草原に寝転んで、星を眺めていた。空に抱かれるようにして、私は目を閉じていた。隣りで座っている彼は、私の顔を覗きこんだ。彼は黙ったまま。
 月明かりで出来るささやかな影は、忠実に私達の後ろに佇んでいる。





『オールトの雲』





 よくわからない夢で、目が覚めた。寝起きは悪くない方なので、三秒ほどでぼうっとした状態から復活する。琥珀はシーツと掛け布団の隙間から抜け出ると、着替えて、四人分の朝食を作るために厨房へと向かう。
 歩きながら、琥珀はふと思う。
 夢なんていうものを見るようになったのはいつからだったろう?
 眠りについてから朝まで一度も飛び起きるようにして目覚めることなく眠れるようになったのは、いつからだろう?
 考えながら、琥珀は歩く。
 遠野志貴がこの家に来てから、――もとい、帰ってきてからは、朝食に和食を作る機会が増えた。琥珀は洋食でも和食でも中華でもエスニックでも作れる知識はあるが、どちらかといえば和食が好みだった。作ることも、食べることも。彼の妹で遠野家当主である遠野秋葉は洋食を好む。不満そうな顔をしながらも、兄の好みに付き合っているところは見ていてどこか微笑ましい。
 遠野シキはどうだったろう、と琥珀は思う。
 食事を差し入れてはいたけれど、彼が食べているところを見たことは無かった。
 持ち上げて犯して歪めて弄んで、捨てた。それが人間としての尊厳を根こそぎ刈り取ってくれた遠野家への復讐だと信じていた。それでも、今現在まるで人間のような生活を送っていられるのも、遠野家のおかげ。
 遠野志貴も、遠野秋葉も、妹の翡翠も巻き込んで始めた復讐を、正しかったかどうかと訊かれれば、間違っている、と今の琥珀は思う。それでも、全てを否定することに、琥珀は迷う。想いも、行為も、全てが間違っていると認めてしまうことは――何故か、琥珀にはできなかった。
 曖昧な感情。
 朝食を並べ終わると、琥珀は不機嫌さを隠そうとしているが隠し切れない様子で座っている秋葉の隣りに座った。普通は使用人は主人と一緒に食事をとることなど許されないが、琥珀が帰ってきた日から食事は四人揃って食べることになっていた。
「……兄さんは、そんなに朝私の顔を見たくないのかしら」ぽつり、と秋葉が呟く。
「そんなことないですよー。志貴さんは秋葉さまのこと好きですよ?」
「ならどうして毎朝毎朝ゆっくり食事をとる時間もとれないのかしら。ちゃん睡眠時間は取ってるはずだから、起きれない訳がないのに……」
 秋葉の言葉はハリネズミよりも棘だらけだった。紅茶の注がれたカップを手にとり、口元に運ぶ。そんな秋葉に琥珀は苦笑で答える。まさか夜遅くまで自分の部屋にいるから、などと言える訳がない。『そういう関係』だというのは秋葉も知っているはずなのに、知っていて思考がそちらに回らない、というのはなんとも秋葉らしい。
 曖昧に琥珀が笑うと、足音がして、志貴が翡翠を伴って階段を下りてくる。寝癖をつけたままで、眠そうに欠伸をしている彼を見て、秋葉がほんの短い間だけ表情を緩めて、けれど、次の瞬間にはすぐ不機嫌そうな顔に戻す。
 琥珀は立ち上がって、笑いながら、志貴と翡翠、二人の分のコーヒーを取りに厨房へ向かった。





 顔を見るのが怖くて、私はずっと目を閉じていた。彼の顔を見るのが、今は怖い。
 彼はは何も言わず、私を見下ろしていた。
 私は眠ったふりをして、彼のことを無視してた。






 遠野四季とは、自分にとっていったいどんな存在だったのか。琥珀は手早く二人分の昼食を作りながら、そんなことを考えた。四季のことを考えてしまうのは、きっと今朝みた夢のせいだ、と思う。どんな夢かは良く憶えていないけれど、四季――あるいは、志貴――が出てきたような気がする。
 とても酷い、と言葉では表せないほどのものを彼から奪った、と思う。同時に、とても沢山のものを彼に奪われた――そんな風にも思う。彼のことを考え出すと、思考はいつも同じ所をループし始める。
 誰よりも憎んでいた。あの男の子供だから。太陽の影が十字架に落ちる、あの部屋に幼い自分を閉じ込めた、あの男の子供だから。
 何年も何年も、遠野家への復讐のためだけにあの男を生かして。でも、その復讐は、あの日のもう一人の少年のおかげで失敗してしまって。
 そして、
「姉さん」
 名前を呼ばれて、琥珀は無意識にスープをかき混ぜていた手を止めた。振りかえると、入り口の辺りに翡翠が立っている。
「あ、ごめんね翡翠ちゃん、お腹すいちゃった? すぐ準備するから」
 違う、と翡翠は頭を振った。
 何? と琥珀は首を傾げる。翡翠は何かを言おうとして、けれど何も言わず、もう一度頭を振った。
「姉さんが、何か、沈んでいるような気がしたから」
「……そう見えた?」琥珀は言った。
「うん」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「うん、お姉ちゃんはげんきげんき」
「……なら、いいけど」
 くるり、と踵を返して翡翠は琥珀の視界から消える。彼女がいなくなってから、琥珀はくすくす微笑った。とてもストレートで不器用な心遣い。なんて翡翠ちゃんて可愛いんだろう、と思って、琥珀はまた少し笑った。




