記事タイトル:佐藤薫 全仕事? 


書き込み欄へ  ヘルプ
お名前: LOOM   
すいません。レーベル名が違ってました。正しくは、ヴェクセルバルクでした。
 
[2002年10月19日 4時55分54秒]

お名前: LOOM   
tocoxさん レスありがとう。初めて書きコして、「LITTLE」抜けてしまったり、
重複したりすいません。
関係ないけど、LIVE初体験は、中1の時、YMOのウインターライブを
金沢市観光会館で見ました。いまでも忘れられない出来事です。

さて前回の続きですが、1984.12.7吉祥寺バウス・シアターでサディ・サッズと
競演してます。これは、テレグラフ・ファクトリーが、ヴェクセルクレーベルも
やっていたレーベル縁というわけです。スタイルは違えど、どちらもクールなファンク
をやっていてかっこいい。CDも出てました。ボーナストラック入りです。12インチの
アンゴラはいまでも通ずると思う。

また、初レコーディングの予定では、坂本龍一ハ有名ですが、P−FUNKのバニー・
ウォーレル、二人の調整がつき次第開始だったそうです。やって欲しかったです。

最後にラジオの方ですが、85年4月からFM東京「MUSIC ON THE X」で、
メニュー時のちわきまゆみさんがアシストしていました。なんとなくわかるかも・・・・。
曲は、ノイバウテンやアフリカ・ミュージック・ピンク・日本のインディを特集して
いました。もちろんEP−4も。
ちなみに、ちわきさんはオールナイトニッポンの2部をやっていたこともあります。

また、あったら書きます。では、また。
[2002年10月19日 0時19分20秒]

お名前: tocox   
Sadie Sads 『BOX WITH LITTLE DOLL』 (WECHSELBALG wt-001,002) 85年3月25日リリース。
 (http://www.phoenix-c.or.jp/~tdrock/albumh/album195.htm)
サッズのProdもしてたのですか、いろいろやってますね。

サッズつながりで見ていたら、こんなページも。 
  (http://members6.tsukaeru.net/zin-say/index2.html)
ここに紹介のミニコミ誌「飲茶」 #3では、
サディサッズに、サトウカヲル(EP−4)に、佐藤氏がProdしたアマリリスまで。
[2002年10月14日 22時34分18秒]

お名前: loom   
はじめまして
読んでいたら、sadie sadsの「boxwithdoll」作品のプロデュースを手掛けているのが、抜けているようですが。
後、「punk on wave」という雑誌で、サイキックtvとのインタビューをしたのを持っています。85年だったと思うけど。では、また。
[2002年10月13日 15時56分4秒]

お名前: loom   
はじめまして
読んでいたら、sadie sadsの「boxwithdoll」作品のプロデュースを手掛けているのが、抜けているようですが。
後、「punk on wave」という雑誌で、サイキックtvとのインタビューをしたのを持っています。85年だったと思うけど。では、また。
[2002年10月13日 15時55分53秒]

お名前: loom   
はじめまして
読んでいたら、sadie sadsの「boxwithdoll」作品のプロデュースを手掛けているのが、抜けているようですが。
後、「punk on wave」という雑誌で、サイキックtvとのインタビューをしたのを持っています。85年だったと思うけど。では、また。
[2002年10月13日 15時55分41秒]

お名前: ozaki   
松岡正剛氏は現在、編集工学研究所をされ「編集学校」をweb上でやっておられます。
「編集」という言語を単なる本の「編集」という言葉から、全ての事象につなげ展開されて
おられます。

佐藤薫氏が連載されていたのは俗に言う第三期の「遊」ですね。

あと、私が思い出すのは「ペリカンクラブ」(京都から発行の情報誌)の佐藤薫インタビュー
ではないでしょうか?

「REV」にしても「ペリカン」にしても関西系ですが、やっぱり忘れられません。

あと、鈴木創士もしくは創って知ってます?フランス翻訳者でありEP4のメンバー。。。
ないでしょうか?
[2002年2月10日 21時46分20秒]

お名前: 圭骸@管理人(安静中)   
飴っこ さん、初めまして。これから末永い
お付き合いのほど。
あずさん、PC直りましたか。携帯メールだと
大変ですので遠慮してました。
是非、一度メールください。
それでは。
[2001年11月29日 4時33分58秒]

お名前: あず   
小説王で加藤に扮装した写真には謎の東洋人のような格好の
ユンはんもおられましたね。大変にフォトジェニックなおふたり。

佐藤氏の呼称は「おっちゃん」ではなく「おっさん」でしたわ
これには「さとぉーさん」からなまっていった説と、
地縁血縁の濃厚な関西ならでの現象なのですが
親族に必ず説教の上手な「おっさん」がおりまして
進学や就職などの相談を一手に引き受け頼りにされる、そのような雰囲気が
彼にはあったということからついた説、
あとはそのものずばり「おっさん」臭いから説。

事務所兼住居にいた数匹の猫は松岡氏から譲られたとの記憶があります
(デンキやサンショといった可愛らしい名前がついてました)
松岡氏との関係はビジネスライクなものだけではなくて
共感できる友人に近い間柄だったのではないか?と推察いたします

またなにか思い出したら参上いたします
おっさん、このページ見たはらへんのんかなぁ?(京都弁
[2001年11月28日 3時19分52秒]

お名前: 飴っこ   
どうも、はじめまして。
4,5年前にサイキックTVのCDを買ったのですが、そのCD
ジャケ裏にEP-4のマークがあったので、まだ音楽活動してるの
かな?と検索したら、こちらのBBSに辿り着きました。
http://www.coldspring.co.uk/Covers/psychictv.gif

チコ・ヒゲやエリオット・シャープなんかとやった
レコードが面白かったので、またああいうの作って欲しい
んですが、なんかこちらを拝見すると、無理みたいですね。

では。
[2001年11月26日 15時11分39秒]

お名前: 圭骸@管理人   
gsさん、おはようございます。
「終わり」が始まりました。薫よ、何想う、、、

折角、ケストラーを振ってくださったので
読んでくださっている皆様にご紹介を。

「ホロン革命」アーサー・ケストラー 工作舎 2,884円

今だから、読んでいただきたい一冊です。アマゾンなら余裕で買えます。

さて、gsさんの情報「小説王」。
山川画伯の表紙も斬新で、当時の角川の好調っぷりが
伝わってきました。
カヲル氏が加藤役というのも、うっすら覚えているような、、、
実家に帰った折に探してみます。

