Lingua Franca-1

Lingua Franca-1(以下、LF-1)は、EP-4の遺した唯一のフルアルバムであ

る。

と、簡単に記したが、発売に至るまでの経緯がEP-4らしかった。

まず、83年5月21日にリリース決定。しかし、発売元を当日まで伏

せるという策略を取った。そして、「EP-4 5.21」と記されたシル

バーのシールを東京都内に6万枚余、無差別に貼り付けるというゲリラ

的な宣伝を行う。

lf01.JPG

発売が近づくに連れ、噂が漏れてきた。「ジャケットは藤原新也氏らし

い」「アルファから出るらしい」「いや、ポニーキャ二オンらしい」、

楽しい噂だけではなかった。「発売されないらしい」「延期らしい」

「解散らしい」、、、

そして5月21日、LF-1は店頭には並ばなかった。サブ・タイトル

「昭和崩御」が不敬にあたり、レコード倫理委員会からストップが

かかった。

しかし、彼らはこの5月21日に京都ー名古屋ー東京でギグを敢行。

結局、同年の9月にLF-1はサブタイトルを「昭和大赦」に変更し、ジャ

ケットも藤原新也氏の「東京漂流」の1カット、当時いわゆる「金属

バット殺人事件」で世間を戦慄させた「I.N」のシャッターで閉ざされ

た家に変更となった。発売は、日本コロムビア(AF-7205)だった。

 side1    1 Robothood Process

          2 The Framp Jump

          3 Similar

          4 Coconut

 side2    1 E-Power

          2 Talkin'Trash

          3 Broken Bi-Psycle

          4 Tide Gauge

上記がLF-1の曲目である。アルバムの印象は、精鋭の一言に尽きる。

ギグの有機的(今で云うところのグルーヴ)な面が後部に下がり、

佐藤 薫の「何かを言いたい」情動が前面に来た感が強い。

又、同年9月25日にはペヨトル工房より、お蔵入りとなったファース

トヴァージョンのジャケット(藤原新也氏撮影、軍鶏、記憶の中のEP-4

内に画像あり)とサブタイトル「昭和崩御」を復活させ、30cmシン

グル、Lingua Franca-Xとして書籍扱いでリリースする。

さて、私の拙文より次の文をお読み戴きたい。LF-1の中に寄せられた、藤原新也氏の「曖昧な赤子」という名文である。

EP-4、という名は、健康獲得という効用に背反する絶対毒を常に癒着させている、ヴィタミン剤に似ている。

それは我々の時代の宿命だ。

一見サンバ風のフットワークを踏んでいるように思える The Frump Jump にしたところで、それは南米の光の下で黄金に輝くコーンや、油ぎったリブステーキを食って生まれたものではなく、45分毎に三錠のヴィタミンEの科学反応によって得られる質のリズムと持続であるように思える。

その奇妙なフットワークの中で、多分EP-4独自のものだと思われる、いくつかの曖昧な肉声を聞いた。

彼らの一度だけ使う犬の声は、例えばピンクフロイドの犬の声が、都市からその外部の彼方の開かれたものに向う遠吠えであるのとは異って、目の前の至近距離の都市のエッヂに食いつく狂暴さがうかがえる。

また、犬の声と同じように、たった一声だけ聞こえる赤子の声は、非常に注意深く聞くか、集中力を持って聞くかしない限り、聞き漏らしてしまうほど、日常の猥雑さの中に紛れ込んでいる。それは、女陰の外(社会)のすべての危険思想(日常)の中にあえて生みおとされるしかない、80年代の赤子固有に持つ宿命だろう。

それらの黒い影をひく肉声と、微妙に異なって繰り返されはじめる Tide Gaugeの中の肉声に私は注目した。あたかもコーランの唱いのように繰り返されるこの一つのフレーズは、あの赤子の巨大な日常のダメージの中で一人立ち上ろうとする「意味」を感じる。エレクトロニクスの背後に隠された、曖昧なそれら様々な肉声が、どのような感応の意味(メッセージ)を持ちうるか。

つまりその曖昧な赤子は、どのように育ちうるか。

          藤原 新也

                                     < 謹写 圭骸 >