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短編
ミュールで散歩
岩波三樹緒
第1回山崎賞・優秀賞受賞作品
ミュールで山歩きした。
まだ春のような初夏の一日だった。
私のミュールは、薄いピンクの布張りでエナメルの白いラインが入っている。 ミュールは西洋では貴族の部屋履きだったという。繊細なスリッパに踵をつけたようなものだ。それが今は街中で流行し、四十女の私までが履くようになった。なるべく美しい素足に履くべきだ。つまり踵をすべすべに手入れして、見えないけれど爪先にも美しくネイルを施す必要がある。私もまねごとくらいはしている。
それもこれも端野という愛人の為に、である。夫のためではない。多くの女が、案外そうしているのでは、と思っている。
ミュールは、端野と第七病棟の芝居を見に行く時におろした。その時には現代美術館にイッセイ三宅展を見に行って、その後、劇場のある水天宮まで歩いた。いい距離である。
それができたくらいだから、いつもの山里散策も可能なはずと思った。
端野との逢瀬は、相模湖周辺の山里のことが多い。
今日もやはりそこへ来た。端野は車を降りる時、一瞬だけミュールに目を向けた。
「それで歩ける?」
すかさず私は、「うん、大丈夫」と言っている。
盲目的に彼にはつき従ってしまうのだ。それが彼に対する愛情と思っているからだ。
しかし実際のところ端野は、従順を愛情とはとらない天の邪鬼であるけれど。
端野と出会ってから、山中に分け入ることを知った。それまで山が都会から意外な近さにあることも知らなかったくらいだ。
しかも端野は、山中を車で走って行き、いきなり脇道に逸れて行く。そこに住む人でなければ入らないような道にである。
「車、はいれるの?」
とおそるおそる聞くような道の、かなりの坂でも車を突っ込んでいった。
かちかちに固まった轍にお腹を摺りそうな道でもいとわず登っていく。
六十なかばの男が乗るとも思えない三菱の4WD車だ。思いきりのよさも年齢を超えている。
いつかは、車の幅まで道が狭まったので、そこで車を乗り捨てた。あとはバックで戻るしかないが、おかまいなしに、さらに奥へ分け入っていく。
「こんなことして大丈夫?」
という言葉を飲みこみ、事態を飲み込むことが端野との付き合いだった。
驚いたことに、そんな奥まで丸太の一本橋がかかっていたりする。朽ちた丸太を前後してわたって行った。手をさしだして助けてくれる。
突然、ぽっかりと峠道が出てきた。時代劇でみたような山あいの峠道だ。ふりわけ荷物で来ればよかったね、と端野が言う。
端野は、道のへりの枯れ草に腰を下ろし、私にもすわるようにすすめた。端野との付き合いを始めてからスカートが汚れる、などということなどは意識の外になった。
それからいきなり、なぎたおすようにしてくちづけする。むちゃくちゃなくちづけのなかで、下着も取ってしまう。峠道というのに、まるで節操がない。
私たちはそこで性急に交わった。
お天道さまだけが見ている。ばかみたいに明るい真昼のまじわりで、犬にでもなってしまったようだ。
「そうだ。取り替えっこしよう」
端野は言うと、私の下着を穿いてしまった。だから私が彼のトランクスをはいた。歩き出すと、下着なしでスカートを二枚穿いているみたいだった。
そのまま山道をもどり、車をバックさせ、ホテルへ行った。ホテルで彼は、男の下着を脱がそうとしてもつまらないな、と呟いた。私は自分のパンテイーがビキニ風に彼の腰におさまっているのを盗み見た。
私は端野と逢うための靴や服が欲しくなる。時には、「あ、かわいいね」と言われたこともあったが、あまり私の趣味には感心していない。映画監督だった端野の趣味のほうが、洗練されている。
そして今日、ミュールで歩ける?とまでは聞いたが、それ以上の関心はよせず、道の先を先導していった。その背中を追いかけ、追いかけ小走りに従いて行く。いつもそうして追いかけて、端野の背中ばかりみてきた。
その背中に、少しばかり老いの影を見る。
七十に手が届こうとする端野の背中に、老いはわずかずつ押し寄せていた。まっすぐな肉の乗っていない背中の高い所が、わずかな弧を描いてきたように思う。それは私にとって翳りになるのかそうでないのか、うろうろ考えている。
体は恣にするけれど、心はどうなの?通っているの?と嫉妬に苛まれながら過ごして来た。けれど、老いはもう揺るがしようがない。私はみえない恋敵に苦しむ必要が薄れて来たことを知る。と当時に、自分が以前と同じレベルでは恋い焦がれなくなりつつあることにも気付いている。
彼との付き合いは丸五年になろうとしている。
この山道には何度来ただろう。険しい道ではない。
人造湖をのぞむ平板な切り通し道だ。しかしそこはすぐに通せんぼうされてしまう。
竹矢来を高く組んで、行く手を遮っている。それが二か所ある。
落石のために立ち入りを禁止しているのだ。
五年前、端野はそれをものともせず、くぐり抜けた。