ところで「EP−4 News」のこの項目を御覧になりましたか。
・1985年2月14、15日、後楽園特設ミニテントで

  「月世界旅行」なるイベントが行われた。

  一日めは「ディアーナの夢」。EP-4、どくとる梅津バンド

  の強力コンビに加えて、「東京グランギニョル」による

  「帝都物語イメージショウ」が行われた。暖房もなく

  すきま風の冷たいテントの中にあって「ニューウェーブの

   世紀末」を感じさせてくれた、熱い、EP-4。(ここまで)

結局、映画も加藤役はグランの嶋田氏になりました(惜しい)。

後藤氏は一度だけ、お目にかかったことがあり
「口髭を付けた佐藤薫」のようで、あまりにも
格好良すぎて、中学生だった僕は失神しそうでした。
その20年近く後、YMO再生の立役者になるとは。

情報、有難うございます。またお時間が出来ましたら
お書き込みください。お待ちしております。
[2001年10月14日 9時12分17秒]

お名前: gs   
戦争がはじまりましたね。
喰うという目的以外で同じ「種」を殺すのは人間だけだ、といった話がアーサー・ケストラーに
あったような。

思い出したことがあったので投稿してみましょう。
かつて角川書店から『小説王』という文庫本サイズの文芸誌がありました。
そこに荒俣宏という作家が、あまり上手くない文章で『帝都物語』という小説を連載していたの
ですが、その雑誌の或る号に、連載している小説を写真で表現する、といった企画があり、『帝
都物語』の「加藤」という登場人物の役柄でモデルとして出ていたのが佐藤さんだった。
カメラ(撮影)が誰だったのかは覚えていませんが、彼が着用していたのは旧日本軍の軍服で、似
合っているというよりも、まさに彼の「制服」のように見えましたよ(笑)。

荒俣氏とは例の『遊』の寄稿者同士としてのコネクションがあったでしょうし、おれの記憶が確
かなら『小説王』のエディタに後藤繁雄氏がいたと思います。

時間がないので、今夜はここまで。
[2001年10月9日 3時8分52秒]

お名前: 圭骸@管理人   
gsさん、初めまして。
まずは、トップページにも記しましたが、PC
が感染してしまい、ネットにも繋げませんでした。
レスポンスの遅れを深くお詫びいたします。
また、過分にお褒め頂き恐縮です。稚拙なHP
ですが、お時間が出来ましたら覗いてください。

さて、貴重な情報有難うございます。
RNAは、地味に探しています(テープに取ったんですが、、、)

「遊」は、今手元にあるのは81年度のものです。松岡正剛との交換書簡は
字面だけでも面白そうですね。実家に帰ったら探索してみます。

「おっちゃん」は笑いました。飄々とした感じとか、、、「コワモテ」っぽい
イメージが先行してたカヲルですが、そういうエピソードを聞くと
嬉しいですね。

また、お暇がございましたらお書き込みください。
[2001年10月4日 3時21分22秒]

お名前: gs   
 このウェブサイトで管理人氏がなされてることは、今、ネットがツールとなったこの時代でこ
そ実現可能な、貴重なエディトリアル作業だと思う。まずはリスペクト。

 数少ないけど、おれが持ってる関連情報を。
 このサイト、まだ全部閲覧してないので既出だったら失礼。

■R.N.A.O.(R.N.A.オーガニズム)
 EP-4 以前の彼の活動としてヴァニティ・レコードから「R.N.A.O. meets P.O.P.O」という
アルバムが出ている。白黒の幾何学模様のジャケットです。1984、5年ころにコジマ録音から
「アーント・サリー」などといっしょにリイシューされてはいなかったか。
 内容は、全般混沌と下サウンドアブストラクトという印象だが、一曲、ジェイムス・ブラウン
の "Say It Loud" をカヴァしてるかのような楽曲が収められてたのを思い出した。
 当方このアルバムを所有するも、レコードコレクションは封印してあるため“今ここ”になし。

■遊
 雑誌「遊」の、何期だったかは失念、連載はけっこう長いこと続けてたはず。
 彼の日記というか随筆(眠剤の効きが悪い、とか)や松岡正剛との交換書簡といった内容と記
憶している。20年も前の話、大宅文庫、或いは国会図書館を探せばブツが出てくるか・・・

■おっちゃん
 京都で、プランナーとしての彼は敬意と親しみを込めて「おっちゃん」と呼ばれていたらしい。

 また思い出したら投稿します。
[2001年9月24日 14時28分26秒]

お名前: 圭骸@管理人   
bouge!さん、御丁寧なレスポンス、有難うございました。
旦那さんもそうだったでしょうが、僕も「じーん」ときました。
>>あの時代に多くの人にたくさんの事を与えてくれた彼女は、
やはり我々の側の人ではなかったのだということを思い知らされたようなものでした。
ここです、、、。

さて、坊主さん初めまして。
貴重な体験をなさいましたね。
その様な活動、精神的軋轢、葛藤、、、その他諸々の
ことが、形に成り、愛して止まない「EP-4」に
なりました。
>>ここの書き込みを読んでいると、佐藤薫は何人もいたのだという感
じですね。おそらくいまも別の薫さんなのでしょう。無性にお会い
したいです。
、、、また「じーん」としました。
また、お書き込みください。

さて、現在(1980年259月)のEP-4も
更新していきますので、皆様、どうぞ
お時間が御座いましたら、遊びに入らしてください。
スタッフ(圭骸ひとり)一同、お待ち申し上げて
おります。
[2001年8月21日 6時54分9秒]

お名前: 坊主   
生き証人のその3ということにしておきます。

友人から知らせを受け、この魔窟のようなBBSにたどりつきました。
ぼくの知っている佐藤薫と同一人物でない可能性もありますが、お
そらく同じ人でしょう。彼からはボーズと呼ばれていましたので、
彼が読めばぼくのことを思いだしてくれると思い書き込むことにし
ました。ほんとうはぼくなどという年齢ではもちろんありません。

