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だった。つい先日上司にスペイン出張を命じられ、小柄だなんだと周囲の評価を 日頃から憎々しく思っている体躯を幸か不幸か窮屈を感じずエコノミークラスに 収めることに成功し、付け焼刃でスペイン語の教本とにらめっこする。そもそも 英語すら苦手なのにスペイン語など急に覚えられるわけがない。菊はあくまで 助っ人であり、向こうにはスペイン語も堪能な先任者がいて仕事において言葉の 心配はないものの、現場から離れた途端必要になるのだ。どうせスペインまで 行くなら空いた時間は観光に当てたいのが人情というものだ。だが菊を教本に 集中させてくれない友好的な悪魔が偶然隣の席に座っていた。 「せやな〜バルセロナもなかなかええところよ〜?ガウディの作品がぎょうさん あってな〜せや、サグラダファミリアぐらいは聞いたことあらへん?いつでける ねんいう話やけど最近その真下にトンネル作りよってなあ、それで崩壊するん ちゃうか〜て聞いたら『そしたらまた作ったったらええやん』やて!あと何百年 待たなあかんねや〜堪忍してや〜って、俺?俺は別の生まれでな〜そうそう アンダルシアはめっちゃええところやで〜!ボク観光なん?観光やったら俺が 隅から隅まで案内したるわ〜まずはアルハンブラ宮殿なんてどお?平凡すぎる やろか?でも闘牛とフラメンコは外せへんわ〜なんたって発祥の地やからな〜 俺も若い時分はブイブイ…え?何?短期滞在?あかんわ〜これやから日本人は カロウシしてまうんやで〜?ボクもまだ若いんやからもっと人生に余裕を持たな あかんで〜」 淀みない関西訛りの悪魔はまさにマシンガントークという勢いで菊に口を挟む 隙を与えず一方的にまくしたてる。静かなのは食事中か寝ているかのどちらか だけで、そうでなければ口は常時滑らかに動き続け、よくもまあ話題が尽きない ものだと逆に感心してしまうほどだった。それにしても瞳の色といい日本人には 見えないし、これほどスペインに詳しいならスペイン人ではないかと思うのだが、 この限りなくネイティブに近い関西弁は一体何なんだろう。何より"ボク"扱いは いくら童顔だからとはいえさすがに勘弁願いたいと適当に相槌を打ちつつ根気 強く話を聞き続け、成田から約16時間。アナウンスと共に機体は徐々に高度を 下げていき、異国の町並みが近づいて来る。 「もう着いたん!?あかんわ〜!かわいこちゃんとお話しとるとあっちゅーまに 時間が過ぎてまうわ〜ほなこれ俺の携帯の番号やから何や困ったらいつでも 連絡してな!いつでもどこでもすっ飛んで行くで!あ、俺?まだ名前言うてへん かった?こらまたウッカリやわ〜俺はアントーニョいうんやけど、君は?」 それがアントーニョとの出会いだった。とりあえずその場の雰囲気で雑誌の 切れ端を受け取りはしたが、走り書きされた番号に電話することはおそらくない だろうと菊は思っていた。しかし初日の仕事も無事終わり、滞在予定のホテルに 向かう途中で道に迷ってしまった。先任者の携帯も何故か繋がらず、ほとほと 困り果てた状況で他に誰か頼りになりそうな人物は思い当たらない。ほとんど 祈るような気持ちで番号を押して数コール後、アントーニョは機内でのやり取りを すっかり忘れたのか誰やったっけ?と開口一番、絶望感に突き落としてくれた。 菊が半泣きで説明すると嬉しそうに「…え、あんときの日本の子?ほんまに連絡 してくれたん!嬉しなあ!」と何とか思い出してもらい、やっと胸を撫で下ろした。 約束通りすぐ駆けつけたアントーニョの顔を見て妙にほっとするも、日もとっぷり 暮れきった時間帯では観光も何もないのでその夜はアントーニョの行きつけだと いう地元の人間が集う居酒屋風の店で食事を取り、ホテルまで送ってもらって そしたらまた明日!と別れた。菊は明日もまた会うつもりなのだろうかと疑問を 覚えながらも遠ざかる車の後姿を見送った。結局は翌日お礼がてら食事を奢ろう としてもっと太らなあかんよと逆に奢られ、さらに翌日も、そのまた翌日も食事を 共にすることになる。待望の休日にはアントーニョの案内でバルセロナ市街を 観光すべく到着を待っていると、クラシックカーと呼ぶにはかなり無理があった 車がせっかくのデートにあれはないわな!とド派手でピカピカのスポーツカーに 化けて菊を唖然とさせた。アントーニョはガイドブックに載っている有名観光地 から聞いたこともない場所まで達者なしゃべり口を伴ってあちこちに連れ出す。 けれど一番に見たかった闘牛場は閉鎖されていて肩透かしを食らった。俺かて ほんまは見せたかってん…と少しだけ元気のない帰りの車内でアントーニョが 二十歳まで正闘牛士として今は廃墟のように静かな闘技場で活躍していたと 聞いて菊は余計残念に思った。闘牛を見てみたいと言ったときの喜びようを思い 出す。菊が興味を持ってくれたのが相当嬉しいらしかった。