「――遠坂は」
 ぽつり、と衛宮士郎は言った。
「何よ?」
 遠坂凛は聞き返す。士郎は少し口ごもる。しばらく悩んで、それから何かを決断したかのように、顔を上げる。
「赦せない、のか?」





『せかいをみんな、きみにあげる』





 あの夕焼けを思い出すと、いつも、なんて言ったら分からない気分になる。罵って、罵って、背中を蹴っ飛ばして「大馬鹿」って怒鳴りつけてやりたくなる。
 そして、それと同じくらいに、
 どうしようもなく、赦せない、と思う


「……何を赦せない、って衛宮くんは思うの?」
 殊更に『衛宮くん』を強調して凛は言った。口元には小さな笑み。さぞ酷薄そうに見えるだろうな、と自分で思う。思うのだけど、自分じゃどうにもならない。頭はどんどん冷えていくのに、別の部分がどんどん熱くなっていく。
 そんな顔をするな、と目の前にいる士郎に向かって、凛は思った。理不尽だとわかってはいても、思わずにはいられなかった。癇に障る、とも違う。形容詞のつけられない感情が、浮かんでは、消しきれずにどんどん沈殿していく。
 ――赦せないのは、士郎でしょう?
 喉まででかかったその言葉を、凛は飲み込んだ。その言葉は、刃だと思った。不必要な刃。相手を、自分ですら傷つける、必要のない傷を生む刃。
「……ごめん、やっぱ、俺の勘違いだ」
「そう」
 そう言って、何かを堪えるように士郎は言葉を飲んで、少しだけ、笑った。
「じゃあ」凛は言って、身を翻す。「帰りましょう、士郎」
「ああ、帰ろう、遠坂」
 言うだけ言って、士郎の意思など関係なく歩き出す凛を、士郎は追いかける。
 遠坂凛にとってのアーチャー。
 衛宮士郎にとってのセイバー。
 きっと、未来のない恋だった。
 そう、凛は思う。
 自分も、士郎も。



 夢を見た。夢の中で、一人の男の記憶を追体験した。
 その男は『誰かのために』刃を振るい続け、人の身でありながら世界の守護者たる英霊にまで上り詰め、そして、自らの理想に裏切られ続けた。
 助けた者に後ろから刺され、
 守護者として、目を背けたくなるような場面に、ただ後始末をするためだけに投入され、
 理想を、心を、記憶を、自分を、あらゆるものを磨り減らして、
 それでもなお、愚かな彼の理想を信じていた。



 何よりもまず、夕焼けを思い出す。橙色にグラデーションしていく空。まるで、燃えるように赤く世界を染めていく光。ゆっくりと山間に姿を消していく、炎のような太陽。夕日を連れて『守護者』となった男は、夢を見ていた。誰もが願い、けれど、そんなものは有り得ない、と断ずる見果てぬ夢を。誰もが争わぬ世界。誰もが傷つかぬ世界。誰もが幸せに暮らせる世界。
 それを信じて、彼は戦った。
「……愚かしいわね、アーチャー」
 凛は独語する。思い出の中の彼は、いつも凛を表面上は小馬鹿にするように、けれどその実、限りなくいとおしいものを見るような、そんな目で見ていた。
 信じたものに裏切られ、理想を信じて心を磨り減らせて行った、その最後。
 その眼差しに酬いることができたのだろうか、と凛は考える。

『――ふむ、ならば世界平和でも願おうか』

 聖杯を得て何をするか。戯れで凛は彼に尋ねた。おどけた様で答えた彼の言葉は、けれど、紛れもない本心だったのだ。実際にあったらつまらない世界だ、と凛は即座にその言葉を断した。

「だって、それってつまり、何も起こらない世界、ってことじゃない?」
「ふむ」
「そんな世界で何を成せるの? 何を思えるの? 何を手に入れられるの? ――ちょっと、何にやにやしてんのよ」
「実に君らしい、と思ってね。そう、それが賢者の答えだ。私の願いは、そう、愚者の夢だな」
 そういうものを守ろうと考えるものがいてもいいだろう、とアーチャーは言う。
 ふぅん、と凛は答えた。