 言葉を小さく囁いて、彼は立ちあがった。眠ったふりをしながら、私はそこから動けない。
 風の音。草を踏む音。彼が遠ざかる。あらゆる音がどんどん小さくなって、何も聞こえなくなるまで私は目を閉じていた。




 見上げた空は先ほどまでの鮮やかな色を失い、頭の上でモノトーンの世界を作っている。琥珀は竹帚を手にしたままその空を見上げた。一雨くるかな、と思う。ほんの数分で、予想通りの夕立。琥珀は慌てて家の中へ駆け戻った。玄関脇の応接間で濡れた髪をタオルで拭いていると、翡翠がティーポットとカップを二つ持ってきた。
 お茶くらいならいくら翡翠でもオリジナルのセンスを発揮することはできないだろう、と琥珀は思って、カップを受け取った。注いでくれた紅茶は、琥珀の好きなオレンジペコ。味もまともだった。二人で椅子に座ってお茶を飲む。
 雨は心の色、なんて表現をしていた作家は誰だったっけ、と琥珀は考える。理由なんて思い当たるほど明確なものはないのに、まるで空の灰色は自分の心が反映されたような気分になる。唐突に降ってくる雨も、そう。
「志貴さまは、傘を持って行かれなかったと記憶しています」
「あ、そうだっけ。秋葉さまは車だから大丈夫だけど……このまま止まなかったら志貴さまはきっとお困りでしょうねー」
「姉さんが迎えに行けばいいと思う」
「翡翠ちゃん、ナイスアイディア!」ぱちん、と琥珀は指を鳴らした。「校門の前で志貴さんをお待ちしましょう! なんかこう、そわそわとしちゃったりして。校門ですごい美少女が誰かを待ってる、なんて噂になったりしてー。志貴さまはきっと見つけた時困ったような、でも嬉しそうな顔しちゃったりー。きゃー志貴さまきゅーとー」
「姉さん」翡翠はため息をつく。「志貴さまを困らせるのはやめて」
「どうして?」
「どうしてって……」
「翡翠ちゃん、志貴さんの困った顔ってすごくカワイイと思わない?」
 翡翠は目を丸くして、それからすごく困った顔をして俯くと、頬を染めて、小さな小さな声で、「うん」と言った。
 望み通りの答えを引き出して、満足そうに琥珀は頷く。
 しばらく翡翠とそうやって話していた後、ふと気が付くと、雨は止んで、黒い雲はもうどこかに消えてしまっていた。そして、遠くの方にうっすらと虹がかかっているのが見えた。
 虹なんてみたのはいつ以来だろう?
 琥珀は思う。


 見えない何かから必死に逃げている。責められて、追い立てられて。それが何かを確認するほどの度胸も無くて、必死に後ろを見ないようにして歩いている。早足になっても駆け足になってもついている何か。逃げてばかりいるから何も解決はしない悪循環。迫ってくる足音、それが何なのか確認する勇気もない自分。
 毎晩、同じ時間に響くノックの音。琥珀は手にしていたマグカップを置くと、廊下に面しているドアを開けた。
「こんばんわ」
 琥珀が返事を返す前に、開けたドアの隙間から志貴が部屋の中に滑り込むようにして入ってくる。
「こんばんわ志貴さん」
「お邪魔します」
「お邪魔してください。どうぞどうぞー」
 志貴は座布団に腰を下ろして、テレビのリモコンを手に取るとチャンネルを順番に変えて行ったが、結局見たい番組は無かったようで、最初に映ったニュースに画面を固定した。琥珀はテーブルを挟んでその反対側に座る。
「お茶、飲みます?」
「うん、頂戴」
「今日は紅茶ですよー」
「あれ、珍しいね」
「うふふー」
 琥珀は笑って、どん、とテーブルの上に小さなボトルを置いた。
「え、これ、ブランデー?」
「ですです。いいの仕入れたんで、紅茶に入れて飲もうかな、って」
「いいね」
 二人で飲む時は、志貴の好みに合わせて大抵は玉露、そして日本酒だけど、たまにはいいですよね、と琥珀は言う。もちろん、と志貴は答える。
「それじゃあ乾杯ー」琥珀は紅茶の入ったカップを持ち上げる。
「何に?」志貴が笑いながら訊く。
「うーん、志貴さまの平穏な一日に?」
 笑いながら琥珀が言うと、「そりゃいいね」と志貴は苦笑した。



