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01物干し竿 岩波三樹緒 |
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<短編> 鼠こども 岩波三樹緒
第四回山崎賞・優秀賞 (2007年度)
胎児が流れてみると、それはもう疾うからいなかったのだ、とも思えてきた。
病院にいるのは何日めだろう。 個人病院の個室は、部屋の壁紙をやさしいベビーブルーに張り替えてはいたが、天井から壁へつながるひと隅に、隠しきれない染みが拡がっていて、薄目を開けるたび、そこばかり目にとびこんできた。 夜中になるとどこかの部屋から、生まれたての赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。ドアがパタンパタン開いたり閉まったり、あわただしくなって、普通の産院の当たり前の事情が起こっているのがわかった。子どもはたいてい、普通に生まれてくるものだ。自分は極端に場違いだという気がした。 麻酔かなにかで頭が痺れてしまったのか、遠くから自分を見ているようだった。ただ、下に目をやるとお腹がぺちゃんこになっているので涙がこぼれてきた。ちょっと前、ここにいた子はどこへ行ったろう。ここへ少し棲んで、そこからどこかへ行ったな、と考え始めると少し納得してしまった。 このお腹にいたのはねずみの女の子だった。そう、二三子は思っていた。医師は流れた子を男とも女ともいわなかったが、二三子にはわかっていた。
あの晩、二三子は、いつもやって来るねずみの女の子の正体を確かめようとして玄関を飛び出した。 「待って。あなたどこの子なの?」 と叫びながら玄関を裸足で飛び出したのだ。お腹を庇いもせず、門に続く石段を飛び下りて、その踊り場にねずみの死骸を見た。ねずみはころんと転がっていた。 二三子は悲鳴をあげながら転び、死んだねずみの横に腹ばって倒れた。ねずみは目をつむって死んでいた。冷たい石に頬をつけながら、やけに静かな心持ちで、 「やっぱり」 と思った。意識が急激にうすれていったが、姑の時枝がぴゃーぴゃー騒いでいるのがわかった。 そこからここの病院へ運ばれて、こどもはやはり死んでうまれた。明日で七ヶ月にはいるところだった。
三週間ほど前、二三子は夫の実家へ送られてきた。 切迫早産のうたがいで、近所の総合病院に入院していたのだが、夫の悦夫は、病人でもないのに・・・と同情的でなかった。 悦夫は、海外出張を命じられたのを幸いに、二三子を母親のところにやる手筈を整えてしまった。 「そうしか方法はないじゃないか」 と悦夫は一方的だった。 二三子に頼れる縁者がないのが悪い、と言わんばかりだった。それはたぶん姑の言い分でもある。 時枝は、二三子にろくな係累もないといって結婚を反対したらしい。結婚して三年経つが心やすく話したことはない。 十年めに子どもができたのであれば、喜んでくれるものと思って電話したが、 「三ヶ月までは流れやすいからね」 と、糠喜びは禁物のようなことだけをいった。そして、切迫早産で世話になるのでは、二三子には見せる顔もない。 実家には、八州子という義妹がいる。時枝とちがって、口の重いタイプで悪いこともいわないが、とっつきにくさは同じだった。二つ、二三子より年が上で、まだ良縁にめぐまれていない。 「だったらすぐり町の病院にいれて」 「あるわけないだろ。あったとして洗濯物とか届けにお袋通わせられないよ」 「毎日じゃないし、そういうサービス頼めるのよ」 「いいよ。女二人も三人も変わらないって、お袋言ってたよ」 悦夫はあとは取り合わなかった。 悦夫が仕事の合間に病院通いや、家事をしいられて不本意なことはよくわかっていた。海外出張もおそらく自分から申し出たのだろう。 土曜日、悦夫の運転で悦夫の家へ送られていくことになった。 悦夫は、病院セットをトランクに放り込み、二三子が後部座席におさまるのをいらいらと待って戸をしめた。 後部座席のシートには家中のクッションが持ち込まれ、できるだけ振動を避けようと考えたものらしかった。 