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エッセイ
黒猫
山本瑛二
(一)
わが家には、いつも黒猫がいた。それも、クロという名の雄猫にかぎられていた。
老いたクロが死ぬと、父がどこからか黒い子猫を後釜として貰いうけてくる。
曾祖父の代から、黒猫ばかり居たそうだから、わが家の守り神だと信じられていたのだろう。
二百年以上も続いたわらぶき屋根の古い農家だから、猫のほかにいろいろの動物が棲みついていた。離れの長屋の一階は牛小屋、二階の主は丸太棒みたいな青大将。母屋の天井には、家守(やもり)が何匹もはりついていて、夜中にぽたりぽたりと蒲団の上に落ちてくる。
母が気味悪がって、やもりだけは始末してくれと父に頼むのだが、一向に聞きいれない。やもりと猫と、そして青大将が棲みついているかぎりわが家は安泰だというのである。たしかに、動物が逃げだすような家に人間が住める筈がなく、また食べ物にしても猫がソッポを向くようなものは、人間も決して食べるな、が父の持論だった。
瀬戸内海が近いから、魚売りがリヤカーに新鮮な魚貝類を山と積んで毎日のように売りにくる。鯵や鯖を買って、自家製の干物を作るのが父と私の仕事だった。クロは、わが家の干物しか食べない。最近のスーパーに出回っているような天然干しでない干物など、臭いをかいだだけで逃げだしてしまう。
「ポンポン」という名の雑草がある。サトウキビを小さくしたような節のあるもので、節目のところを折るとポンという音がする。茎の中は空洞で、そこに水分を貯えている。旨いわけではないが、喉が渇いたときには貴重な飲み水になる。クロがポンポンをかじるのを見て、人間が真似をして水分の補給になると知った。
夏になると、わが家の昼の定番は冷やしうどんだった。乾麺を茹で、つゆは瀬戸内産イリコでダシをとったものだが、イリコを捨てないでうどんとともに食べる。薬味は、ドンブリ山盛りの刻みニラ。私はイリコの頭が苦手で、母の目を盗んでは食卓の下へ頭だけこっそりと捨てる。クロが心得ていて、捨てる先から片付けてくれる。いつもは、ご主人様である父の傍を離れない彼だが、この時ばかりは私にべったりだった。後年、母が口ぐせのように、「おまえがイリコの頭を食べとったら、中西太選手(旧西鉄ライオンズの強打者)のような大物になったじゃろうに」という。高松出身の彼は、その自伝で「瀬戸内のイリコと讃岐うどんが私の体をつくった」と述懐しているから、母も本気でそう思っていたらしい。
わが家のクロは、日本酒が大好きだった。父が晩酌をしていると、父の膝にのってしきりに鼻をならす。酒をねだっているのだ。小皿に酒を貰うと、ピチャピチャと音をたてて飲んでいたかと思うと、いきなりゴロンとひっくり返って寝てしまう。戦後の清酒のない時代、代用品として合成酒なるアルコールを混ぜて作った酒もどきが売られていた。父が、やむなくこれを飲んでいても、クロは決しておねだりをしなかった。「猫も飲まんような酒じやから、不味いのう」が父の嘆き節だった。日頃の、猫の食わぬ物を人間は食うなの持論はどこへやら、酒だけは例外だったようである。
(二)
少年の頃、私の日課が二つあった。鶏の世話と、山へ行って枯れ松葉と薪を拾うことだった。鶏は放し飼いなのだが、どじょうと、貝殻を細かく砕いて米ぬかに混ぜてたべさせると卵を沢山産むというわけで、小学校の帰りみち、毎日のように小川へ行ってどじょうを捕まえる。貝殻は、週に一度海岸まで八キロの道を通って拾ってきた。
わが家の山は、かって松茸の宝庫だった。松葉を集めたり下枝を刈り取ったりして山を掃除しないと松茸は生えない。だから、私の仕事はそれなりに重要なのである。
秋になれば、毎朝山に登って家族七人分の松茸を取ってくるのが私の役目となる。少年の私でも、三十分も探せば篭がいっぱいになる。今にして思えば夢のような話だ。松茸をぬれ新聞紙にくるんで竈の灰の中に入れて蒸し焼きにする。焼けた松茸を割いて酢醤油で食べるのがわが家の慣わしだった。クロは、さすがに松茸には手をださなかった。これも、父の持論に反するのだが、異論をはさむ者はいない。
秋祭りの日は鳥鍋がでる。私が手塩(?)にかけて育てた鶏が絞められるのは切なかったが、食い気にはかなわない。鳥鍋には、自家製の野菜と、それに松茸がたっぷりと入っていた。後年、秋田の比内鳥や名古屋コーチンの鳥鍋を食したが、その都度わが家の鳥鍋をおもいだしてしまう。放し飼いで、どじょうやみみずを常食とする鶏には及びもつかないのだ。だから、東京で松茸とどじょうだけは食べた記憶がない。しなびたような松茸が一本千円以上もする。冗談じやない、とは思うものの、四十年経った現在のわが家の山 では一本の松茸もとれなくなってしまった。日本中、同じような事情らしいから、松茸が高価なのもいたしかたがない。電化やガス化が進んで、松葉や薪を燃料として使う必要がないから、好んで山に入って山の掃除をする者がいなくなった。松茸という自然の贈り物を失うと分かっていても・・・・・。
「都市化」という凶器が、人間と自然との係わりを断ち切ってしまうのだろう。
私が子供の頃に馴れ親しんだ緑ゆたかな田舎は、もはやどこにもない。また、父母ともに亡い今となっては、私のふるさとは、憶い出だけになってしまった。
(三)
父の突然の訃報が届いたのは、私が社会人になって三年目のことだった。駆けつけて、棺に納まった父の眠るような姿だけは見ることができた。聞けば、誰も父の臨終に立ち会っていないのだという。
晩年の彼は、酒二合とクロがいればいい人だった。クロを膝に抱いて晩酌をしながら、低い声で謡う。酔うと、クロを伴って離れに行って寝る。年々鼾の音が大きくなるので、母がうるさがって離れに追いやってしまった。ある晩、珍しく深酒をした父が、翌朝になっても起きてこない。が、高鼾が聞こえるので寝かしておこうということになった。その日の夜になって、鼾の音がしないのに母が気づいて駆けつけてみると、すでに息がなかったのだという。蒲団の傍にクロがうずくまっていた。
「クロがお父さんを看取ってくれたんじゃ。じゃがな、お父さんの葬式の晩からクロの姿が見えんのじゃ。どこへ行つたんじゃろか」
母の言うとおり、どこを捜してもクロの姿はない。猫は、己れの死骸を人前に晒すことはないというから、どこかでひっそりと死んでしまったのだろうということになった。
以後、わが家では黒猫はおろか猫を飼うこと自体がタブーとなった。亡き父が、どこから黒い子猫を貰いうけてきたものか、そしてクロがどこへ姿を消したのか、今だに誰も知らない。
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