ばさり、とコートを羽織る。
 防御魔術が編み込まれた、特製のコート。
 リボンの位置も曲がっていない。
 宝石の準備も十分。……できればあまり使わずに倒したいけど。
 鏡の中の自分は、頭のてっぺんからつま先まで、一部の隙もない。
 くるりと踵を返して、部屋を出る。階段を下りて、リビング。彼を召還した際のあの惨状はもうどこにもその影すら残していないそこを横切って、玄関へ。
 靴を履いて、扉を開けると、ちくちくと肌を刺すような夜の風。その風の中に、嫌な匂いが紛れ込んでいる。冬木市を覆う嫌な風。聖杯戦争に勝ち残るのはもちろん、街をこのままにして放っておくこともできない。遠坂は、冬木の管理者たらねばならないのだから。
「――行くわよ、アーチャー」
「承知」
 アーチャーが背中で実体化する。音もなく、ただ気配だけが、彼がそこに今存在していることを教えてくれる。

 だからただ、うん、と頷いて、わたし――遠坂凛はその場を後にした。







『空白』









「……む」
 目の前のディスプレイを睨みつけて、凛はキーを叩く。が、いくらキーを叩いても目の前に表示されている画面はまったく変化を見せない。むきになってやたらめったらキーを叩いてみても、反応は無し。異音さえする。
「……むむむむ」
「何をしている、凛?」

 ことり、と傍らにカップの置かれる音。凛は声をかけてきた人物を無視して、そのカップだけを手に取った。カップはちゃんと暖められていて、中に入っている綺麗な琥珀色をした紅茶はいつもながら美味しい。
「凛、それは『フリーズ』と呼ばれる現象だ。おそらく『再起動』するしかないのだろう」
「うっさいわね、知ってるわよっ!」
「なら、そうした方がいい」
「今やろうとしてたのよっ」
 言ってはみたものの、凛の手は動かない。紅茶を運んできた人物は「やれやれ」と肩をすくめると、脇から手を伸ばして、本体のリセットボタンを押した。
「あー!」
「キーでの再起動ができないときは、こうするしかないと教わっただろう?」
「壊れたちゃったらどうするのよ!」くるり、と凛は椅子を回転させて、怒鳴る。
「このくらいでそうそう壊れるものではない、と教わっただろう?」言いながら、しかし、とアーチャーは肩を竦める。「君は、本当にこういったものとは相性が悪いのだな。魔術理論であればどんなに高度なものでも読み解いてしまうのに」
「うるさいアーチャー!」
「私の理解が君の理解に勝るとは、珍しい」
「だからっ」
「一息入れたほうがいい。長時間画面を見続けるのは視力に影響すると教わったぞ」
「くっ……」
 凛は憎悪すら込めた邪眼じみた眼差しで画面を――パソコンと呼ばれる文明の利器を睨みつけると、ため息をひとつ吐いて、渋々と立ち上がった。

「そもそも、君が悪い」優雅な手つきで紅茶を飲み下しながら、彼女のアーチャーは言った。「メールを使えないなのならば、メールで連絡してくださいね、という間桐桜にちゃんとそう言うべきだった」
 凛は無言でお茶を啜る。
「ロンドンへ発つまでにもう少し猶予がある。それまでには、なんとか一度彼女にメールを送っておかないとな」
「……分かってるわよ」
「ふむ、まあいい」二杯目をティーポットから注ぎながら、アーチャーは言う。「私が憶えていれば済むことか。マスターの欠点をフォローするのもサーヴァントの役割だ」
「欠点言うな」
「言いたくもなる」
「うるさい」
 目の前の憎たらしいサーヴァントを睨みつけても、ヤツは涼しい顔。マジで邪眼覚えようか、と一瞬凛は本気で思う。そう本気で思ってしまうくらい、自分と電子機器との相性が悪いのにはヘコんでいた。外見上そうは見えなくても、ヘコんでいた。
 だからかもしれない、
「……アーチャー、後悔してない?」
 こんなことを訊いてしまったのは。


 その言葉を聞いた瞬間、アーチャーの手が止まった。それは一瞬だけで、ティーカップを口元に持って行こうとして止まった手は、すぐにその続きを再開する。口に出した瞬間から。その言葉を言い終わるその前に、もう凛は後悔していた。なんで今さらそんなことを訊いてしまったのか。
「後悔、と言ったか」
「……言ったわ」
「それを訊くのか、凛」
「訊くわ」
 後戻りはできない、と凛は思った。言ったことは、やり遂げる。口にした言葉は裏切らない。遠坂凛はそうやって生きてきたし、それ以外の生き方はできないのだから。勢いで出た言葉だとしても、やらかしてしまったミスだとしても、逃げることなどできないのだ。遠坂凛が遠坂凛であり続けるためには。
 衛宮士郎がそうしたように。
 今目の前にいる彼のように。
「後悔か」アーチャーは言う。「後悔? そんなものはとっくにしている。いや、毎日だってしている。これから先、ずっと後悔し続けるだろう」
「一生?」
「この身が消失するまで、ずっとだ」
「……そう」
「例えば、だ」アーチャーはにやりと笑う。「メールくらい使える、という君の強がりをちゃんと止めておけばよかった」
「あのねえ!」
 机を両手で叩いて、凛は立ち上がった。そんな凛にまったく動じることなく、アーチャーは笑いを消すと、言った。
「逆に訊こう、凛。君は、後悔しているか? 私に再契約を持ちかけたことを後悔しているのか?」
 後悔しているのか。凛は自分に問いかける。それは、ずっと凛がそうしていて、そして、自分で明確な答えを出すのを避けていた問題だった。自分はアーチャーに手を差し出した。彼はその手を掴んだ。