皆さんとはずいぶんと別のところで彼と幾度も行動をともにしまし
た。
あまり個人的なことは書けませんが、ぼくとの関わりに限っていく
つか。少しくらいは彼も許してくれると思います。

ぼくが佐藤薫と初めて会ったのは確か1970年でした。場所は山谷
のベッドハウスにあったある労働者運動の事務所のようなところ。
ぼくは学生で自分の課題を含めた活動をしていました。彼はまった
く場所にそぐわない異常な風体でボランティアのような活動に参加
していました。彼は週に2〜3回早朝の炊き出しなどにやってきて、
昼頃まで仮眠をとって昼飯時の活動を手伝って消えていきました。

彼はいつでも20枚ほどのLPと50枚ほどのシングルレコードをもっ
ていました。ぼくにリズム&ブルースやジャズを教えてくれました。
黒人解放運動やブラックパンサーと日本のある運動との関係、アメ
リカの黒人イスラム教などについてインスピレーションを与えてく
れました。いつも独り言のように話す彼のことが今でも忘れられま
せん。六本木や青山、赤坂、新宿や福生、横浜の踊り場(いまのディ
スコやクラブですね。でも当時は完全なアングラ世界でした。)へ
連れていってもらいました。その中のいくつかは彼の職場でした。
当時その世界では有名だったボーカルグループ(黒人ハーフ娘3人
組)の1人が彼の彼女で、2人が踊っている姿はとにかくかっこよ
かった。

ぼくの記憶では薫さんが京都へ移ったのは73年だったと思います。
ほかの生き証人さんの伝えるとおり、音楽喫茶やディスコの仕掛け
人のような仕事で、初めはすぐに戻ってくるといっていたのですが、
ほかにも京大に拠点のあった黒人解放運動研究グループなどと関わっ
ていたようです。ぼくはその後2度ほど京都へ遊びに行き、東京で
年に1度くらい顔を合わせる程度でしたが、就職と同時に疎遠とな
り、最後に電話で話をしたのが78年頃だったと記憶しています。

その後はある友人を通じて何となく話は聞いていましたが、EP-4の
活動に関してはほとんど理解していません。ただ友人にいくつか音
楽は送ってもらって耳にはしています。

なんか全然まとまらず、ここの主旨の佐藤薫の仕事とはかけ離れて
いますが、思い出まじりで書きつらねました。ほんとうに薫さんは
どうしておられるのでしょう。

ここの書き込みを読んでいると、佐藤薫は何人もいたのだという感
じですね。おそらくいまも別の薫さんなのでしょう。無性にお会い
したいです。
[2001年8月21日 3時59分6秒]

お名前: 旦那@知ってどうなる(自嘲)   
bouge!さま
たった今、管理人さんに思い出の詳細をメールで送ったところでした。。。。。

そうだったんですか・・・ワカ・・・合掌  今ごろ どんとと天国で笑っているのかな♪

bouge!さん そうです あそこです(笑) 私はあそこでバイトしてました。79年頃です
本当に情報ありがとうございました。

管理人さん もうEP-4の活動時代の検証に戻りましょう このことは私も興味があります。
また ぼちぼちと 訪れます
[2001年8月21日 3時2分24秒]

お名前: bouge!   
生き証人その2、bouge! です。
Urban...の画像をトップページに掲げていただき恐縮です。

多分ご存じの方は少ないと思いますので、ワカさんの話など。
長くなりますが、佐藤薫とも仲の良かった方ですのでご了承ください。


彼女が他界されたのは、確か96年の年末です。くも膜下出血だったと聞いています。

とてもちゃんとしたご家庭の出身で(いわゆるお嬢様ですね)、葬儀などの一切
は内々にご実家のほうでされたようです。結局、彼女を慕う人たちがたくさんい
る京都のアンダーグラウンドシーンには、何一つ伝えられることはなく、あの時
代に多くの人にたくさんの事を与えてくれた彼女は、やはり我々の側の人ではな
かったのだということを思い知らされたようなものでした。今でも関係者にはい
い知れない無力感が残っているはずです。我々が彼女のことを無粋に語るのはご
家族の方の意向にそぐわないことかもしれませんね。

彼女の本職はスタイリストで、別れてしまわれたようですが久保田麻琴の奥様
だったサンディーのスタイリングなどもされていました。ライブハウスの拾得に
あった彼女の店ハイカラで2人を見かけたこともあります。彼女のいちばんの功
績はザ・ノーコメンツのプロデュースではないでしょうか。女の子にサックスを
持たせたポップでおしゃれなバンドなんてそれまでにはなかったですよね。バン
ドブームのルーツだと思います。

ノーコメンツの後のノンカテリアンズは商業ベースでないぶん、もっと彼女の好
みを反映したバンドだったと思います。EP-4が京都のライブハウスで活動してい
た頃と、ノーコメ、ノンカテは丁度重なる時期です。ノンカテに佐藤薫がキー
ボードで入ったライブも見たことがあります。

拾得であったノンカテの前座には、どんとが「拾得バンド」とかいって出ていま
した。多分あれがどんとの初ステージではないでしょうか?後にどんとはノンカ
テのメンバーなどとローザ・ルクセンブルグを作ります。

ノンカテ以降にも、彼女が仕掛けたバンドはいくつかあります。その中には、モ
ンド・グロッソの大沢シンイチがいたり、この掲示板でも話題が出ていたFPM
の田中くんなんかがからんだりしています。すべて、その時々の空気をちょっと
先取った(というかちょっとハズした)、だれもやっていないジャンルのおしゃ
れなバンドばかりでした。

ただ、80年代前半の京都のライブハウスということでは、佐藤薫と田中くんが
活動していた時期や音楽の指向があまり重なっているようには思えないのですが
(同日のライブに別バンドで出たということはあり得ます)、私も田中くんが
EP-4で演奏したという話が載っているミュージックマガジンを読んでみたいで
す。管理人さん、調査されたらぜひご報告ください。


当時私は、佐藤薫はミュージシャンとはあまり考えていなくて、プランナーみた
いな人だと感じていました(ニューウエーブってミュージシャンじゃない人が音
楽をやる面白さがありました)。なにか面白いことを仕掛けること、人を驚かす
ことが楽しくてしょうがないというような。そういう点では、彼女と佐藤薫は同
じような視点で音楽にかかわっていた面があるように思います。

