その前に食料を得られずに野垂れ死ぬか、悪い人買いに遭うのが
オチだ。東洋人の君は珍しい。きっと高く売れるだろう。君の髪は黒いシルクの
ようだし、君の瞳は黒曜石のようだ。君の象牙の肌は滑らかで君が笑えば兄の
ように誰もが恋をしてしまうに違いないんだ。だからまだここから出してやることは
出来ない。君のためだ、菊。君を閉じ込めているのはそんな目に遭わせたくない
からなんだ、菊、菊」
 俺は何度も扉の外から話しかける。まるで俺が恋をしているようでハッとした。
そんな馬鹿なと笑い飛ばすことが出来なかった。偽る必要のない彼に嘘をついた
ことはない。だから俺の口から飛び出した言葉はすべて本心からのものであり、
それらを振り返って客観的に見てそうだと感じたならば、その通りかもしれない。
俺は彼に恋をしているのか?彼を哀れだと思った、初めは間違いなく同情でしか
なかった。それがいつのまに変化した?兄を弁護するつもりで、兄の罪滅ぼしを
するつもりで、単に俺が彼に会いたかっただけだったのか?見たことのない彼の
笑顔を望んでいたのは兄のためではなく俺のためだったのか?
「…菊。俺はもうここには来ないことにするよ」
 それが良かった。俺が彼に好意を寄せているのだとしたら、兄と同じ轍を踏む
可能性がないと言い切れない。兄よりも深い傷を負わせることもあり得る。何せ
今の今まで兄のためと嘯いて己の目的を遂げたいだけの醜い心が潜んでいる
ことに気づこうともしなかった俺だ。ならばもう、近づかないほうがいい。これ以上
踏み込んでしまえば俺が後戻り出来なくなる。そうだろう?何故なら君は、兄の
愛する人だ。
「………ド、シテ」
 そのとき声が聞こえた。重い鉄扉の向こうから。どうしても解することの出来ぬ
東洋の言葉ではなかった。拙いが、こちらの言葉だ。けれどその声は彼がここに
閉じ込められる際に泣き叫び、兄が近づくたびに悲鳴をあげていた彼のものだ。
どうしてと言った。俺こそが知りたい。どうやって言葉を?わかるのか?俺の声は
伝わるのか?
「菊、俺は君の笑顔を見たいんだ、どうしたら、どうしたら君は、俺は君が、君が」
 そこで俺は想いごと声を喉奥まで飲み込んだ。もし言葉が伝わるとしたら余計
伝えてはならなかった。芽吹いた感情を飲み込んで、俺は地下室から出て行く。
後に彼の世話をする侍女が彼に辞書や本の類を差し入れていたと聞いた。そう
やって彼は言葉を覚えたのか。俺の話をいつからどれぐらい理解していたかは
わからない。思い返すと彼がこの城に来てから一年以上経っていた。俺は兄に
朗報を届けた。今なら彼の誤解も解けるかもしれないと。どんなに長い時間が
かかろうと兄は彼の凍った心を元に戻す責任がある。そうして俺は祈る。彼が
兄の愛をいつか受け入れてくれることを。それが一番いい結末なのだから。





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