名前はわかっても結局言葉での意思の疎通は叶わぬまま見つめあっていると
足音も荒く鋭い目つきの男が現れた。菊は俺のことを異国の言葉で何か懸命に
訴えているようだった。それを無視するように男はジロリと睨み殺すようなきつい
視線を寄越した。これほど強い圧力はこっちに来てから一番かもしれない。菊と
男は親しい様子だが、どこか菊を威圧する雰囲気が感じられる。やがて説得が
利いて俺は商家らしいこの家でしばらく働かせてもらうことになった。薪割りや
荷運びといった力仕事なら得意だ。それでも慣れない下働きに疲れてぐったり
してると菊はまたあの心配そうな優しい目で茶や菓子を用意してくれる。俺は
確信した!こいつも俺のことが好きなんだと!菊と男の関係は見たかんじ兄弟
みたいだ。俺に向ける敵意に満ちた目が菊に対しては別人のように甘く変わる
のを何度か目撃した。溺愛という言葉が浮かぶ。兄弟の在り方も東洋では随分
違うようだ。それからあっというまに月日が流れて、菊の仲も順調に進んでいた
ある朝のこと、まだ暗いうちから菊に揺り起こされて寝ぼけ眼の状態であれよ
あれよと旅支度をさせられたと思えば次は知らない男どもに引きずられるように
だだっ広い草原に連れてこられた。確かここは俺が西洋から来たときに通った
場所だ。来たときと同じキャラバンが待っていて、俺はまた用心棒として雇って
もらえるらしい。馬上から振り向くと今生の別れと思っているのか菊は目に涙を
いっぱい溜めて俺を見上げていた。バカだな、俺がお前を置いていくはずなんて
ないのに。合図の声でキャラバンは西に向かう。俺も遅れないよう馬の腹を蹴り、
勢いがついたところでUターンすると身を乗り出して菊の腰を掻っ攫い、そのまま
すとんと前に乗せた。気が動転してるのかジタバタ暴れるので、今更説明する
までもなくこの意味もすぐにわかるだろうから手足を縛って猿轡を噛ませてから
キャラバンに追いつく。菊はずっとむぐむぐ言ってたけど外したってどうせ言葉は
わからないんだし、それより一刻も早くうちの城に連れ帰って花嫁衣裳を着せて
やったほうが喜んでくれるに違いない。菊はお世辞にもゴージャスとは言えない
けど、間違いなくオリエンタルな美人だ。兄弟たちにも散々自慢してやろう!菊、
俺たち幸せになろうな!

「と、いうわけで連れ帰ってきたんだが」
「…それを人攫いというのだこのバカ兄が!」
 三年ぶりに再会した弟のルッツの第一声がコレ。長旅の疲れも癒える懐かしい
生まれ育った城。俺の見込んだ通りルッツは領主の代理として仕事をこなしつつ
憎たらしいことにいつのまに俺の背まで抜かしていやがったが、伴侶を見つける
のは俺のほうが早かった。俺の勝ちだ。てか菊はぶっちゃけ男だった。旅立った
当日に気づいたけどまいっかと思って連れてきた。別に跡継ぎを残すのは俺じゃ
なくたっていいわけだし。
「人攫いなわけねーだろ!だって菊は俺に夢中なんだぞ!」
「じゃあ何故手枷足枷猿轡が必要なのか説明してみろ!」
「…あ、暴れるから…」
「それを必死の抵抗と言わずしてなんと言うつもりだ!」
「た、たぶん照れ屋なんだよ…」
「仮にそうだとしても何故あんなに毎日毎日泣き暮らしてるんだ!照れ屋で済む
話か!第一何故あんな牢獄みたいな部屋に閉じ込めてるんだ!」
「逃げ出そうとするから仕方ねえだろ!」
「世間ではそれを監禁と言うんだ兄さん…」
 残酷な現実を突きつけてルーイはがっくりと肩を落とした。俺だって泣きたい。
菊が俺のこと好きじゃなかったなんて。あんな思わせぶりなことしといてそんな
気はなかったとかないだろ。東洋から人ひとり運んで来るのにどれだけ苦労した
ことか。それもこれも菊と結婚してハッピーライフを送るためだったのに。城で最も
堅牢な部屋に閉じ込められている菊はもう返事もしてくれない。寝具の上掛けを
お守りみたいに大事そうに抱えて、部屋の隅っこで何かに怯えて一日中震えて
いるだけだ。豪勢で栄養満点の食事を用意してもほとんど手をつけない。俺は
何とかしてまた笑ってほしくて何度も通うけど、俺の姿を見るたび、俺の声を聞く
たび、菊の震えは増すばかり。ヒッ、ヒッと病的な呼吸をしながら死に物狂いで
後ずさりして部屋の隅から隅へと逃げ回る。まるで悪魔から逃げようとする幼い
子供のようだった。その悪魔は―――俺、か?
「元の場所に返して来いと言っても東洋じゃあな…」
 俺は遠く東の空を見た。ぼんやりした山陰の向こう、荒野や砂漠を越えてさらに
草原の果て。もう一往復するのは容易いが、俺が帰したくなかった。たとえ菊の
本心が俺の思うものと違っても。初めて会ったあの日から、俺を丸ごと包み込む
ようなまなざし、心ごと温めてくれる笑顔に俺の心は奪われてしまっているのに。
「こうなったらもう兄さんが責任持って彼の心を溶かしてやるしかないんじゃない
だろうか」
 深々とため息をついたルッツの言葉で俺は思い出した。真冬の吹雪より冷たく
凍るようなあの異国での孤独感。あれ以上の孤独や恐怖に菊の心が凍えている
としたら俺はそれをどうにかする責任がある。菊が俺を許してくれるかどうかは…
わからないけど。そうして俺と弟と、どっから話を聞きつけたんだか養子に行った
はずの坊ちゃん野郎がどうも気に食わない若い侍従を連れて帰ってきやがって、
そこが俺たちの始まりだった。





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