「先生がこうしろっていったの?」 と嬉しくなってきくと、あいまいに、「ああ」と答えてエンジンをかけたが、あ、これは女の知恵だな、とぴんときた。悦夫はそんな気の利く人ではないのだから。二三子はお腹を庇いながらクッションに身を沈めた。 その女は子どもを生んだことのある人に違いない。自分と違って気の利く年上の女、スナックであう常連か、派遣でくる事務員か、いつでも誰かにかわいがられているのが好ききな男なのだから。 高速をつかって二時間弱の旅だったが、やがて二三子は重い生理痛の症状におそわれ、脂汗が流れた。どう身をおきかえても、おさまらなかった。バックミラーごしに「大丈夫か?」と、悦夫は聞いたりしたが、車を止めたところで仕方もない。 二三子は戦地から後送されたという祖父の話を思い出していた。戦意はあるものの隊からはずれて、病んだからだをトラックに転がされて運ばれていったという。 「だらしがないんだ、それで俺だけ助かってしまった」 こどもの二三子にわかり得ない祖父の無念が、数十年たっても巣食っていたらしい。 押し潰されそうな不安で泣くこともできなかった。
夫の実家の門のまえに、姑が待ちかまえるように立っていた。 二三子は、ままならない体をなるだけ機敏に車からでると、 「すみません、お義母さん。厄介かけます」 といったが、時枝は、 「まあまあ、たいへんだったね」 と、息子の労をねぎらっているらしくいっこうに二三子のほうは見なかった。そして荷物を悦夫から受け取りながら、 「二三子さん、とにかく悦夫の部屋にね。布団敷いておきましたからね」 とせかした。門から玄関へは、数段の石段で、足取りは重かった。 「なんだか自由がきかなくなっちゃって」 と小さく言い訳しながらやっと石段に足を運んでいたが、後ろから、姑は両手の荷物でせかすふうだった。 やっとたどりついた玄関で呼吸を整えていると、姑は上がり框にどかどかっと荷物を置いて、また出ていった。 二三子が、意外に高い框に足をかけたとき、すーっと二三子のふくらはぎを擦るものがあった。白い猫が二三子の先を通り越して玄関に飛び乗った。さらに階段に飛び移って二三子を見て鳴いた。 「あ、みーこ」 二三子の嫌いな姑の猫だ。かまってなどもらうものか、とでも言いたげな顔で、猫は二階にあがってしまい、のろのろ上がってくる二三子を見下ろしていた。完全に、優位に立って見下しているらしかった。二階へ辿りつくや、みーこは階下へきえた。
襖様の引き戸を引くと、四畳半いっぱいいっぱいに布団が敷かれてあり、あとは、悦夫が使っていた机とビニール製の洋服ケースだけだった。 あとから上がってきたのは悦夫で、二三子はつかの間安堵したが、悦夫は荷物を置くと、 「あの洋服ケース、おふくろが空にしてくれてあるから使いなさいって」 とだけ言い置きおりていった。 二三子はともかく楽になりたくて、ゆっくり布団のへりにしゃがんだ。 横座りしてもつらく、足を投げ出してみた。 階下で、二人がひそひそやり取りする声がしていた。やがて悦夫の声がして、 「二三子、じゃあ行くから」 と言われて、二三子は慌てた。悦夫の名を呼びながら、四つん這いで這い出し、階段の上から身を乗り出した。 「もう帰るの?」 悦夫はすでに靴を履き終わってドアを開けるところだった。二三子は狼狽して、 「気をつけて行ってきてね」 というのが精一杯だったが、悦夫は体をちょっと半身にするくらでまともに目を合わせるでもなくドアを滑りでようとする。その悦夫の背中に、ぴったりくっつくようにして、時枝は後ろ手にドアを閉めて出て行った。二三子はぺたんと腰を落とした。 一人置き去りにされた子どものごとくであった。 車はいつまでも発車せずエンジンはかからなかった。場所を変えて二人が話し込んでいるのが嫌な気がした。 厄介者を押し付ける弱みと、厄介者を引き受ける傲慢が、同じくらいの重荷でつりあっているらしかった。しかしそれはあまりに不当だと二三子は思った。このお腹の子の父親は悦夫にほかならず、時枝にとっては初孫なのだ。顔をみれば、子どもはまだかまだかと、そればかりを言い、近頃は諦めの為か、ただ役立たずの嫁のようなあつかいだった。世話をかけずに孫を抱かせろ、ということらしい。