彼女は、浮き世離れしているようでいてとても常識的な人で、礼儀をわきまえた
感性の優れた人ならとても気をつかって接してくれました。佐藤薫も、見かけと
は違ってちょっとした顔見知りでも自分から挨拶してくれるような気取らない人
で、互いに感性が通じる部分があったのではないかと思いますね。


>旦那@生き証人 さんへ

先斗町のディスコというと「サ〇〇サ」でしょうか?違いますか?当時のディス
コというよりは今のクラブの雰囲気でした。私は80年前後のころ、この店のあ
まりにカッコイイ音に人生を狂わされたかもしれません(笑)。

佐藤薫が75年ごろから京都で活動していたというのは知りませんでした。さす
がに私もそのころの音楽シーンのことは知りませんので、彼がどんなことをやっ
ていたのか教えて下さい。関西では上田正樹なんかのブルース勢が活躍したり、
ブラックミュージックやカントリー&ブルーグラスなんかが人気のあった時代で
すよね?
[2001年8月21日 0時41分51秒]

お名前: bouge!   
生き証人その2、bouge! です。
Urban...の画像をトップページに掲げていただき恐縮です。

多分ご存じの方は少ないと思いますので、ワカさんの話など。
長くなりますが、佐藤薫とも仲の良かった方ですのでご了承ください。


彼女が他界されたのは、確か96年の年末です。くも膜下出血だったと聞いています。

とてもちゃんとしたご家庭の出身で(いわゆるお嬢様ですね)、葬儀などの一切
は内々にご実家のほうでされたようです。結局、彼女を慕う人たちがたくさんい
る京都のアンダーグラウンドシーンには、何一つ伝えられることはなく、あの時
代に多くの人にたくさんの事を与えてくれた彼女は、やはり我々の側の人ではな
かったのだということを思い知らされたようなものでした。今でも関係者にはい
い知れない無力感が残っているはずです。我々が彼女のことを無粋に語るのはご
家族の方の意向にそぐわないことかもしれませんね。

彼女の本職はスタイリストで、別れてしまわれたようですが久保田麻琴の奥様
だったサンディーのスタイリングなどもされていました。ライブハウスの拾得に
あった彼女の店ハイカラで2人を見かけたこともあります。彼女のいちばんの功
績はザ・ノーコメンツのプロデュースではないでしょうか。女の子にサックスを
持たせたポップでおしゃれなバンドなんてそれまでにはなかったですよね。バン
ドブームのルーツだと思います。

ノーコメンツの後のノンカテリアンズは商業ベースでないぶん、もっと彼女の好
みを反映したバンドだったと思います。EP-4が京都のライブハウスで活動してい
た頃と、ノーコメ、ノンカテは丁度重なる時期です。ノンカテに佐藤薫がキー
ボードで入ったライブも見たことがあります。

拾得であったノンカテの前座には、どんとが「拾得バンド」とかいって出ていま
した。多分あれがどんとの初ステージではないでしょうか?後にどんとはノンカ
テのメンバーなどとローザ・ルクセンブルグを作ります。

ノンカテ以降にも、彼女が仕掛けたバンドはいくつかあります。その中には、モ
ンド・グロッソの大沢シンイチがいたり、この掲示板でも話題が出ていたFPM
の田中くんなんかがからんだりしています。すべて、その時々の空気をちょっと
先取った(というかちょっとハズした)、だれもやっていないジャンルのおしゃ
れなバンドばかりでした。

ただ、80年代前半の京都のライブハウスということでは、佐藤薫と田中くんが
活動していた時期や音楽の指向があまり重なっているようには思えないのですが
(同日のライブに別バンドで出たということはあり得ます)、私も田中くんが
EP-4で演奏したという話が載っているミュージックマガジンを読んでみたいで
す。管理人さん、調査されたらぜひご報告ください。


当時私は、佐藤薫はミュージシャンとはあまり考えていなくて、プランナーみた
いな人だと感じていました(ニューウエーブってミュージシャンじゃない人が音
楽をやる面白さがありました)。なにか面白いことを仕掛けること、人を驚かす
ことが楽しくてしょうがないというような。そういう点では、彼女と佐藤薫は同
じような視点で音楽にかかわっていた面があるように思います。

彼女は、浮き世離れしているようでいてとても常識的な人で、礼儀をわきまえた
感性の優れた人ならとても気をつかって接してくれました。佐藤薫も、見かけと
は違ってちょっとした顔見知りでも自分から挨拶してくれるような気取らない人
で、互いに感性が通じる部分があったのではないかと思いますね。


>旦那@生き証人 さんへ

先斗町のディスコというと「サ〇〇サ」でしょうか?違いますか?当時のディス
コというよりは今のクラブの雰囲気でした。私は80年前後のころ、この店のあ
まりにカッコイイ音に人生を狂わされたかもしれません(笑)。

佐藤薫が75年ごろから京都で活動していたというのは知りませんでした。さす
がに私もそのころの音楽シーンのことは知りませんので、彼がどんなことをやっ
ていたのか教えて下さい。関西では上田正樹なんかのブルース勢が活躍したり、
ブラックミュージックやカントリー&ブルーグラスなんかが人気のあった時代で
すよね?
[2001年8月21日 0時41分12秒]

お名前: 圭骸@管理人   
旦那@生き証人 さん、こんばんは。レスポンスが
遅れて失礼いたしました。

いろいろ考えていました。
突き詰めていくと、なぜ「カオル氏がニューウェーブ・ゾーン
に突入したのか」ということになるでしょうか。
特に旦那@生き証人 さんの様に、ファンキーなカオル氏を
知る方には、その変貌振りには驚かれたでしょう。

その極めて重要なテーマについては、これから
秋にかけて資料をアップして行く意向でおります。

「松岡正剛(工作舎)、山崎春美、野々村文宏、現代音楽、細野晴臣」
ここら辺に「手掛かり」がある様に感じます。

旦那@生き証人 さんのお書き込みは本当に
貴重なものです。お時間が出来ましたら、また
お願いいたします。
[2001年8月20日 5時4分59秒]