 彼は多くのものを失った
 遠坂凛がそれを望んだから

 遠坂凛の大切な彼は、その手を取るにあたって多くを失った。それでよかったのか。それまで彼を彼たらしめていたものを奪って、そして、今彼はここにいる。それは、本当に正しいことだったのか。
「凛。確かに、君の手を取ることで、私は確かに多くのものを失った。君が理解しているよりも、そして、君が想像するよりも、ずっと多く、だ」
「……そう」凛は目を閉じて、思考に沈む。
「君は、後悔しているか? 私にその選択をさせたことを、後悔しているか?」
 私は、遠坂凛だ。
 なら、答えなんて決まっているじゃないか。
「後悔なんて、するわけないじゃない」
 私はどうかしている、と凛は思う。もっともっと沢山失って欲しいと思う。今までの全てを失って欲しいと思う。彼が失ったものを思って、どうしようもなく、嬉しくなってしまう。喜ぶべきことじゃないと分かっているのに、微笑んでしまう。
「それで、いいんだ」凛の思考を追うように、アーチャーは笑う。「凛なら、そう言うと思っていた。だから、その答えが嬉しい。君は後悔に沈むには若すぎるし、人間の一生は後悔で足を止めるには短すぎる。後悔は私のような人間にさせておけばいい」
 そう言って、アーチャーは穏やかに笑う。その笑顔に、胸が詰まった。いろんな感情がごちゃごちゃになって、処理が追いつかない。凛は思う。自分が今笑っているのは、感情の処理が追いつかなくてどうしようもないからだ。どうしようもないときに人は笑う。自然に笑顔の形になってしまう。だから、きっとそのせいだ。
 アーチャーの姿が歪んでぼやけるのは、気のせいに違いない。悲しくなんてない。嬉しくなんてない。遠坂凛が今この場所、この場面、この展開で泣いているなんてありえない。そんなことはありえない、
 はず、なのに。
「凛」
 名前を呼ばれた。
 大丈夫。凛は自分に言い聞かせた。大丈夫。大丈夫だ。
「ひとつ、私には望みがある。君の涙ほどの価値はないが、言っておこう」
「教えて、アーチャー」
 ひとつ頷くと、アーチャーは口を開いた。
「見せて欲しい。私にならない衛宮士郎は、何をその手に掴むのか。いったいなにを、その果てに見出すのか」
 見せて欲しいんだ。そう、彼は言った。凛はぐっと腹筋に力を込めた。そうでもしないと、そのままテーブルに突っ伏してしまいそうだった。そんなちっぽけなものでいいのか、と思った。エミヤが失ったものに比すると、その願いはどうしようもなく小さなものに思えた。
 けれど。
 ならば。
 遠坂凛は、見せねばならない。
「見せてあげる、アーチャー。とびっきりの未来を、ね」
 見せてやる。とびっきりの未来を。彼が遠坂凛の手を取るに当たって失ったもの。そうしてできた空白。そのすべてを埋めて余りあるものを、見せてやろう。もうお腹いっぱいです、なんて言うまで満たしきってやろう。
 絶対に、できる。
 遠坂凛に、できないはずがない。
「期待している、凛」
「期待させてあげる、アーチャー」
「まあ」目を閉じて、アーチャーは笑った。とても、穏やかな笑みだった。「今の君の顔を見れただけでも、かなりの価値はあったかな」
「……っ」
 凛は赤面して、手の甲で目の下を擦る。と、目の前に綺麗なハンカチが差し出された。いつの間に取り出したのか、魔法のように凛の目の前に、ハンカチを載せたアーチャーの手のひらがある。
 凛はそのハンカチとアーチャーの顔を何度か見比べると、ひったくるようにハンカチを奪い取った。そのままくるりと背中を向けて、ハンカチで頬と目元を拭う。
 やれやれ、と肩を竦める気配が、後ろから伝わってきた。


「凛」
「なぁにアーチャー」
「スーツは、どうも馴染まないのだが……」
「いいから」
「しかし、私はあの聖骸布がないと魔力攻撃に対性が」
「そのまま。戦いに行くわけじゃないんだし、あの格好はあんまりでしょ?」
「む……しかし、いつ襲われるか……」
「士郎のところはセイバーもいるし、大丈夫」

 黙ってしまったアーチャーに、凛はネクタイを結ぶ。五回目のチャレンジでやっと満足いく結び方になった。
「でもアレよね。なんで、士郎、自分の誕生日なのになんでみんな招待してるんだろ。普通は逆じゃないのかしら」
「仕方あるまい」
「え? なんで?」
「『誕生日は自分が生まれ、育ってきたことを、それを見守ってくれた人に感謝する日なんだよ』と切継に教わってきたからな。『そういうわけだから、君が今できる最高の料理を僕に作るんだ』とも言っていたな」
 凛はじーっとアーチャーを見る。
「……何か?」
「アンタ、それ、ダマサレテルんじゃ……」
「む……」
 眉間に皺を寄せるアーチャーの顔を見て、凛は笑った。笑って、笑って、ばしばしと彼の背中を叩く。不機嫌そうに黙り込むアーチャーに、凛は実に機嫌よく宣言した。
「さあ、行くわよアーチャー!」
 返事も待たずに歩き出す。後ろから半歩遅れてついてくる足音を、とても心地よく思いながら。




 実は抜けてる弓萌えー。
 機械音痴な凛萌えー。
 そんな話です(笑)



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