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バイルシュミット家はひいじいさんのひいじいさんのそのまたひいじいさんの… ともかく俺のご先祖様は大昔この国が出来上がる際、時の王に大変な忠義を 尽くしたことで一介の騎士から伯爵へ華麗な転身を遂げた由緒ある名家らしい。 幼い頃から耳が腐るほど聞かされてきた話だが所詮俺は次男坊だし、家を継ぐ のは長子と相場は決まっている。広大な領地を治める領主の役目なんてのは いかにも面倒そうでかったるいし、そうでなけりゃ暇すぎて死んじまいそうで家督 なんぞ望んだこともなかった。そもそもお上品な貴族の暮らしなど肌に合わない。 というわけで最近巷で噂の黄金の国にでも旅にでも出ようかと思っていた矢先、 なんとその長子であるお坊ちゃん野郎が縁戚に当たるエーデルシュタイン家の 養子になることが決まったのだ。エーデルシュタイン家は長年男児に恵まれず このままでは爵位を返上することになる。それで男が三人もいるウチから養子を もらうことになったんだそうだ。あいつもあいつで元々騎士の家系のせいかやたら 汗臭い家風にどこか合わないと思っている節もあった。ならば代々芸術に秀でた 向こうのほうが居心地いいんだろう。…てことは順番でいくとバイルシュミット家を 継ぐのは―――俺、か?勘弁してくれ。俺は黄金の国に行ってオリエンタルかつ ゴージャスな美女をゲットして二人で世界中を旅しながら面白おかしく生きていく つもりだったのに。第一、領主とか細々としたことなら俺よりよっぽど弟のほうが 向いているだろうに。と思った瞬間、俺は素晴らしいアイデアが浮かんだ。俺さえ いなくなりゃ順当に弟が家を継ぐことになるではないか!なんと賢い俺様!俺は 早速旅支度を整えてみんなが寝静まった夜半にこっそり城を抜け出した。黄金の 国は東洋にある。目指すは東だ。東洋と西洋の中間、どちらにも属さぬ領域では まだ言葉が通じた。そこで俺は剣の腕を活かして東に向かうキャラバンの用心棒 として雇ってもらい、荒涼とした大地や砂漠、賊の襲撃などさまざまな困難を乗り 越えてようやく東洋の地を踏んだ。そこはやはり文化も風習も違う場所で、言葉も 一切通じない。俺の冒険心は最高潮に達し、そして地に堕ちた。俺が生まれつき 神様に嫌われてるんじゃないかと思うのは貴族の家系に生まれたことだけでは ない。予想もしない不幸がしょっちゅう襲ってくるからだ。ここまで道中が比較的 順調だったこともあって油断していたのか、いつのまにか俺は一文無しになって いた。落としたのかスリに遭ったのか。役人に訴え出るにも言葉がわからない。 また用心棒のクチでも探して稼ぐにもやはり言葉が必要だった。通行人は冷たい 目で俺を見るばかり。東洋では一見して異質な銀色の髪、赤を孕んだ紫の瞳、 白すぎる肌、見たこともない装束。俺は誰にも手を差し伸べてもらえないよそ者 だった。行く宛ても頼る相手もない。途方に暮れて広場の長椅子に座っていた。 腹が鳴っても食べ物を買う金がない。俺はこのままひとりぼっちで惨めに死ぬ しかねえのかなって絶望的な思考に支配されると起きてるのも面倒でごろんと 横になった。朝、昼、夜。何回繰り返しただろうか。こんなに遠く離れてるのに 星空だけは一緒で生まれ故郷が無性に恋しくなって涙が出そうだった。すると 不意に頬をぺちぺち叩かれた。いつのまにか眠っていたらしい。俺を起こした その手の主は次々に異国の言葉を並べた。意味はわからない。ただ艶やかな 黒髪にオニキスの瞳のそいつは心配そうに俺を覗き込む。状況を説明するにも 言葉の壁が大きく立ちはだかった。長く気まずい沈黙をみっともない腹の虫が 破った途端、俺よりずっと痩せてちっさいくせに俺を一生懸命背負ってそいつは どこかに運んでいく。着いたのは随分立派な屋敷だ。そこはそいつの家らしく、 座らされた席の前に温かい料理を運んでくる。これは食べろということか。本で 読んだ箸というものには苦労したし、味付けも慣れないが今の俺には食べられる だけで充分だった。叩き込まれたマナーも忘れてがっつく俺にそいつはまた何か 言う。たぶん口に合うか?とかそんなことを聞いてるのだろう。俺が笑顔でうまい うまい!と身振り手振りで伝えようとするとそいつは不安げな顔から一転にっこり 笑った。その慈愛に満ちた笑顔はまさしく聖母!あるいは女神だ!黄金の国? オリエンタルでゴージャスな美女?そんなのは最早どうでもいい。俺の伴侶と なるべき者はこいつしかない。俺が死のうが生きようが誰も興味のない世界で 初めて出会った心と外見が等しく美しいこいつ。会話が難しくても俺は名前だけ でも呼んでほしくて必死に名前を繰り返した。「俺はギルベルト!ギルベルト! ギールーベールート!」「…ぎ、る?」と相手が首を傾げるので「ああ、ギルで いい!俺はギル、ギルな!お前は?お前はなんて呼ぶといい?」俺とそいつ、 指を交互に差して名前を聞き出そうとするとそいつはゆっくり「キク」と名乗った。 キク、きく、菊。俺は噛み締めるように何度も呼ぶ。菊は優しく笑んでいた。俺は 黄金よりもずっと得がたいものを東洋で見つけた。 |