「YMO」は長く憂鬱な、そして最後のツアーに出た


                                「 セットリスト」、「セトリ」。このような便利な用語が一般化したのはいつごろからだったろう。

                 

                 ここに80年代時代音楽雑誌がある。そこには、あるフュージョンバンドのライブレポートがあった。

                 「六本木の夜に―」とか「超絶ベース」なんてある。

                 そこで、下を見ると「演奏曲目順」とあった。


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                        ちょっとここで、僕が数年前に書いた文を見ていただきたい。


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YMO第2回ワールド・ツアー(80年)直前に、細野晴臣氏が「次のアル
バム・タイトルは地蔵です」と発言したのを、朧気ながら覚えている。
 驚愕したと同時に「一体これは……」と絶句もした。
 Yellow Magic Orchestra - Solid State Survivor - Public Pressure
- Multiplies- 地蔵。
 バンド名も「ジーゾ」に改名する、と仰っていた事まで記憶しているので、あながち僕の全妄想でも無いだろう。

 そのツアーを中成功で終え、凱旋コンサートが「From Tokio to Tokyo」
と小粋に銘打たれ、12月24−27日に日本武道館で開催された。

 香山から「チケット入手」の朗報を得た僕は、その日が待ちきれずに、
フジTVでオン・エアされた「ロス・ライブ宇宙中継」のビデオを、誇張
ではなく一日に2,3回見て、全ての情報を頭に入れた。これが大ミステ
イクだった事に気付くのは、その一月後の12月26日、当日の武道館
に於いてである。

 大学生だった香山が、「スキー合宿」という余りにも謎めき、そして
切なくも美しいイベントを放棄して、長野から転がるように武道館に到着。
 もう一人の同行人、香山の学友のI氏も現地集合だった。

 僕はといえば、中学生だったが生意気にも「Nylon 100%」でカフェ・
カプチーノなど飲み、81/2のソノ・シートを2枚買った。
 渋谷から目指す武道館まで、電車で移動。
 何のことは無い、現在より遥かに自発的だったのだ。あの時の
自分は、今何処でどうして居るのか。

 オープニング・アクトは、サンディ&サンセッツだ。大好きではあるが
日本のコンサート史上、前代にして未聞の「過酷長時間アクト」っぷりで、
人々の手拍子も小さくなって行き、やがてそれも途絶えた。
 20分の休憩。「國際画報」と名付けられたパンフを購入し、トイレも
行った。親の仇の様に皆、険しい眼つきで煙草を吸っていた。
 From Tokio to Tokyoと、テクノ文字で書かれた白い垂れ幕が
撤去され、「Riot in Lagos」からライブはスタートした。その時、僕は
「ああ、そうか!」と、愚かな自分に気が付く。

 眼前に広がる光景は、前日まで見ていた「ロス・ライブ宇宙中継ビデオ」
がデカいスクリーンで、再生されているに過ぎないものだった。
 衣装、音色、セット、機材、、、何もかも「ビデオ」だ。そして、
そのビデオは数えきれない程に見たビデオだ。
 今なら「ヴァーチャル・リアリティである」とか適当に言えるが、そんな
洒落た言葉は誕生しておらず「……同じだ」と、呟く他無い。
 僕が取り分け堪えたのは、御丁寧にも「曲順まで同一」な事だった。

 「ライブの楽しみ」には、色々在る。御贔屓のアーティストを生で見られ
る眼福、一体感、グッズ購入。しかし、その楽しみの80%位は「次の
曲は何か」と、予想する楽しみで占められている様に思う。
 詳しくは解らないので迂闊には記せないが、「サザン・オールスターズ」
コンサートで「いとしのエリー」のイントロが始まった時の、あの何とも
表現出来ない、どよめきと大歓声。
 そこには「まさか、エリーを演るなんて。桑田さん、有難う御座います」
という、逆感謝と感激でアリーナ全体が、電気マッサージされている様な
痺れに包み込まれる。良いムードだ。羨ましい。
 ライブは常に、こう在りたい。嬉しい裏切り、予想外、約束事。
この様な要素が絡み合い、会場は緊迫し、濃密で狂おしい空間と成る。


 「ああ、ナイスエイジか、在広東少年、、、そろそろ終わりか」
 何しろ、楽しみ−80%であるので、20%に喜びを見出すしかない。
 それは、坂本氏がミスった、とかユキヒロの声が裏返ったとかの、嫌な
楽しみ方しか最早、見出し様がなかった。
 気が付くと僕は、地蔵の様に固まっていた。手を打つ訳でも無く、
声援を送るわけでも無い。物言わぬ地蔵だ。
 ところが、もう一体「地蔵」が居た。

