イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
 彼女の季節が、また巡る。

 彼女の笑顔が、今も降り続けている。





『彼女が雪』






「シロウ!」耳のすぐ傍で、彼女の声が聞こえた。「見て、雪!」
 衛宮士郎は、自転車を漕ぎながら空を見上げた。灰色の空から、小さな結晶が揺れながら落ちてくる。
「イリヤ、あんま動くな、落ちるぞー」
「大丈夫ー。シロウっては心配性なんだからー」
「やめろっての!」
 イリヤが崩すバランスを、士郎はなんとか保とうとする。士郎の後ろで、イリヤは自転車のフレームに足をかけ、立ったまま。危ないからと言っても、この乗り方が気に入ったらしい彼女は、両手を士郎の肩にかけたこの体勢をやめようとしなかった。
「ね、シロウ」風の音に混じって、イリヤの声が聞こえる。「去年シロウと逢った時も、雪が降ってたね」
「そうだなぁ。イリヤに殺されそうになってたっけ?」
「あはは、うん、そうだよ。シロウのこと殺そうって思ってた」
「俺は、イリヤのこと、最初から憎めなかったよ」
 カーブ。自転車の前籠に入った買い物袋が揺れる。卵が割れないように、士郎はスピードが出過ぎないよう、揺れすぎないよう、気をつけて自転車を走らせる。
「あ」
 不意に、イリヤが声を上げる。
「どうか、したか?」
「聞こえる」
「何が?」
「雪の、音」
 士郎は自転車を道の路肩に止めた。軽い動作で自転車から飛び降りると、空を仰いで、目を閉じる。吹き抜けていく、ささやかな風の音。肩にゆっくりと降りてくる雪の欠片。士郎は手のひらを上に向けた。
「……雪の、音?」
「シロウには、聞こえない?」
 士郎は耳を澄ましてみる。けれど、聞こえるのは風の音だけ。
「わからない」
「そう」イリヤは息を吐いた。ふわり、と白い吐息が浮かんで、消えていく。「それは、残念ね。とっても綺麗な、歌声みたいなのに」
「イリヤの歌みたいな感じか?」
「あは!」
 イリヤは笑った。両手を広げて、くるくる回りながら、走り出す。
「シロウ、女の子褒めるの上手になったね! リンのおかげ?」
「何言ってんだ、ばか」
「あはは、シロウ真っ赤ー」
「うるさい」
 なだらかな坂道。コートの裾を翻して駆けていくイリヤを、シロウは自転車を押して追いかける。駆けていくイリヤは、あっちへこっちへ、くるくる回りながら、ふらふら揺れながら、銀色の髪を揺らして。
 まるで、雪のように。
「シロウー!」
 立ち止まり、振り返ったイリヤが手を振っている。ちょっと待ってろ、なんて言って、士郎は少しだけ足早にイリヤを追う。
 一瞬だけ、風が強く吹いた。身を斬るような冷たい風がまるで圧縮されたみたいに吹き付けてきて、ゆっくりゆらゆら落ちていた雪が、その風に煽られて真横に流れた。
 だから、

「 ―――――――― 」

 イリヤの言葉が、聞こえなかった。















 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
 イリヤ。
 彼女の大好きな雪が降った。
 きっと今頃、どこかで笑っているのだろう。















「イリヤは」遠坂凛は言った。「知ってたわ。自分がもう長くは生きられない、って」
 士郎も、藤村大河も、間桐桜も、何も言う言葉が見つからず、ただ凛の言葉を聞いている。士郎の隣、いつもの場所に、イリヤがいない。そのことの意味を、必死に理解しようとして。理解してもついてこない感情を、みんな持て余して。
「遠坂、その、イリヤ、は……?」
 士郎が言った。言って、向けられた凛の視線に怯む。凛は何も特別な表情をしていたわけじゃなかった。士郎を睨んでいた分けでもなかった。ただ、いつも表情豊かだったこの少女が、その顔に何も表情を浮かべていなかっただけ。
「遠坂、さん……?」大河は、うろたえた声と表情で、凛の名前を呼んだ。
 もうたぶん、冷め切っていたであろう紅茶の入ったカップを、凛は口元に運んだ。舐めるように、唇を湿らせる。
「イリヤの、あの子のお願いだったから。藤村先生、士郎、分かってあげて」凛は少し、俯いた。「さよならを言いたくないし、言われたくない。それが、あの子のお願いだったから。残りの時間を気にしながら、ここで、あなたたちと過ごしたくない。それが、あの子のお願いだったから。きっと、あなたたちには、何も知らずに、いつもどおりに接して欲しかった。それが、たぶん、イリヤの願いだったから」
 分かってあげて、と凛はもう一度繰り返した。その言葉を聞いて、士郎の中で一瞬にして百を越える言葉が浮かんで、消えていった。その中には単純な罵倒や、罵りや、投影を開始する言葉すらあった。けれど、その言葉も消えていく。
 凛が、まっすぐ士郎を見た。いつもの遠坂凛の顔。その頬に、一筋だけ、光る道ができていた。そして、凛は間違いなく、自分が泣いていることに気付いていなかった。どんな言葉も、その凛の表情に吹き飛ばされて、消えていった。
 何が言える?
 魔術師として一番近くでイリヤを見ていた凛の言葉に、衛宮士郎が何を言える?
 ただイリヤのいる日々が単純に、これからも続いていくんだろうなんて能天気に考えていた衛宮士郎ごときが、いったい何を言える?
 嗚咽が聞こえた。桜は喉を締め付けるように。大河は声を殺すことなく。士郎はそれを聞きながら、窓を見た。
 雪が降っていた。