正闘牛士というのは 本当に希少な存在で、養成学校を卒業して何年下積みをしてもその栄誉を勝ち 取れるのはほんのひと握りだと説明する明るく軽い口ぶりからはどれだけ大変な 道のりだったのかまったく伝わって来なかったけれど「せやから転職せなあかん かって、どうせなら日本に勉強行こ思て、ホラ俺アニメとか好きやったし。大阪は ほんまええとこやったよ〜」とそれで舌に馴染んだらしい関西訛りの理由も菊は 知った。闘牛士姿のアントーニョを思い浮かべるうちいつしかデートという言葉を 否定するのを忘れ、その後も毎日毎日顔を合わせて二週間のスペイン出張は 終了した。帰国の日にはアントーニョが空港まで見送りに来て、仕事でもええ からまた来たってや!待ってんで!と姿の見えるギリギリまで手を振っている のを見て、菊は何か忘れ物でもしたような気分で機上の人となった。しばらくして のんびりなスペイン人に求めるには難しいワーカホリック気味な菊の働きぶりを 先任者がいたく気に入ったらしく、二ヶ月に一度はスペインに招聘される羽目に なった。今は堪能な日本語を活かして商社に勤めているというアントーニョは菊が 電話するたび仕事を放り出してもすぐに駆けつけるので、毎度毎度迷惑をかける わけにいかないと自らスペイン語の教室に通い始め、あるときバルセロナ出身の 教師に出会った。友人として名前を出すと闘牛場が閉鎖される以前、彼はリーガ エスパニョーラのエースストライカーにも負けない有名人で自身も熱心なファンで あったと教えてくれた。次にスペインに行ったときはファンに会ったことを本人に 教えてやろうと厄介な出張が楽しみになった。こうして偶然をきっかけに親交を 深めて三年が経ち、菊は休暇でスペインを訪れた。初めて会ったときに聞いた アントーニョの故郷に行ってみたくなったのだ。それを告げると時差を物ともせず 電話の向こうでアントーニョは『そらあかん!絶対に休みもぎ取ったるで!ほんま 嬉しわ〜菊ちゃんが休暇で俺の故郷に行ってみたいなんてな〜!』と大喜びで、 満面の笑顔が脳裏に浮かぶ。そのあたりには菊のスペイン語もだいぶ上達して ひとり旅も充分可能だったが、アントーニョが一緒ならさぞ楽しいだろうと思って いた。そしてアンダルシアで待ち受けていたのは肌を焦がすような強烈な真夏の 陽射しと、以前見たのとはまるで別物の一万以上もの観客が熱狂する生きた 闘牛場だった。極めつけがちょっとだけ待っといて!と菊を日陰席に残して姿を 消したアントーニョが写真でしか見たことがない華やかで勇ましいあの衣装で その熱狂の中心に現れ、試合を前にして帽子を菊に投げてよこしたのだ。命を 賭ける男の射抜くような鋭い目は菊がよく知るアントーニョのそれではない。後に 聞いた話だが、それはこの演技と牛の命をあなたに捧ぐという意味を持つ特別な 行為だったのだそうだ。観衆も何故この地が生み、とうに引退した花形闘牛士が ここにいるのか今日の出場闘牛士リストにも名前はなかったはずだと呆然として いたが、まもなく始まった華麗な演技は現役時代と何ら遜色なく始終オーレ!と 声援は絶えることがなかった。それと同時にその彼が帽子を捧げた相手として 菊は注目を浴びる。演技終了後、帽子を取りに来たかと思われたアントーニョが 菊の前で膝をついたからだ。そのまま菊の手を取って顔を寄せた直後、手の甲に 温かく濡れた感触がしてキスをされたのだと気づいて目を瞠る。アントーニョは 険しい表情から一転、アンダルシアの今にも降ってきそうに近い太陽のように 眩しい笑顔で言った。 「…俺と結婚したって?」 ただ仲のいい友人同士で夏のバカンスを楽しみたかっただけなのに、ずるい、 こんな演出をされては絶対に断れやしないではないか。そんな風に思いながらも 菊は熟れたトマトのように顔を赤く染めて笑う。いつのまに友人の領域を越えて いたのかなんてわからない、それでも「Si」以外の返事が存在するわけがない。 アントーニョは実家近くの支店に転勤を決め、菊は日本の会社に辞表を提出して スーツケースひとつでアンダルシアに再度やって来た。諸々の手続きと婚姻の 手続きをして、家業のトマト栽培も継ぎ、やがてロヴィーノが生まれ、ひょんな 出会いから家族になって、現在に至る。 「あれは今でも卑怯だと思うんですよ、かっこいいじゃないですかマタドール」 菊の言葉を否定するでも肯定するでもなくロヴィーノはどうでもいいとばかりに 味見とおやつを兼ねたトマトのシロップ煮のゼリーを頬張っている。両親の馴れ 初めほど聞いていて恥ずかしいものはない。特にプロポーズの演出はどう考え たってやりすぎだ。ロヴィーノの返事がないのもあまり気にならないようで菊は 鼻歌混じりにキッチンに立っている。十年目の結婚記念日だからといって今日の 菊は少々ご飯の支度を張り切りすぎている。早く帰って来ねーとテーブルに皿を 置くスペースもなくなっちまうぞこのやろーと心の中でアントーニョに助言しつつ、 今日ぐらい休みにしたってくれてもええのにあのドケチ!見てみい!意地でも 早退したったるわ!と宣言していったニヤケ面を見るのもうざったいとそろそろ 反抗期を迎えたロヴィーノは遠目でため息をついた。 |