お名前: 旦那@生き証人   
管理人様 早速のレスありがとうございます。                    
ただ私の書き込みはプライバシーに触れ、また私の誤解もあるやもしれませんのでご本人や
関係者の方からクレームがきた場合はそれに従って貰えれば幸いです。

わたしは皆さんと違い、カウンターカルチャーとかオールドウェイヴに原体験を持つ人間です。
しかしココに投稿する私は管理人さんや皆さん、そしてBUGさんが言われるように「佐藤薫の用
いていたタームが確実に顕在化し」という気付きにモチベーションを共有する者です。

京都から上京し、原宿の521のゲリラ的パブリシティ(?)やFM局のパフォーマンスで「再会」
したEP-4すなわち佐藤薫氏と既知の彼をどう結びつけていいのか正直戸惑いました。
あの京都で知っている「イカした兄ちゃん」が「彼」なのか?「なぜこの音なのか?」無知な
私は知っている限りの当時のニューサウンドすなわち当時のポップグループやXTC・イーノ・
DUBのD.ボヴェール・日本のグンジョーガクレヨン・フリクションなどを彼のユニットに重ねて
「アラ」を探す作業を始めた記憶があります。しかしそれを超越してノイジーでした。
また「ファンク」と言うからにはP-FUNK軍団をオーガナイズするG.クリントンが彼のねらいか
なと思ったりもしました。   今ではこれらすべてが彼のサウンドに関係なく、しかし関連
していると思っています。既知の彼がリスナー兼レヴューワーとしてものすごいパワーで接し
てきた膨大な音源と黒人音楽への憧憬の記憶は新しいコンセプト作りに少なからずとも影響は
しているような気がします。(この型嵌めも流動的でしょうが)

彼は非常におしゃれで目立ちました。(カリスマ性を内部から絞りだす形ではなく。)
そして彼はアナログで人間臭く下世話なジョークやユーモアでも理解できる人だと私は記憶
しているのですが、一般人には難解な音のコンセプトでも それに飲み込まれないようヴィジ
ュアル面やトリックスター的な茶目っ気で 遊び心を忘れない様にしてたのではないかと・・

今 甥っこがorb.などのトランスミュージックに夢中です。また音源やリズムをサンプリング
して自由自在に記号化⇒ストリーミング(配信)しています。楽譜など読めずとも・・・・
この現象もEP-4が出現した時空と通底しているから EP-4が気になってしまうのです。
[2001年8月18日 7時24分10秒]

お名前: 圭骸@管理人   
旦那@生き証人 さん、初めまして。これからも
よろしくお願いいたします。

削除なんて、とんでもない!様々なことが
有機的に結びつく、手掛かりを戴きました。
今後のアップの良い参考になります。

また、「ワカさん」のことですが、どなたか
詳細をご存知の方、レスポンスをお願い
いたします。

 旦那@生き証人 さん、また是非、お書き込みください。
心よりお待ちしております。
[2001年8月18日 2時26分5秒]

お名前: 旦那@生き証人   
はじめまして、ミステリアスなサイトに迷い込んでしまいました。(笑
佐藤さんの事、本人のいないところで大変失礼なのですが思い出すことがあります。
たしか彼は75年頃関東から京都に入りR&Bやソウルの音楽喫茶をプロデュースしています。
特に黒人音楽には造詣が深く、大御所評論家の桜井某氏のからみでライナーノーツを書かれて
いると思います。その後「ディスコ(死語」のプロデュースも手がけその内の一軒は先斗町に
ありました。ミステリアスな人で年齢も生い立ちも不詳でしたが噂では55年生まれとの事でした

とにかく実業家としての彼しか知らない私でしたが、黒人音楽フリークと認知していた彼が
クラブ・モダーン(前Binbo Box?)のプロデュースから前衛的なEP-4での活躍は他の方もおっし
ゃっていますが「胡散臭さ」も内包した人の期待を裏切る退廃的かつアグレッシヴなスピード
を79年頃から加速させていたとおもいます。そしてあのテクノ・ニューウェーヴのブーム・・・
今どうしていらっしゃるのでしょうね。

最後にご存知の方がいましたら教えて欲しいのですが、下の方で書かれている佐藤さんの知人の
「北山ワカさん」ですが、彼女は初期ローザのご意見番かつ雑貨屋「マルディグラ」の主人で
デビット・ボウイと佐藤さんと「クラブ・モダーン」でダンスをしたというあの「ワカさん」の
ことでしょうか?亡くなられたとのことですが、いつどのようにして・・・面識がありました。

駄文を書きましたが、趣旨をはずすと判断されましたら、ご寛容の上、削除願います。
[2001年8月17日 21時41分55秒]

お名前: 圭骸@管理人   
わたなべさん、こんばんは。
ご指摘有難う御座います。
完全に僕のエラーです。
確かに「flanged violin」で参加なさってました。
失礼いたしました。

また、お書き込みください。
[2001年8月3日 0時8分15秒]

お名前: わたなべ   
「EP-4 NEWS」の方にも書き込みさせて頂いたわたなべといいます。

このスレッドを見て、なぜ「左うでの夢」へ佐藤薫が参加したことが
書かれていないのか不思議だったので書き込みました。

http://www.ongakudb.com/search/pkgview.asp?code=MDCL1240

この頃の坂本龍一との交流は管理人さんの「EP-4-YMO in the Dark」の
熱い記述でもわかりますが、その一端の記録としては重要なものかと思いますが。

それともホームページのどこかに書かれていましたか?
そうだったらスミマセン。
[2001年8月2日 8時29分5秒]

お名前: 圭骸@管理人   
えんぷてぃさん、皆様おひさしぶりです。

何で「戦メリ」にカオルが出ないのか?
とバカ友人と話し合ってました。当時。暑い夏だった、、、
[2001年7月12日 4時42分43秒]

お名前: えんぷてぃ   
 皆さん,こんにちは。えんぷてぃです☆

 いつぞや,ボウイが来日してお忍びで数日京都をウロウロしたことがありましたよね。
そのときに,モダンに現れたのですよ。(^^)
[2001年7月8日 4時31分10秒]