脱力感で放心していると、いつのまにか時枝が缶ジュースを盆にのせて立っている。へたりこんでいる二三子からは、その時枝の姿は威圧的に大きかった。 「悦夫帰りましたよ。悦夫も大変だ。これから帰って今度は自分の支度なんだから」 時枝は二三子の鼻先を横切り、机に盆をのせた。 「ま、絶対安静っていうんだから静かにしていて頂戴。何にも気を使わないでいいんだから」 二三子が頭を下げると、 「暑かったらここ開けてね。扇風機もってきてもいいんだけど電気の風はお腹に障るでしょ」 と窓を指して言った。 他人が聞くとやさしげな気遣いをしているように聞こえるかもしれないが時枝の言い方には棘があるのだ。二三子はいつでも少しずつ刺されているような気がした。 お腹は重たい石が埋め込まれたように固くなり、腰を浮かすのもつらかった。喉が乾いていたが、机の上の缶ジュースは遠く感じられた。机の上の缶ジュースは、結露した水滴ごと、気力をなくしてぬるまっていくようだった。わざと遠くに置かれたそこまで這っていき、手を伸ばすことが浅ましいことのように感じられた。 風も入れたかった。空気が蒸し暑く、よどんでいた。 けれど時枝が開けてくれなかった窓は、悦夫の本棚に積み上げられた本で半分隠されており、椅子にあがり、机に片足かけでもしなければ、フックに手が届きそうにない。老人もそれを嫌って開けないのだ。二三子もまたお腹を庇いつつ開けるのは億劫だった。 つまり、この窓ははめ殺し同然なのだ。 上半分の窓から、梅雨空が重たく広がっていた。壁も古びた洋服ケースも一様にねずみ色で、ぜんたいここはグレーに埋め尽くされており、二三子もやがてはめ殺さされていく予感がした。 それからずっと、昔の悦夫の部屋で転がって過ごした。 お腹の向きを少しずつずらしながらひたすら横になっていた。 部屋には見るべきものなどなく、本にも飽き、結局まどの上半分に切り取られた空をみてい た。すぐり村の空はいつでも青いということがなかったが、梅雨空ではいっそう暗い雲が垂れ込めて隣の屋根瓦や電線との隔てさえなかった。小鳥の色まで同化するのか、さえずりは聞いても、姿をみない。 薬がそうさせるのか、緩慢な眠気が支配していた。 ときおり、二三子は自分の足を這い登ってくる小さい羽虫を追い払うのに躍起になった。時枝が貸してくれた団扇ではたきながら、体を丸めて足先を調べてみるが結局なにもない。それでもなにかチリチリと這い上がってくるのをはらわずにはいられなかった。時枝が出してくれたもので役立つのはこの団扇くらいだと思った。 時枝はいつも不意に現れた。階段を上がりきった床の間に急に立ち、 「何が食べたいかしらねえ」 という。二三子はいつも不意打ちをくらって慌てて居ずまいを正しながら、 「お義母さんのお好きなもので・・・」 などと答えようとすると、 「やっこがいいわよねえ。さっぱりしてえいいじゃない?」 などとおっかぶせるように言われてしまった。いい終わりが二人同時になると、はたと会話が止んでしまい気の合わないもの同士の気まずさがただよった。 二三子はどしようもなく気詰まりで口をひらくのもおっくうになった。
義妹の八州子とは、最初の晩、会社から帰宅した足で、二階へ来てくれて、ふたこと三言挨拶をかわし、その日の夕飯を三人で囲んだが、それきり、気を遣うこともなく暮らしてくれているようだった。それは二三子にとってさいわいだった。
二日目の朝、二三子は食事によばれて二階から降りようとして一歩も足を踏み出せなくなった。二三子は上から泣き声をあげた。 「足のつけねがつって痛い。とても降りられません」 時枝は面倒くさそうに階段の下に来て。「おやまあ」と言っただけだった。 それからは本当の上げ膳据え膳で、階段の上に食事の盆が置かれた。献立は買ってくる惣菜が多かった。若いものにあわせてくれてということかもしれなかったが、こってりとしたフライのようなものをどうしても喉に押し込めなくて二三子は捨て場所を必死で考えたりした。残した皿を持ち帰る時枝は機嫌をいっそう悪くしたからだ。 上にいる嫁は、だめな嫁、怠惰な嫁の名をほしいままにすることとなった。階下へ降りた途端、時枝の愚痴る調子が聞こえてきた。