 アーチャーは。
 遠坂凛のサーヴァントとしてこの世界、この時代に聖杯の力を借りて受肉し、そして、自らの理想を裏切った。
 だって、と凛は思う。
 『誰かのために』その刃を振るい続けてきた彼が、たった一人のマスターのために死んだのだから。


「時間を稼ぐのはいいが。―――別にアレを倒してしまっても構わんのだろう?」
 そう言って勝てるはずのない狂戦士に立ち向かって言った紅い男の背中を、凛は今でも夢に見る。今もまだ、忘れられない。きっと、いつまでも忘れることなんてできないのだろう。
 いや、と凛は考える。忘れられないのではなく、忘れたくない。忘れてしまうわけにはいかない。
「―――少しでいいわ。一人でアイツの足止めをして」
 最後になったあの命令を、間違っていたとは思わない。思いたくない。思わせない。だけど、それが正しかったのか。間違っていないと正しいはイコールで結ばれるものなのか。


 アイツには、きっと何か目的があった、と凛は思う。何か、凛には知られまいとしていた目的を、アーチャーは持っていた。そして、その目的は、あんな風に凛のために死ぬことで果たされるようなものではなかったはずなのだ。


 暴風のように過ぎ去ったあの短い時間の中で、何を手に入れて、何が変わって、そして、何を失ったのか。わからない。わからない。失ったものはわかるのに、何が変わったのかわからない。何を手に入れたのかも、わからない。失ったものを数えることが、簡単すぎる。
 同一平面状にアトランダムに散らばっている思考の塊を掻き集めたら、何かに届きそうな気がした。渦のように落ちていく思考の浮遊感の先に、何かがあるような気がした。
 どうしてだろう。
 もう二度と接点は作りえないとわかっているのに。
 何故か、また逢えるような気がしている。
 何故か、以前よりももっと身近に感じる時がある。
 なんて言って、あの最後の命令について詫びればいいのか、考えてみる。けれど、思い浮かぶのは皮肉げ歪んだあの顔。詫びる必要などない、と言うのだろう。君は当然の命令をした、とでも言うのだろう。
 だから、赦せない。
 そう、凛は思う。



『……アーチャー、わたし』
 あの時、何を言おうとしたのか。何を言いたかったのか。何を伝えたかったのか、もう、思い出せない。それをいったいどんな名前の感情でくくってしまえばいいのか、まだ凛にはわからない。



 会話もなく、二人は歩く。落ちていく夕日を右手に、つつけば破裂する風船のような沈黙。士郎は凛の半歩後ろを歩いている。それが分かっていたので、凛は振り返らなかった。何かを話したいと思ったし、話さなければいけないような気がしていた。けれど、話したくない、と思ったし、話す必要はないとも思った。
 凛が足を止める。同じように、士郎も立ち止まった。
 道が分かれる。
 同じ帰り道を歩くのは、ここまで。
 凛は振り返って、士郎を見た。夕焼けに紅く染まった世界の中で、彼の赤い髪が燃えるように、映えていた。
「じゃあ、ここで」士郎は言った。
「じゃあね」凛が言う。
 それだけの言葉を交わして、けれどお互い動けなかった。まるで世界が静止したように、静かだった。耳の奥で、かすかな耳鳴りを凛は聞いていた。


 二人して淋しそうな顔してた。お互い微妙な顔で微笑みあった。何がなんだか分からないけど、重力には逆らえない。でも、哀しい気分なんてこれぽっちもなかったんだ。


 夕焼けを見て、泣きそうだ、と思った。そして、そんなことを改めて自覚している自分は、弱い、と思う。凛は落ちていく夕日を眺めたまま止まっていた足を動かして、帰り道を歩く。
 なんで今頃、と思う。
 道を曲がり、坂道に入ると、場所柄のせいか、辺りの人影はほとんどない。いつもくっついて離れてくれない影は、今は見えない背中側。忠実に、主人よりも長く伸びた影は、文句ひとつ言わずついてくる。文句ぐらい言いなさいよ、と凛は思った。
 進行方向に、落ちていく夕日。
 自分は今、夕日に向かって歩いている。
 その考えが、ではなく、そんなことを考えた自分が可笑しかった。
 あの追憶の夕焼けは、きっと、もうどこにもない。



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