お名前: えんぷてぃ   
 圭骸さん,皆さん,お久しぶり。
 bouge!さん,はじめまして。  

 いやぁ,OSのバージョンアップをしてからずっとトラブッていましたの。(ーー;)
 やっとアクセス+発言できるようになりましたわ。(^^;

>EP-4のこと自体はあまり詳しくないのですが、この時代京都のライブハウス
>などをうろついていましたので、大変懐かしく読ませていただきました。

 きっとどこかですれ違っていたでせうね。(^^)

>Xenon(だったかな?)には、入口にPlasticsのサインがありましたね。

 うーん,わたしの記憶にはございませんわ。


 では,また。(^_^)/~
[2001年7月2日 4時2分44秒]

お名前: mond   
カオルさんは、何年生まれですか?
[2001年6月16日 14時28分15秒]

お名前: つるはし   
>bouge! さん   
>佐藤薫のパートナーはRさんではなかったでしょうか?
そうでした!
きれいな、かわいいかたでしたね。
[2001年6月14日 21時12分4秒]

お名前: BUG   
BUGです。

 | おふたりのお子さまはいまいくつでしょう?
 | たしかご令嬢だった気が。妙齢なのでは?

あ、それって一番の大仕事かも。
[2001年6月13日 18時24分19秒]

お名前: しゃちょう   
そうだ!Rさん!思い出しました。
オーストラリアの方ですよね。
おふたりのお子さまはいまいくつでしょう?
たしかご令嬢だった気が。妙齢なのでは?
シーナ&ロケットのふたごの娘のかたわれも、今や
世界的デルモになってるんですね。週刊文春に出て
ました。
[2001年6月13日 13時44分30秒]

お名前: 圭骸@管理人   
bougeさん、はじめまして、圭骸@管理人です。
貴重な情報、ありがとうございます。

KIOTO-NewWaveにも造詣が深いと、お見受けしましたので
色々教えてくだされば幸いです。

EP-4でなくても全然構いません。CCBでもメロンでもYMOでも
80年代であれば何でもオッケイです。

拙いHPですが、末永いお付き合いのほどを。
[2001年6月8日 0時19分46秒]

お名前: bouge!   
はじめまして。
検索をしていて、ひょんなことからこのページがヒットしてしまった者です。
EP-4のこと自体はあまり詳しくないのですが、この時代京都のライブハウス
などをうろついていましたので、大変懐かしく読ませていただきました。
Xenon(だったかな?)には、入口にPlasticsのサインがありましたね。

佐藤薫のパートナーはRさんではなかったでしょうか?
丁度UB40がザ・シーンに来た時、ピッタリしたセーターとパンツに臨月
間近のお腹がどかーんと目だってたのが目に焼き付いています。

法政大学のギグは確か82年以降のように覚えています。
ローザの玉城さんがいたノンカテリアンズなんかと一緒だったと思う。
久々に懐かしい話題なので、こんど実家に帰ったらネタを掘り出してみます。
では。
[2001年6月7日 22時10分14秒]

お名前: 圭骸@管理人   
みなさん、こんばんは。
BUGさんに想を受け、メインページに
「ない」が「ある」EP-4 NEWS
という項目を設けました。どんな些細な情報でも構いません。
思い出した方、そんな気がする方、どうぞ、こちらか
EP-4 NEWSにお書き込みのほどを。
勿論、他の項目もお待ちしております。
[2001年6月5日 21時49分29秒]

お名前: しゃちょう   
京都の人はなぜ京都を出ないのか?
浅田彰を始めとして、京都で生まれて京都の学校に行って
そのまま京都を根城に活動する人、多いっすよねー。
最近だとダムタイプ。

ある人に「なじぇ?」ときいたら、
「京都大学を始めとして、京都はユニバース、つまり世界に
開かれている場所だから、出る必要なんかないんだよ」って。
EP−4もそうだったんですかね?(こじつけ)

そうそう「ハムナプトラ2」みなさん、見てくださいね。
きっとみなさんも好きな「フードつき長い黒衣の修道士ファッション」
の人や、スキンヘッドにレザーの長い黒衣の人がたくさん出て
きまっせー。
でも最後にロック様がサソリの化け物になって壁をサササっと
這いつくばったりするの。ううう。人間扱いしてくれ。
あ、ロック違い?…失礼しました!!
[2001年5月31日 13時11分51秒]

お名前: えんぷてぃ   
 皆さん,こんにちは。

>> きのう思い出せなかった京都のディスコは  でした。四条のビュッフェビルにあ
>>りました。
 
 今ごろ気がつきましたが,文字がトンでいたのですね。(^^;
  (ゼノン) ですわ。

 では,また。(^_^)/~
[2001年5月26日 3時47分40秒]

お名前: BUG   
521ですね。
きのう昔の友人と電話で話す機会があり、少し盛り上がりました。


| ■法政大学の学生会館で何か巨大なアートに音をつけた(新聞に載った)?

そのときに、この記事が載ったのは朝日新聞だったとの情報を得ました。
80年から82年の間という曖昧な記憶らしいのですが、そんな昔の記事では
検索できませんね。朝日新聞に問い合わせれば記事内容などを照会できる?
[2001年5月21日 18時1分31秒]

お名前: クリスタルモンスター      
あああ、521の三ケ所ってのは京都、名古屋、東京でした。
ボケてます。いま「CASE OF TELEGRAPH」のライナーみてて気付きました。
失礼ー。
[2001年5月20日 13時28分14秒]

お名前: えんぷてぃ   
 圭骸さん,皆さん,こんにちは。

 ちょっとトラブルで1週間,ネットにアクセスできませんでしたの。(^^;
 こういうときのため,@Nifty以外のアクセス方法も確保しておかないといけません
ねぇ。今回いろいろトライしてみたのですが,なぜかODNもDIONもCD-ROMで接続で
きませんでしたわ。(ーー )?


[2001年5月20日 4時15分56秒]

お名前: 圭骸@管理人   
クリスタルモンスターさん、初めまして。お返事遅れて
すいません。
大変、貴重な情報、誠にありがとうございます。
特に、イタリアで「E・power」が、、、と思うとじーんと
来ます。
思いつくまま、どうぞ話題を提供してください。
楽しみに待ってます。3箇所オフ会は素晴らしい。
で、ラストの東京は朝5時からですね?