悦夫から連絡が来ることは稀だったが、たまにきた電話も取り次いではくれなかった。 「悦夫から電話だったわ。元気にしてるって。二三子さんにかわる?ってきいたけどよろしくっていうからさ」 下から時枝の声だけが届いた。だって、悦夫はわたしにかけてきたんだからね、とでも言いたげだ。 階下にかかる電話の内容は、なんとなく聞こえてきた。 それで、夫からかかったときは、「あんた元気なのォ?」と高らかに響くので、聞き耳をたてた。もしかして、と思い、階段ちかくに擦り寄っていたが、結局呼ばれなかった。時枝自身の様子をこまごまはなした後、声のトーンが抑えられて聞きづらくなってしまった。「まあ、とにかく絶対安静なんだから、しかたないよ」のあたりでまた声が大きくなったところをみると、二三子の愚痴を言っていたようだ。結局、電話は切られてしまった。 そろそろと布団にもどり、仰向けのお腹を支えた。やさしいママ風に、声色をつくって、 「パパひどいでしゅね。ママとあなた心配じゃないんでしゅかねえ」 と呟いて、ばからしくなった。悦夫も恨めしければ、時枝も、身動きも取れない身体にしてくれる赤ん坊さえ恨めしくなった。それから今度はそう考えた自分を責めて苦しくなり、きつく収縮する子宮の痛みに耐えかねて、四つん這いで泣きじゃくった。 動かさない身体はさまざまに変調を来たして、すべてが、不調だった。皮膚がかさかさで、髪はぱさぱさだった。洗面所の鏡に映る自身の姿をまともに見ることができない。 時枝は妙に陽気に階段をあがってきた。手に小型の掃除機を持っている。 「ちょっとやらないとさ」 少しずつ二三子をどかしながら、布団を雑にめくりながら吸っていく。排気口からは、耐えがたいほどの埃が舞っているにちがいなかった。自分が動ければ、こんなやり方はしないし、だいたいこんな所にいないのだ。 やはり時枝はできるだけ二三子が不快を感じればよいと考えているのでは、としか考えられなくなった。二三子は心底憎んだ。 「終わったわよ。なんか病人がいつくと、畳が腐るってね」 コードを巻き取りながら時枝は言い放った。 部屋の端に寄りかかったまま、二三子はただ機械的に頭を下げた。時枝はおもしろくなさそうに、がたがた階段を下りていった。 二三子は、壁に寄りかかったまま今度は自分を責め始めた。こんな卑屈な母親では子どもが可哀想、私は母親失格なのだ。 二三子は産める、という喜びが徐々にすり減らされていくように思った。ただこの四角い部屋に幽閉され、目をつぶっても、まぶたの裏に映るのは、古くなったここの天井の節穴のようすだった。昼なのか夕方なのかもわからない空いろのなかで、すべての気力と生きる力が萎えていくのがわかった。
さっきから、ぱたんぱたんと玄関のドアに何かがあたる音がしていた。猫のみーこが中に入れろと催促しているのか、と思っていたが、時枝はいっこうに開けてやる気配がないし、そのうち、その音が、猫ではなくて人間の子どもが飛び跳ねている音だと思った。玄関に続いている石段と飛び石で、ケンケンパの要領で飛んでいる音と気づいた。そしてドアのところへ来て向きを変えるとき体がドアに少しぶつかっているのではないか。 二三子はその軽やかな音に耳を傾けていた。時枝の顔見知りの小さいお客さんでもいるのかしら。けれど、階下では出て行く気配がなかった。その内、階下には誰もいないのだと気づいた。さっきうつらうつらしているとき、ちょっと行ってきますね、と声をかけられたような気もした。 階下に人気がないとわかると、二三子は顔の肉の厚ぼったさにこもっていた熱がすーっと引いていくような気がした。腹の重みがすこし薄らいで軽く身動きできそうだった。 二三子は下に来ている子どもを確かめたくなった。 音は熱心にケンパケンパを繰り返している。 そろそろと起き上がり襖に手をかけたところで外の門が開く音が聞こえた。あれ、帰ってしまうんだ、とがっかりしかけると、同時にドアが開いて姑のカン高い声が「ただいま」を言った。二三子はお帰りなさいを言いながら、下をのぞいた。姑が何かその子について言うのを待ってみたが、何も言わなかった。 二三子は、いまそこに近所のお子さんが来てたんじゃありませんか?と問うた。 時枝はなに言ってんの、と言った表情で「子どもお?」と言い捨てて、買い物袋を引き提げながら引っ込んでしまった。 何も見ていない様子だった。そうしてみると、その子どもは、この家の主がやってきて慌てて逃げたことになる。あの姑を苦手に思う者がほかにもいると思ったら、二三子はなにやら痛快な気がしてきた。わざわざひとの家に入り込んで来て面白い子、と二三子は久しぶりに可笑しかった。
