『せかいをみんな、きみにあげる(Forgiven,Not Forgotten)』
瞼を開くと、よく知っている見慣れた、というかもう見飽きた天井が見えた。手が自然と目覚ましに伸びて、手探りでスイッチが入っていないことに気付く。ゆらゆらと揺れるカーテンの向こうからは、ずいぶんと角度を高くした光が差し込んでいる。
「……ああ」
うめくような、小さな声。遠坂凛はそんな声を漏らして、のろのろと体を起こした。今は春休み。起きる必要がないから目覚ましをセットしなかったんだと、ようやく気付く。シーツの隙間から這うようにして出ると、服を着替えて、鏡に向かって身だしなみを整える。ドアを開けて、階段を下りて、リビングに入ったところで気がついた。
この家にはもう自分ひとりなのだから、いちいち見てくれを気にしなくてもよかったんじゃないか、と。
特にすることもなかったから、家を出た。聖杯戦争が終わってからというもの、たるんでいる、と自分でも思う。思うけれども、しぼんでしまった風船を膨らませるための空気はどこから調達して来ればいいのか、わからない。わからないから、自然と膨らむまではきっとしぼんだままなのだろう。こんな考え方は自分らしくないと思いつつも、どうしようもない、とも思っている。ナーヴァスになっているわけではない。ネガティヴになっているわけでもない。ただ、そういうものだと思ってしまっているだけなのだ、と分かっている。
ゆっくりと凛は歩く。
冬木市は、もう以前の姿を取り戻している。ように、表面上は見える。今も残っている、表面に現われない聖杯戦争の影響も、いずれ消えていくのだろう。
こぼれていく砂のように。
掴めない水のように。
気配を感じて凛は振り返った。立っている場所の半歩後ろ。そこには誰もいない。ただ、風景だけがそこにある。桜が散っていく日を待ち構えているように、ささやかな風に枝を揺らしているだけ。
小さく唇を噛んで、凛は踵を返した。さっきよりも足早に、桜並木の坂道を下りていく。
「遠坂は」衛宮士郎は、言った。「赦せない、のか?」
坂を下る。
坂道をゆっくり下っていくと、桜並木がある。道路の右側に植えられた桜は、花びらを風にゆらゆらと揺らして、気の早い花弁を振り落とそうとしている。
衛宮士郎はいったい何を言いたかったのか。その場では深く考えずに流してしまったが、時間が経つほどに、喉に刺さった魚の小骨のように引っ掛かりを感じてしまっている。
何が赦せないのか。
凛は考えてみる。思い出すのは、皮肉げに口元を歪めた、彼女のサーヴァントだった一人の英霊。人間の身でありながら、誰かのためにと戦い続け、その地位まで上り詰めてしまった一人の男。
赦せるわけがない、と思う。
最後の最後まで、アイツは嫌なヤツで。
最後の最後まで、遠坂凛のサーヴァントだった。
特に理由もなく、凛の足は学校に向かって歩いていた。それに気付いて、まあいいか、と思う。まったく意味のない休日の過ごし方なんて心の贅肉みたいなものだと思っても、そういうのもいいか、と思っている自分がいる。
自分は変わったのだろうか?
変わったのかもしれない。
アスファルトに落ちた、気の早い桜の花びらを踏みながら、凛は歩く。
少し、楽しい。
こういう変化を嫌がっていない自分がいることを、凛は自覚していた。
「リン」
聖杯の成れの果て――混沌という言葉が相応しいそれを前に、セイバーは正面を見据えたまま、凛に声をかけてきた。
「これで、すべてが終わりです」
風が吹いた。聖杯から吹き付けてくる瘴気とは比べ物にならないくらいに清浄な、優しい風。セイバーが両手をかざす。風王結界によって秘匿されている彼女の宝具が姿を現す。
約束されし勝利の剣。
星から鍛え上げられたと言われる、知らぬものなどないほどに有名な、その剣。
聖剣エクスカリバー。
「だから、今のうちに言っておきます」
これが、決着。遠坂凛とセイバーの決着だ。
今にも崩れそうになる体に必死に力を入れて、間桐慎二を担いだまま、凛は顔を上げた。顔を上げた凛の視線の先、聖剣を携えたセイバーは顔だけをこちらに向けて、
微笑っていた。剣の丘に、たた一輪だけ太陽に向かって咲く花のように。
「ありがとう。貴方たちに出会えて、よかった」
その言葉に、いったいどれほどの想いが込められていたのか。これから彼女はどこへ戻るのか。そして、これからもこうやって、聖杯戦争があるたびに、あるいは、世界の危機が迫るたびに、『守護者』として兵器のように生きていくのか。
「……士郎に」
「え?」
「士郎に伝言くらいあるなら、聞いてあげるわよ」