思い出の曲は何ですか?どうぞお書き込みください。
拙いHPですが、敷居の無いHPです。どうぞ、末永いお付き合いを。
[2001年5月19日 1時13分32秒]

お名前: クリスタルモンスター   
みなさまはじめまして。最近EP-4をふと思い出し、以来ここ二週間ぐらい自分のもっている
あらゆる音源を聞き直している今日この頃。ためしに「EP-4」で検索してこちらを
みつけてしまいました。なんとなく自然発生的にもりあがってる感じでよいですね。

書きたいこと、語りたいことたくさんあります。まずはBUGさんの書き込みのなかから
思い出したのですが、「■ラジオ番組をやっていた」これきいてました。インディー
ズバンドを特集した番組ですよね。女性のかたと二人でDJしてましたよね。でもカヲル
氏の声はEQでLOWをカットされてました。「なんでそんな声なんですか?」との女性の
問いに「いや、こういう声が好きなんです」なんて答えてましたね。

「■西武グループのレコード屋WAVEの立ち上げ」ですが、当時、EP-4のライブのビデオ
が二階の邦楽売り場で流れていたのを記憶してます。曲は「クリスタルモンスター」
だったかな?ドラムがシモンズで「なんかレコードと雰囲気違うなー」なんて当時
高校生だった自分は思いました。ちなみに僕が初めて買ったインディース作品こそ「制服
・肉体・複製」です。中学のときかな?明大前のモダーンミュージックで。

そういやFM東京でイタリアでのライブがオンエアされたのみなさん御存じ?
「ジャパンジャパンフェスティバル」とやらでの収録。曲は「インターミッションズ
(アルバム未収録?)」「トーキング・トラッシュ」「E・パワー」の三曲。

このBBSってオフ会やったりしないですか?もちろん5・21。場所は大阪、名古屋、東京
の三ケ所でどうでしょう(笑)?

長くなりましたがではではー。まだまだ語りつくせないよー。
[2001年5月14日 21時42分29秒]
[2001年5月10日 5時25分57秒]

お名前: えんぷてぃ   


》本文で特集予定なんですが、川島バナナさんは「井上陽水」さんの一時期、
》アレンジャーだったの御存知でしたか?

 いわれてみれば,そんなことを聞いたことがあるような記憶がかすかに……。

》が全て川島バナナ、アレンジで、まあその凄さ。陽水史上ワーストセールス

 うーむ。
 正直いって,川島バナナさんってお名前しか記憶にございませんの。(^^;

 じつのところ,そもそもEP-4自体,ライブで2,3回観ただけなんですよぉ。(;^_^A 
 カッチョイイ,今でいえばクールなバンドだな,と感じましたけれど。

 初めて観たのは「エマージェンシー・ランディング」でした。
 4つのバンドが出たのは覚えているのですが,ゲルニカとあと2つが思い出せましぇー
ん。(~~;)

 やっぱ『ペリカンクラブ』のBNを捜さなくては。
[2001年5月10日 4時0分53秒]

お名前: 圭骸-4@管理人   
えんぷてぃさん、こんばんは。
ユンさんは、そうですね。あと好機タツオは「チャンス・タツオ」と呼んで
欲しかったそうで。

本文で特集予定なんですが、川島バナナさんは「井上陽水」さんの一時期、
アレンジャーだったの御存知でしたか?「バレリーナ」というアルバム
が全て川島バナナ、アレンジで、まあその凄さ。陽水史上ワーストセールス
だそうです。未聴でしたら、レンタルでも良いですので聞いてみてください。
余談ですが、このころの陽水氏のバックは安全地帯でして、びしっと
アーストン・ヴォラージュで決める彼等に対し、バナナは一人「全身白タイツ」
だったそうです。僕は涙がとまりませんでした、、、。
[2001年5月9日 4時24分12秒]

お名前: えんぷてぃ   
 圭骸さん,皆さん,こんにちは。

 では,"ユン・ツボタジ" は本名の "ツボタ ジュン" のアナグラムだっていうのは?

 では,また。(^_^)/~
[2001年5月9日 4時2分15秒]

お名前: 圭骸-4@管理人   
えんぷてぃさんへ

ところで、知っていたらで結構ですが京都にまだ「MediaShop」
というお店はありますか?
[2001年5月7日 4時13分51秒]
[2001年5月7日 3時25分14秒]

お名前: BUG   
|》そのDJというのは具体的にどんなDJだったのでしょうか?とても興味があります。
 |》つまり、いまのDJのルーツみたいなことをしていたわけですね?70年代に?

 | いいえ,違いますよ。基本的に,アルバムをかけるだけでしたよ。 

なるほど。

でも、当時のディスコミュージックを逸脱したわけですね。それだけでも充分に
現在のDJのルーツという気がします。

EP-4結成が80年ということですから、やはり70年代最終の四半期くらいですね。
それとノイズ系のパフォーマンスやユニットをやっていたのがEP-4結成以前で、
時期的に重なりますね。つまり脱ジャンルというか、脱スペース的な活動...、
いまなら何となく想像できますが、当時としてはイメージしづらいですね。
[2001年5月5日 6時2分0秒]

お名前: えんぷてぃ   
 おっと,失礼。

》『ペリカンクラブ』というのは京都の情報誌です。3年くらい出版していたかしら?

 すでに,管理人さんが書いていらっしゃいましたね。r(^^; きのうは寝ボケながら
読んだもんで。
 そのうち,BNを捜してみますわ。
[2001年5月4日 4時55分35秒]

お名前: えんぷてぃ   
 おっと,失礼。

》『ペリカンクラブ』というのは京都の情報誌です。3年くらい出版していたかしら?

 すでに,管理人さんが書いていらっしゃいましたね。r(^^; きのうは寝ボケながら
読んだもんで。
 そのうち,BNを捜してみますわ。
[2001年5月4日 4時53分19秒]

お名前: えんぷてぃ   
 あと,スタックオリエンテーションはペリカンクラブ (創刊時は21世紀社) と提携して
いました。
 『ペリカンクラブ』というのは京都の情報誌です。3年くらい出版していたかしら?
[2001年5月4日 4時34分53秒]

お名前: えんぷてぃ   
 BUGさん,皆さん,こんにちは。

 二重投稿していましたね,すみません。<(..)> 自己削除できればしたのですが。

》そのDJというのは具体的にどんなDJだったのでしょうか?とても興味があります。
》つまり、いまのDJのルーツみたいなことをしていたわけですね?70年代に?