その翌日、姑が外出して間もなくあの音がきこえてきた。あまりのタイミングのよさに空耳かと思うくらいだった。 二三子は起き上がり、今日こそ、と階段の上で身を低くして下を覗いた。玄関の横のすりガラスに小さい人影が映っており、それは近づいたり、遠ざかったりをくりかえしていた。 その姿は子どもというより小さい人型というかんじで、ねずみの形の帽子をかぶっているようだ。そうだ、デイズニーランドのミニーマウスの格好だ。裾広がりのスカートをはいているらしい。そんな格好でうちにやってきて飛び跳ねる子とはどんな子なのだろう。 二三子は階下のお風呂を貰いにいく以外は降りない階段に、そろそろ足をおろしていった。目的があると、人は頑張れるものだと二三子は自分で感心した。中程まで降りてきて、いきなり外の門ががちゃりといった。それから次の段に足をおろしかけようとした時、時枝が玄関を入ってきた。 「お義母さん」 時枝は二三子がおもわず声を出すと、こちらを見上げてぎょっとしたようだった。 「何よ、本当は歩けるんじゃないの?」 二三子は間の悪さを感じた。急にお腹が張り出して、思わずお腹に手を遣りながら尋ねた。 「お義母さん、今、そこに小さい女の子がいたでしょう」 「小さい女の子?」 「玄関のところにきて、ずっと飛び跳ねてたんですよ。お義母さんの知り合いの子かと思って」 時枝はあからさまに嫌な顔をして、なにとぼけたことをと口の中でつぶやいた。 「まったく、人の留守には案外元気なんじゃないの」 時枝は子どものことはまるで取り合わなかった。知ってて知らない振りということでもなさそうだった。 しかしそれは変だった。どうして入れ替わりのように入ってきて気づかないのだろう。姑の姿をみた途端かくれたろうか。それなら家の裏側にまわりこんだかもしれない。 二三子はトイレへはいった。和式の一段高くなった所へ乗って、小窓から背伸びして除いてみた。後ろに迫った丘のかげと、そこを横に突っきている無味乾燥な高速道路があり、あとはまばらな住宅が並んでいる。けれど、お腹がじゃまになって、真下はどうやっても見えなかった。隣との垣根はうす暗がりで隠れるには便利そうだった。ごそごそ音がしたので息を凝らしていると、猫のみーこがわざとらしく鳴きながらあるいて出ていった。
次の日曜、階下は何かふしぎな賑わいをみせていた。 日本間に、何か大きなものが運びこまれたらしかった。そしてそれを宅配してきた若い男の声がきれぎれに二三子のところまで届いた。 屈託のない人声を久しぶりに聞いた気がして、二三子は耳をすませていた。 「やっぱり男手があるっていうのはいいわねえ。うちもね、息子いるんだけど。今海外出張なの、ニュージャージー」 時枝の声もいつになく張り切って、八州子の低い笑い声まで聞かれた。 届いたのはベビーベッドだった。男の声が、 「これがロック、サークルにする時はここね」 などと、説明していた。組み立てが終わってもお茶など出しているらしく世間話が続いていた。 時枝は声を弾ませて、 「初めてのうち孫なのよ。楽しみよお。おもちゃも、いろいろいいのがあるじゃない?でも、今のおもちゃは何だかむずかしくってよくわかんないけどねえ」 男のほうではいい加減切り上げたいのを,何だかんだと引き留めていた。 男が帰った後も、姑と義妹の高揚感はつづいていて、ベッドの柵を持ち上げたり提げたりする音がしていた。ベビー布団のセットにかかっているらしかった。 二三子は、日本間に置かれたベビーベッドを想像して、暗澹たる心地になった。自分だけここに追い上げられて、そんなものを買う相談を受けることもなかった。