「リン」セイバーは言った。「ありがとう、という以外に、伝える言葉はない」
「本当に?」
「・・・・・・たくさんのものを、もらった」セイバーは目を閉じると、剣を握っていない方の手で胸に触れた。「私は、幸せだ」
凛は顔を伏せた。今自分がどんな顔をしているのか分からなかった。どんな顔をしていいのかも分からなかった。今やっと、衛宮士郎の気持ちが分かったような気になった。
戦いの日々。その隙間にあった、ささやかな日常。あんなのものが幸せだと、彼女は言う。彼女を掴まえて、引き摺り戻してやりたかった。どうして今自分の魔力は空っぽになってしまっているのだろう。全部とまでは言わない。せめて半分は残っていれば、セイバーをこちらに留めておくことができるのに。こんな程度で幸せだなんて言って欲しくないのに。
やっとわかった。遠坂凛がどうしてもセイバーを嫌いになれなかった理由。どうしても放っておくことができなかった理由。士郎のことがあったとはいえ、助けようと思った理由。
どうしようもなく、似たもの同士なのだ。衛宮士郎と、セイバーは。
「ありがとう、リン。士郎にもそう伝えて欲しい。貴方たちと過ごした短い日々は、まるで夢のように幸せだった」
そう言って、セイバーは一度口ごもると、言いかけた言葉を飲み込むように、凛に笑顔を向けた。
夢のように。
まるで、ただ一時の夢のように。
遠坂凛は目を閉じた。
目を開く。
別れは、一瞬だった。
この直後に訪れた、赤い騎士との別れと同じように。
休日の学校は、いつもとは違い、どこか閑散とした雰囲気だった。遠くから聞こえてくる運動部の声。グラウンドで活動をしていうのはきっと野球部だろう。校門を越えたすぐ脇にある弓道場では、間桐桜が弓を引いている姿がちらりと見えた。普段のおっとりした彼女とは別人のように凛々しい顔で、流れるように矢を番え、リリースする。
少しだけ足を止めてそれを眺めたあと、凛は校舎に向かって歩き出した。休日であっても、部活動をしている生徒のために、生徒玄関は開いている。どこに行こうか、と少しだけ考えて、屋上にしよう、と凛は決めた。
何故だかわからなけれど、空に近い場所は気持ちが良さそうだ、と思った。
「何を赦せないって」凛は意識して笑みを顔に貼り付けると、言った。「衛宮君は、思うの?」
給水等の影に腰を下ろして、凛は空を見上げた。贅肉だ。まったくもって心の贅肉だ、と朝から何回も思ったことを改めて思う。でも、こういった時間も必要なのかもしれない。たぶん、聖杯戦争で得たもの、失ったものは目に見えるものだけではなくて、自分でも理解できない、識別できない、自分を構成するもののすぐ根元の方にまでその影響を及ぼしてしまっている。今必要なことは、時間。今は水面下に沈んでしまっているものが表面に現われるときに、それを受け止めるための準備をしておかなければいけないのだ。
地震の揺り返しのような。
歌声の余韻のような。
「……理論武装、終わり」
小さく呟いて、開き直る。今さらなんだ。どうせ無駄にするのなら、今日という日は思いっきり、これ以上なく無駄な一日にしてやろうじゃないか。
「……遠坂?」
そう決意した矢先に、意外な、けれど聞きなれた声が凛の耳に飛び込んできた。
「何してるんだ? 今日休みなのに」
声がした方に視線を向けると、そこには明るい色の髪に、意思の強そうな目をした、彼女のよく知っている人物が扉を開けて屋上に立ち入ってきたところだった。
「奇遇ね、士郎。休日の学校なのに、ね」
そう言って凛が笑いかけると、士郎は少し困ったように笑って、凛がいる場所に向かって歩いてきた。凛少し横にずれると、その空いたスペースに士郎が腰を下ろす。軽く肩が触れて、士郎が顔を赤くしてほんの少しだけ体を脇に寄せる。そんな仕草が、なんかいいな、と思った。凛が小さく笑うと、士郎はますます顔を赤くして、拗ねたような顔になった。そんな様子がますます可愛くて、笑いだそうとしたその瞬間、冷たい氷のナイフに心臓を刺し貫かれたような気分になって、鳥肌が立った。
今の士郎の拗ねたような顔。
誰かが照れ隠しをするときに、そんな顔をしていなかったか。
胸が痛む。
あの日から刺さったままの棘は、どうやって抜いたらいいのかわからない。
「遠坂は」士郎は言った。「後悔、してないか?」
赤く染まっていく空を、何よりもまず最初に思い出す。夢の中で、彼はいつも夕日と一緒だった。戦って、戦って、裏切られて、それでも戦って。そして、いつも流した血も、流された血も一緒くたになって見えなくなる、赤い光の中に立ち尽くしていた。
折れた剣をその手に携え、
理想だけは折ることができずに、
心と体をすり減らしながら。