 置いて行かないで。
 置いて行かないで。
 そんな、陳腐な言葉と。
 私、を。



 たった一言だけでいい、伝えたかった、と思う。たとえそれが自分にとって憎しみの対象でも、彼が自分のことを深い夜の闇のように憎んでいたとしても。遠野四季という存在がいなければ、琥珀という人間は今ここで紅茶を飲んでいることなどできなかった。ただ自分を殺すことしか知らなかった幼い自分は、生きるという選択肢を選ぶことができなかった。
「琥珀さん?」ふと我に返ると、志貴の眼鏡の奥の目が自分を捕えていた。
 なんでもないです、とは言えなかった。志貴の目の前にいると、隠し事なんてできなくなる。悪戯以外の隠し事をしようなんて思わなくなる。自分の中に溜まって行く澱みのようなものを、洗いざらいさらけ出してみたくなる。馬鹿だなぁ、なんて言ってほしい。肩を竦めて、鼻で笑ってほしい。軽蔑の言葉でも、たぶん、それを受け入れられる。
「四季さまのこと、考えていました。きっと……私を殺しても飽き足りないほど憎んでいらっしゃるだろうな、って」
「それはないと思うな」志貴はなんでもないことのように言った。「だって、アイツが琥珀さんを憎めるわけがないから」
「でも、志貴さま、私は――」
「ストップ。それ以上言うのは許さない。四季はね、琥珀さんが好きだった。それは、間違い無いよ」
「でも……わかりません。もし、四季さまが私を好きだったというなら……好きって、いったいなんですか? 私には、わかりません」
「俺もわからないなぁ」
 うーん、と志貴は腕を組んで考える。無責任な発言だ、と琥珀は少しむっとして志貴を睨んだ。志貴は睨まれて、両手を上げる。
「あーごめんごめん、そうじゃなくってね、うん、好きって言葉はさ、すごく曖昧な言葉じゃない?」
「……そう、ですね」
「でもさ、『好き』って言葉でしか表現できない感情って、あると思う」
 琥珀は考える。相反するベクトルが拮抗することなく、どこかに行こうとしているのにどこにも行けない感情。憎んでいるのに、それだけじゃない。忘れてしまえない。なかったことにしたくない。
 遠野四季。
 遠野志貴。
 ――シキさま。
 ――シキさん。
 琥珀は立ち上がって、窓に寄ると、カーテンを引いた。
「今日、虹を見ました」
 窓の外は、いくつもの星が見える空。
「私は、虹を見て綺麗だと思うことができました」
 志貴が、琥珀の隣りに並んだ。
「もし……」
 琥珀は言いかけて、言葉に詰まる。志貴は何も言わなかった。
「……志貴さま」
「何?」
「……手、握ってもらってもいいですか?」
 恥ずかしそうに琥珀が目を逸らして言うと、志貴は嬉しそうに頷いた。
 何度も肌を合わせているのに、手を繋ぐという行為は、琥珀にはひどく気恥ずかしかった。でも、決して悪い気分じゃない。
 琥珀は目を閉じた。何も見えなくなって、志貴と繋がっている手のひらの感触だけが増幅される。
 言葉。
 逃げるための脚力も、嫌なことを振り払うための腕力もいらない。言葉が欲しい。必要な時に、必要なだけの想いを伝えることのできる言葉が欲しい。言葉を伝えるための勇気が欲しい。
「私は、たぶん、四季さまが好きでした」
 赦されることのない思い。赦されない行為。消せない過ち。消えない罪。
 弄ばれて消えていった命。
 弄ばれて傷ついた命。
 後悔。慚愧。諦念。終わらない痛み。汚れた手。砕いた腕。


 目を開いた。
 星が流れた。
 願いを三回口にする前に、その星は消えてしまう。


「……私は、志貴さんが好きです」
 ありがとう。
 ごめんなさい。
 もう届かない言葉を、琥珀は何度も繰り返した。隣で手を繋いで、言葉を受けとめてくれる人がいることを嬉しく思った。通り過ぎて行った流れ星の生まれた場所のことを想った。通り過ぎていった流れ星の運命を祈った。
 さようなら。
 さようなら。

 ――おやすみなさい。





 またまた柴田淳。月姫こんぺに出したSSです。愛と憎っていうのは、同じベクトルでうち消し会えるのか。いやそれは違うんじゃないかなぁ、と。そんなSSです。
 ちょっと短編的な手法でごまかした部分がなきにしもあらず。
 琥珀さん大好きです。



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