産んだ子どもはさっさと取り上げられてしまうだろう。あの日本間にいっぱいの親戚たちがやってきて、ベッドのまわりを取り囲むのだろう。そして、誇らしげに赤ん坊を抱き上げるのは時枝なのだ。 お腹のなかで子どもがぐるっと鈍い回転をした。この子はわたしの子ではなく。この家の子だからだ。現代の世の中にあって、そんな事があるのか。このままお腹に居ても地獄、出てきて地獄。泣き声を堪えると、うめき声になった。下から姑の声がした。 「ベビーベッド買ったわよ。お風呂に降りてくるときでも見てみなさいよ」 二三子は、タオルケットを引っかぶった。
その晩お湯を貰いに階下へ降りると、日本間の畳の上に白いベビーベッドが置いてあるのがみえた。できれば、見たくはなかった。けれど、見計らったように、時枝が茶の間から出てくると、「いいでしょ」と言った。時枝は部屋の電気をつけて、中へ入ると、得意げに説明を始めた。気勢に押されて、二三子は苦笑してしまった。 「お義母さん、気が早いですねえ」 するとすかさず、 「何いってんの。いよいよになってばたばたするんじゃ嫌でしょ。それに早まることもありそうだしねえ」 二三子が、御代の心配をすると、悦夫の子のなんだから、気にすることないのよ、の一点張りで、この際、そのベッドに寝るのはあんたじゃないんだからお礼を言われる筋合いもないといった感じだった。 それからは、お風呂のたび、日本間からは顔を背けた。ほんの少しでも、ベビーベッドが見えるだけで嫌になった。 気持ちがいっそうふさいでいった。二週間に一度の検診日が過ぎていた。悦夫はむろんはがき一枚寄越さなかった。雨が始終降り続き、降り込められているという感じがした。晴れ間がいっこうに訪れなかった。自分には重たい空と低い天井しかないのだと思った。子どもが生まれたら、二人で何とか逃げ出して、生き延びよう、と無茶な考えが湧いた。それより、子どもはもういいから、ひとりで逃げ出そうか。あの、姑と夫の血を濃く受け継いだ子どもなんてこんな思いまでして産む必要がない。子どもができたら、悦夫の愛情が戻ってくると、とこかで期待していた。しかしそんなもの一番いらない。 ともかくここをでたい。出たい出たい、あんな男のこんな家になんか。早く死んでしまった父親母親も恨めしかった。歳の離れたたった一人の兄も婿養子に入ってしまってから宛てにできなくなってしまっている。 何もかにもが全部いやなのに抜けだすことができなかった。
風呂に行こうとして、二三子は階段の中途ですわりこんだ。 うずくまって、おなかの張りがおさまるのを待っていた。時枝が茶の間から出てきて、 「あら、まだお風呂はいってないの?」 と、責める口調だった。 「すみません、お義母さん、先おはいりになってください。なんだか張ってきちゃって」 「なにいってんのよ。二三子さん最後じゃ、お風呂洗ってこられないでしょ」 ふろは最後に入った者が洗うのがこの家の決まりだった。かつてここへ泊まらせてもらうときは、二三子が当然最後だった。 二三子が黙っていると、 「わたしは、三人とも産む前日まで洗わされましたよ。それも昔の木のお風呂」 「それはきつかったでしょう」 「きつかったってそれが当たり前なんだもの」 「すみません」 「それに朝は一番起きで神棚のお掃除、おねずみ様のね」 「おねずみさま?」 「あら、悦夫に聞いたことない?おばあちゃんのおねずみ信仰」 時枝は珍しく饒舌に、階段の下の段に腰かけると話しつづけた。 そのころここら一帯で、盛んになった信仰宗教があって、大山鼠の神って名でね、べつに鼠を信仰しているわけじゃないんだけど、鼠という一字がはいっている以上、粗末にはできないって、猫を飼うなんて言語道断、古い家のなか、ねずみがはびこっていたのよ」 そこで、時枝はいったん話をくぎって、 「そういや、その子、ねずみの女の子じゃないといいわねえ」 と、二三子のお腹を指差した。ねずみの女の子と言われて、二三子はぽかんとした。 「子年の女じゃあ、おばあちゃんとおんなじになっちゃいそうでねえ」 顔を顰めて話す姑は、悦夫の祖母と折り合いが悪くて大変だったのは聞いていた。 お腹を抱え込むようにして聞いていると、二三子はお腹をポンと蹴られた。 急に、ああ、この子は鼠の女の子は嫌だと言われて、怒っているな。と直感した。 時枝はおばあさんの悪口を言い続けていた。けれど、二三子はその口元を見つめながら、昼間のミニーマウスの女の子のことばかり思い出していた。