大馬鹿野郎だ、凛は思う。それと同時に、その大馬鹿野郎を放っておけない、なんて思ってしまった自分はそれに輪をかけた馬鹿だと思う。
暴風のように過ぎ去ったあの短い時間の中で、何を手に入れて、何が変わって、そして、何を失ったのか。わからない。失ったものはわかるのに、何が変わったのかわからない。何を手に入れたのかも、わからない。失ったものを数えることが、簡単すぎる。
同一平面状にアトランダムに散らばっている思考の塊を掻き集めたら、何かに届きそうな気がした。渦のように落ちていく思考の浮遊感の先に、何かがあるような気がした。
「遠坂?」
不意に名前を呼ばれて、凛は意識を思考の底から引っ張り上げた。開いてはいても何も見てはなかった目が世界を認識すると、すぐ目の前にあったのは、心配そうな顔をして凛を覗き込んでいる士郎の顔。
「士郎」
「遠坂、ぼーっとしてた」
「うん」
「珍しいな」
「うん」
「でもまあ」士郎は笑う。「たまにはいいよな、こういうのも」
士郎が空を見上げる。凛もそれにつられるようにして、空を見上げた。青い空の中に、ぽつんとひとつ雲が浮かんでいる。その雲の形が何かに似ているような気がして、凛は目を凝らした。どこかで見たことがある形だ。あれは、そう、なんだったか――
「セイバー」
ぽつり、と士郎が言った。それで、ああ、と凛も納得する。あの雲の形はセイバーのシルエットに似ている。それも、しょうがないですね、と両手を腰に当ててため息を吐いている姿に。
「ホントだ、似てる」
「ああ、似てる」
セイバーが夢のようだと言ったあの短い時間が、鮮明に思い出せる。一心不乱にご飯を食べているセイバーをからかったり、士郎と二人で脱線しているのをセイバーが呆れた顔で見ていたり。
そんな鮮明な記憶も、いつかぼやけた思い出に変わってしまうのだろうか。今はもうはっきりとは思い出せない過去の記憶のように。あの日々が、まるで一時の夢だったかのように。
「似てるなあ」
士郎が呟く。凛は視線を下ろして、今自分がしていたように空を見上げている士郎の横顔を眺めた。春の日差しを移すような雫が士郎の目から落ちて、頬に一筋の道を作っていった。心臓がわしづかみにされたようにきつく収縮して、一瞬後には弾けるように強く拍動した。
士郎が凛の視線に気付く。
その手が、彼自身の頬に触れる。
「……あれ」
戸惑ったように、士郎の手は自らの頬の上を何度か往復する。そんな士郎を見て、凛は気付いてしまった。今まで気付かなかったもの。気付いていたかもしれないけれど、表面に現われることがなかったもの。
「変だな、遠坂、俺、泣いてる……」
「ええ、泣いてる、わね」
「遠坂、も?」
「私、泣いてる?」
「……ああ」
「そっか」
凛は自分の頬に触れてみた。そこは確かに涙で濡れていて、同じように目の前にある士郎の顔も涙で濡れていて。
たぶん、悲しいわけではなくて、
泣き顔のまま、二人で少しだけ微笑みあって、
唇が触れるだけの、短いキスをした。
涙の数だけ強くなれるとか、あんなのは嘘だ。涙を流せばその数だけ、自分の弱さと対面しなきゃならない。ただ、怪我をしたときに初めて不自由ない身体の便利さが解るみたいに、傷ついて初めて自分の心が思ってたよりはいくらか健全だったんだって気付くだけ。気付いたからってどうしようもないんだけれど、少しだけ誇らしく。
私たちは帰ってきたんだ、と凛は思った。
こうやって生きていくんだ、と思った。
もう、赦してあげてもいいんだ、と思う。
「士郎」
「何?」
ちくり、と胸を棘が刺す。赤い騎士の面影が鮮明に思い出せる。
「好きよ」
「俺も、だ」
どうか。
どうか、この痛みがいつまでも色褪せることがありませんように。
祈るように見上げた空には、どこまでも突き抜けていくような、澄んだ青。夕焼けの欠片はどこにもない。待とう、と凛は思った。このまま、この場所で。夕焼けが訪れるのを、士郎と二人で待ってみよう。
そう、思った。
ヴァージョン違いのが置いてあります。短い方が、本当にFateをプレイした直後の初期衝動で書いたもので、長い方はくじうぃんぐさんの凛文庫に寄稿したものです。もうホントに初期衝動の塊みたいなSSで、Fate大好き! 弓凛大好き! という感じでしょうか。そして、こういうSSを書けたことは、なんか自分でも嬉しいです(笑
文庫の方は、前のをベースに、足りないところを足したりしました。こっちもこっちで、結構コントロールできていたような気がします。
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