「ごめん、遠坂」士郎は言った。「……ありがとう」
 凛は、そこで初めて自分が泣いていたことに気付いたようだった。聖杯戦争の中でも士郎が見たことがないほど狼狽して、乱暴に頬を拭う。その上で、いつもどおりの顔を繕おうとした。けれど、それは完全に失敗していた。気付いてしまった涙を、もう止めることはできない。
「……ありがとう、って、何よ」
「遠坂は、きっと、最後までイリヤのために何かをしてくれてただろうから。だから、ありがとう遠坂」
「……っ」
 凛は乱暴に立ち上がると、ずかずかと歩いて居間を出て行った。誰も止めない。立ち上がれる人間など、その場にいなかった。
「――――――――」
 立ち上がり際に呟いた凛の言葉が聞こえたのは、士郎だけだったかもしれない。そうかぁ、なんて呟いて、士郎は立ち上がった。
「……先輩?」
「ちょっと買い物行ってくるよ」
「買い、物、ですか……?」
「うん、夕飯の買い物」
「せ、先輩は……っ」桜が睨むように士郎を見る。「先輩は、悲しくないんですか!? こんな時に夕飯だなんて……イリヤちゃんのこと好きじゃなかったんですか!?」
 士郎は困ったように、笑った。「好きだよ」
 なおも言い募ろうとした桜の肩を大河がそっと抑える。
 ありがとう、と言おうとして、止めた。


「――なんで、イリヤもアンタも同じこと、言うのよ」凛はそう言った。
 そっか、と思った。
 イリヤも同じ、だ。


 耳元で、彼女の声が聞こえた気がした。士郎は思わず振り返る。視界にあるのは、見慣れた道。空は低く雲が覆って、乾いた冬の世界をより寒々しく見せている。
 街は、めったに積もらない雪に覆われていた。除雪が入り、路肩に積み上げられた雪を避けて歩きながら、士郎はいつものように夕飯の買い物を済ませていく。一通り買い物を終えて、士郎はふと思い立って、公園へと足を運んだ。
 公園に足を踏み入れる。子供が雪の中で遊んだような足跡が、いくつもいくつも残っていた。イリヤの足跡はこのくらいの大きさだったかな、と士郎は思う。
 ゆっくりと、まるで踏みしめたら割れてしまう氷の上を歩いているような足取りで、士郎は公園の中を進む。立ち止まったその前には、雪に覆われたベンチ。
「……ここに、イリヤがいたっけ」
 不思議と、イリヤがもういないということに、実感が持てない。彼女は、どこにでもいるような気がする。朝に目を覚ました時の襖の向こうに。朝食を準備した時に不自然にあいている一角に。彼女が使っていた客間を覗いたときに。出かけようと靴を履いて、振り返ったその一瞬に。帰り道、家に向かう曲がり角を曲がったその先に。
 今目の前にある、いつか二人で座っていたベンチに。
 どこかに、イリヤがいるような気がして。

 そんなはずないと、頭では分かっているのに。

 頭を振る。その拍子に、髪についていた雪が浮き上がって、落ちていった。雪が降っていたんだ、と気付く。士郎は空を仰いだ。空から落ちてくる雪は、まるですべて、自分に向かって落ちてくるように思えた。雪の欠片ひとつひとつ、それがイリヤと過ごした日々の欠片のように思えた。それほどまでに、イリヤとの記憶は雪に彩られていた。

 雪よ、止むな、と思った。

 イリヤの髪のような、銀色。
 音のない白。
「――あ」
 士郎は目を閉じる。かすかな囁きを、士郎の耳は掴まえた。それを逃さないように、目を閉じる。一人耳を澄ますと、聞こえる音。風の音と、小さな声。
 聞こえる。
 歌だ。
 まるで、いつかのイリヤの歌のような――
「……こんな、」
 こんな小さな声を、こんな小さな音を、イリヤは聞いていたのか。こんな、こんな、たった一人でなければ聞こえない小さな声を、イリヤはいつも聞いていたのか。たった独り、雪の中で謳っているイリヤが見えた。目を閉じて、両手を広げて、ダンスを踊るようにステップを踏みながら、くるくると回る。
 落ちてくる雪の中で、彼女は笑っていた。雪の中の彼女は、いつも笑っていた。
 士郎は手のひらを上に向けた。手のひらの上に落ちて、消えていく雪の欠片。
 空を見上げると、雪。
 手のひらで消えていく、雪。


 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
 イリヤ。
 大好きなイリヤ。
 もっと、君の笑顔を見ていたいんだ。
 君に、ずっと笑っていて欲しいんだ。

 だから、


 ふわり、と肩に、雪が降りた。その雪に懐かしい重さを感じて、少しだけ、笑った。
 泣きながら、笑った。
 イリヤの歌は、ゆっくりと、降り続いている。
 それをずっと聞いていたかったから、いつまでも雪が止まなければいいと思った。
 いつまでも雪が止まなければいい、と士郎は願った。






 柴田淳『雪の唄』にインスパイアされて書きました。私的イリヤソングに決定。軽く泣けます。
 これがのちにはいてないとに収録された『雪の唄』のベースになったんですけど、表裏一体、二つでひとつ、という感じです。
 文庫入手できない方には申し訳ないなぁ、と思いつつ。



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