その夜遅く、低いが鋭い八州子の悲鳴が起こった。茶の間寝ていた時枝が、日本間に駆け込んで行くのがわかった。二三子は身を固くして窺っていたが、その内そっと布団を抜けだして、襖をそっとあけて、階下の気配を窺った。日本間に電気がついている。 八州子の声がした。 「何だってベビーベッドのうえに?」 「みーこのしわざよ」 「こんなことしたことある?」 「やきもちかしら?生まれてくる子に」 「性格のいい猫なんdけどねえ。お祝いのきもちかもしれないわよねえ」 「おねずみ様一匹献上って」 ふたりはくくく、と笑ったようだった。二三子はだいたいの状況を察知してくらくらしながら、階段の手すりに腰が抜けたように身をもたせかけていた。 「どうするの?このねずみ」 「シッ。上にきこえるわよ」 二人の声は急にひそひそして、聞こえなくなってしまった。みーこの仕留めた鼠の死骸が、ベビー布団に乗っかっているということだ。 「あした、花磯の若いのにでも始末を頼もうかねえ」 「植木たのんでるの?」 「そろそろしてもいいころだし、ちょうどいいよ」 二人の話し合いはついたらしかった。二人はそれぞれ自分の寝床へ去っていった。階下の灯りは消えたが、二三子はそこに凍りついたように動けなかった。 ふるい日本間の場違いなベビーベッドで今晩鼠は死んだからだを横たえているのだ。そして」その部屋は、昔おねずみ様信仰をしていたおばあさんの部屋だった。そのからだは献上品か、人見御供なのか。ベビーベッドは今晩ねずみのものに。 するとまた、玄関にパサッと何かが当たる音がして、あの飛び石をかろやかに飛び越える音が聞こえてきた。 夜も十二時ちかくに、ねずみの女の子はやって来たというのか。 二三子は手摺にもたせかけていた身体を少しずつずらして階段をのぞき込んだ。すりガラス越しにいつかみた風体のねずみの女の子が飛び跳ねていた。どうして、お義母さんも八州子さんも聞きなれない音に目覚めないのだろう。 そうか、この音や姿は、わたしにしか聞こえないし、見えないのだ。ねずみの女の子を身ごもっているわたしだけにしか。 腰が抜けたように冷たい床の間に足を投げ出してもたれていたが、不意にあってこなければと思い至り、二三子は立ち上がった。重たい腰でも痛いお腹でもない普通な立ち上がり方だった。 月のあかりが照っていた。安いプラスチック製の趣味のわるいステンドグラスの窓越しに、月は猛烈に照らしていた。風のないじっとりとした夏の夜の空気が満ちていた。ぱたっぱたっと音はつづいている。二三子はいたって健常人のように普通のテンポで階段を下りて行った。 「あなた、どこの子なの?ねえ、ねえ」 二三子は玄関の鍵を開けるのに手間取った。ただその子に会いたい一心で、焦りながら、二三子はやっと開いたドアから裸足のまま外へ飛びだしていった。外の門はあけっぱなしだった。 「待って」 二三子は飛び下りるようにして、門へ続く石段をかろやかに飛び越えていき、踊り場のひと隅に転がっている鼠の死骸を見た。こうこうと明るい月のあかりがそれを照らしていた。 「ああ、やっぱり」 二三子は吸い込まれるようにその横に伏していた。 二三子は赤ん坊がずいぶん簡単に産まれてよかったと褒められていた。確かに、自分の身体をすり抜けていくとき、とりのこ餅のようなすべらかさだったな、と考えていた。 今晩、二三子は病院を出ようと思う。心ある看護婦さんが七ヶ月に満たないで死んだ子をきれいなお菓子の箱にいれてくれたのだ。哺乳瓶の乳首や可愛らしいお花や玩具も入れてくれた。時枝に連れ去られては大変だった。 今晩、二三子は決意していた。ちょうど七ヶ月わたしのお腹にいたねずみの女の子といっしょに、どこか自由な所へ行くのだと。
(完)
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