 いいえ,違いますよ。基本的に,アルバムをかけるだけでしたよ。
 ただ,選曲がニューウェーブでした。でも,ヒカシューはリクエストしてもかけてくれなかった。(/_;)
 きのう思い出せなかった京都のディスコは  でした。四条のビュッフェビルにありました。
[2001年5月4日 4時30分29秒]

お名前: BUG   
えんぷてぃさん

初めまして。BUGです。 よろしくお願いします。

そのDJというのは具体的にどんなDJだったのでしょうか?とても興味があります。
つまり、いまのDJのルーツみたいなことをしていたわけですね?70年代に?
なんか順番が逆のようで、先取りしすぎですか?それって...
[2001年5月3日 16時30分43秒]

お名前: えんぷてぃ   
 えっと。
 佐藤薫さんは,もともとDJとして有名になった方ですのよ。
 京都のニューウェーブディスコ → 大阪・ミナミの <パームス> → <クラブモダン> へ。
 <モダン> には,ボウイがお忍びで来日したときに寄りましたのよ。
 もう眠いので,その他についてはおいおい書きますね。

 そうそう,遅ればせながら,香山リカさんのメルマガでこのサイトを知って参りまし
たの。

 では,また。(^_^)/~
[2001年5月3日 5時21分15秒]

お名前: えんぷてぃ   
 えっと。
 佐藤薫さんは,もともとDJとして有名になった方ですのよ。
 京都のニューウェーブディスコ → 大阪・ミナミの <パームス> → <クラブモダン> へ。
 <モダン> には,ボウイがお忍びで来日したときに寄りましたのよ。
 もう眠いので,その他についてはおいおい書きますね。

 そうそう,遅ればせながら,香山リカさんのメルマガでこのサイトを知って参りまし
たの。

 では,また。(^_^)/~
[2001年5月3日 5時13分50秒]

お名前: BUG   
佐藤薫と松岡正剛のラインはペヨトルより古くて太かったはずですよ。

確か70年代終わりから最後期の遊にはけっこう執筆していました。松岡正剛の文章にも
よく登場していましたから。そう、このまえ書き漏らしましたが、友人はカルチャー
スクール全盛期の朝日カルチャースクール(かな?)の松岡正剛の講座で佐藤薫が催眠
効果音をつけていたという話をしていました。そのころは詳しく聞きませんでしたが、
なんでも講座の声にエフェクトなどをかけて加工するというワケのわからないもので、
何ヶ月間か続いたらしいです。でも人気があって満員御礼講座だったとか。
このページと同じで、いったい誰がその講座とやらを受講したのだろうかと、不思議。
[2001年5月2日 18時32分56秒]

お名前: 圭骸@管理人   
BUGさん、どうも。素晴らしい企画嬉しい限りです。皆さんも
「だった気がする」でもいいですから、どんどん書き込んで
くださいね。
さて、カオルの本体は、京都の企画集団「スタック・オリエンテーション」の
主宰者ですので、ディスコのサウンドデザインというのは、間違いないところでしょう。
多分それは「China-Express」だったような、、、

近々アップしますが「滑走梨(スケーティング・ペアーズ)」というカセットレーベル
を立ち上げて、イコールのマコトと「REB-DO」というユニット結成。そのレーベル
から発売されました。TGです。「ギガガガ」と逆回転サウンドの渦です。

イコールが好きとは、嬉しいです。EP-4、シスターM(坂本美雨ではなし)、
そしてイコール、この中から「ベストテン」に入んじゃないか、と思ってましたが、
そんなの妄想でした。

京都のタウン誌「ペリカン・クラブ」のレギュラー執筆していたそうです。

手持ちの「遊」をパラパラ見てましたが、特に名は無いようです。でも
今のところですが。これからゆっくり調べます。
リンクを貼らせて戴いた位なので、ぺヨトルーカオルのラインは太いんですが、
工作舎ーカオルのラインはどうでしょうね?
ただ、松岡正剛ーカオルはあったかもしれないですね。

また書き込みお待ちしております。
[2001年5月2日 2時8分43秒]

お名前: BUG   
タコのページに「佐藤 薫は決して群れることの無いアーチストであった」
とありますが、確かにEP-4周辺の活動以外は完全に個人的つながりだけで
いろいろやっていた気がします。

そこで何かご存知の情報ありましたらお知らせください。

まず私の曖昧な記憶から列挙してみます。

■70年代後半にRNAオーがニズムという実験ユニットをやっていた。
■同じくフリー系のギグに飛び入りノイズパフォーマンスをしていた。
■ディスコのサウンドデザインをした(わけわかりませんが)?
■坂田明とデュオでライブをしたことがある(うわさ?)。
■舞踏家の田中泯とのコラボレーション。
■法政大学の学生会館で何か巨大なアートに音をつけた(新聞に載った)?
■イコール(私は好きでした)というバンドと何かしていた。
■東京のなんとか(プランB?)で定期的なソロ活動をした?
■遊や夜想に寄稿していた。
■フリクションのチコ・ヒゲとのデュオ(12インチレコードは埋もれた名盤)。
■大学文化祭などで講演(何の?)だか対談(誰と?)だか。
■ラジオ番組をやっていた(FM東京でサウンドスケープ特集だかを聞いた記憶)。
■西武グループのレコード屋WAVEの立ち上げをプロデュース?

なんだかんだと気にはなっていましたが、こうしてみると混沌としています。
また思いだしたら書き込みしますが、佐藤薫の場合は坂本龍一などと違って
既製のプロダクションとかに所属していなかったと思いますので、やはり
孤高の活動家だったのでしょうね。EP-4以外はまったく宣伝的な情報が
ありませんでしたから。

では皆さん、よろしく。
[2001年5月1日 17時59分56秒]

このテーマについての発言をどうぞ。
氏名
E-mail URL


半角カナは使用しないようにしてください。文字化けします。
記事一覧に戻る