 香山は、スキー合宿から脱走して来ただけあって、それなりに楽しんで
いる。
 今では考えられない事だが、当時のコンサートはジャンルを問わず、全員
着席して鑑賞するのが通例だった。「総立ちの久美子」というコピーが、後年に誕生する一例で、お解かり戴けるだろう。
 では、如何様にして「ノリ」と「興奮」を表現したか。それは「手拍子」
と「頭部の左右の移動(ヘッド・ヴァンキングとは、また違う)」によって
である。
 香山も、その作法に則り「頭部の左右の移動」を欣行していた。

  序盤、「ライディーン」の曲中に信じられない事が起こる。
 我々の、一つ真後ろの席の女の子(高校生くらいだった)が、香山に
「見えないので、動かないでください」
 と言った。

 「動かないでください」……、レントゲン撮影では、よく聞く言葉
である。が、ここは病院ではなく武道館で、演目は「YMOライブ」だ。
 多分その女の子は、異様に広い肩幅の僕に「見えない」と言いたかったのだろう。
 しかし、地蔵化し、ピクリとも動かない僕には何も言えずに、香山に
不満がぶつけられたのだと思う。
 ああ見えて気が小さい香山は、その理不尽極まり無いクレームを遵守
した。頭部どころか、脊髄まで動かせない「座行」の様なライブ鑑賞となった。
 だが何より、顔面の表情筋が全停止し「不動の人」と相成った香山は、
神々しいまでの「地蔵」に見えた。
 全てのプログラム終了後 「いやぁ、面白かったねぇ」と呑気に語る、
同行のI氏に相槌さえ打たず、二体の地蔵は無言で家路を急ぐ。

 YMOの新作が「地蔵」などではなく「BGM」だと知らされたのは、年明け
早々の事だった。

 今でも、そのビデオを時々見る。地蔵化した、20年前の若くて、まだ
無名だった香山と、活発だった自分を思い出し、これ又、微笑みたい様な、泣きたい様な感覚に襲われる。

 20年後、自分の「この先」が見えても、このビデオを見、同じ事を想う
だろう。
 微笑んでいるか。泣いているか。


                       YMOロンドン公演の「セットリスト」が不評だ。「去年の横浜と

                       大差ない」ということらしい。

                       ロンドンまで行った方には、本当に気の毒に思う。思うけれども、僕は「YMOは

                       いま、長いツアーをやっている最中だ」と考えている。長いとは、半年などでは

                       なく、3年、5年のスパンだ。そうなるとセットは変えられない。「MAPS」の

                       あとに「インソムニア」やるなんてことはない。


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615 ロンドンSL

01.以心電信
02.スポーツマン

03.FLY ME TO THE RIVER / SKETCH SHOW『LOOPHOLE』(2003)
04.MARS / SKETCH SHOW『LOOPHOLE』(2003)
05.FLAKES / SKETCH SHOW『LOOPHOLE』(2003)
06.RIOT IN LAGOS / 坂本龍一『B-2 UNIT』(1980)
07.ONGAKU

08.RESCUE / HASYMO single (2007)
09.TURN TURN / SKETCH SHOW『AUDIO SPONGE』(2002)
10.TOKYO TOWNPAGE / 映画『TOKYO!』主題歌
11.The CITY OF LIGHT 
12.SUPREME SECRET / SKETCH SHOW『AUDIO SPONGE』(2002)
13.WONDERFUL TO ME / SKETCH SHOW『AUDIO SPONGE』(2002)
14.TIBETAN DANCE / 坂本龍一『音楽図鑑』(1984)
15.WAR AND PEACE / 坂本龍一『CHASM』(2004)
16.RYDEEN 79/07 / YMO(2007)
(EC)
17.CHRONOGRAPH / SKETCH SHOW『LOOPHOLE』(2003)
18.CUE / YMO『BGM』(1981)


さりげなく、チべタン−やっただけでOK。

ぼくらは年をとる。それは抗えない。そして

同じようにYMOも年をとる。太るし、薄毛は進行し、白髪が増え、

何より、YMOに対して動機付けが弱まるのも(周りはどうあれ)

仕方のないことであろうと思う。

それでも私たちはニューウェーブを考える。

20年後、自分の「この先」が見えても、同じ事を想うだろう。
 微笑んでいるか。泣いているか。


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