そしてむこうから手を差し伸べてきた。私は、その手に掴まり、道の縁から体を飛び出させつつ竹垣を越えた。踏み外せば、灌木のしげみの急勾配に落ち込んで、その先は暗い翡翠色のダムの水だ。
それを二回抜けて山道を行く。私には若干後ろめたさがある。
「こんなことしていいの?」
と聞くが、
「こんなことして悪いの?」と聞き返すような男だ。
そして抱き寄せて接吻する。誰の目をはばかることもない青空の真下での抱擁だった。
しかし、以前は、向こうから人が来ることもあった。向こうに町があるらしい。
ラジカセを肩にかけて散策中の中年男性のこともあったし、マラソンランナーの若者もいた。端野はきつい抱擁や接吻をやめて何食わぬ顔で、それらの人と会釈を交わした。ひとことふたこと言葉を交わすこともあった。鉄塔点検のために鉄塔を渡り歩く男にもあった。
女の一人二人を相手にできる矜持のようなものと照れとがないまぜになっている。そして私のなかにも、このうんと年の離れた男との関係をひけらかしたい何かが蠢くのだ。
ともかく少し前まで向こう町とこちら側は車の通り抜けもできたらしい。古ぼけたカーブミラーやガードレールがある。
石がごろごろしている。落石は嘘ではない。道をふさぐほどの岩が転がっていたりする。しかもその肌は割れたての鋭利な尖りをみせており、あたりにその砕片が散っていた。これに当たることもあり得ると、いつも思う。
それは怖じ気ではない。なにか当然の酬いのようなものだ。
こういう関係をこうして続けていることは、幽かな塵のようにいのちに澱を溜めていくことだと思っている。人の妻であり、人の夫であるふたりは、今のところ誰に迷惑をかけるということはないが、人の道には外れている。後ろめたさは罪障だと思っている。その酬いにあらがうことはできないだろう。
しかし端野のほうでは、妻どい婚も一夫多妻もあって、その時々、場所場所で、風習や考え方は変わるんだからと、居直っている。善悪の判断なんて誰にもつきやしないと言い切る。
私は、晴れるでもない大空の下に来て、またしてもこの男と踏み違えを重ねていく。そんな生き方になって生きている。だが今日も、落石には見舞われずにすんだ。
私はミュールのつま先に力を込めて、瓦礫を踏み越えて行く。遅れがちな私に、端野は後ろ手に助けたりもしたが、もう先行して行ってしまった。
端野は曲り角にいた。
緑青をふいた割れたカーブミラーの下にいる。
私は待っている男に飛びつくように追い付いた。端野は私を捉まえて、カーブミラーに向きなおる。二つの顔を並べようと、低い私の背に合わせて背をかがめ調整する。
割れた鏡に二人の顔が並んだ。
端野は容貌に自信があるのだ。もうすぐ七十に手が届くという自分の顔から目を背けたりはしない。背けるのはいつも私のほうだ。
上気して伏せかげんの私の顔と、まっすぐ視線を向ける端野の顔が並んでいる。
向井潤吉の絵にありそうな日向の一本道に出る頃、向こう町から五十年配の男二人がやってきた。このところ人と行き会うことはなかった。珍しいことだ。
山の習いとして挨拶しあい、端野は立ち止まって訊ねた。
「なんですか、それは」
男たち二人の持っている籠のなかに長細いものが差してあった。それを指して、筍堀りですよ、と一人が答える。いやまだ早いんだ、ともう一方が言う。まだ季節にはやい、という意味のことらしい。
そして一人が、籠から一本抜いて、細い竹のようなものを齧ってみせた。
「そんな細い筍なんですか」
と端野が驚く。私も脇から少し驚いてみせた。二人はそうですよと少しおどけて笑い、別れて行った。
女連れの初老の男を訝る様子はない、気さくなかんじの二人だった。
「もう六月なのにね」
と私は端野に言った。
「そうだね。筍は四月とかもっと早いはずだね。あれは種類が違うね」
と、答える。
日向の一本道の中程にくると、パイプを組んだ階段が下に降りている。降りて行けば、ダムの水源地の記念碑にたどりつく。
そこにはいつか真冬に降りたことがあった。
ジグザグに危なっかしく組まれた階段を降りていくと湿地帯に出る。ダムの水源の記念碑は、いちばん低いところに、ほとんど葦のような枯れ草に埋もれていた。
その丈高い枯れ草のひとむらをわけて、端野は腰を降ろし、わたしを横に並べた。
枯れ草のなかの日溜まりに二人は埋もれた。枯れ草を透かした向こうにダムの水が始まっている。
そこでもつれあい、端野は何の躊躇いもなく私の下着を剥ぎ取った。上は防寒の厚物を着ながら、下半身は冬の太陽にさらして交わった。一瞬冷気にさらされる彼のものを自分の温みのなかに避難させる役目のようだ。
私は、五木寛之の『青春の門』のなかの、あるくだりを思い出した。
教師が生徒に、普段陽光にさらさない喉を陽にさらせば、日光消毒できて風邪も治る、と教えるくだりだ。
端野と知り合ってから、私は自身の秘所を陽の目にさらしている。お天道様もいい迷惑だが、私は生涯することもない日光消毒することで、思わぬ効用を得ているかもしれない。 と思ったりする。ダムの水よりさらに低いところにいるような錯覚を覚えつつ、私は陽光のまぶしさに目を瞑ったのだ。
しかし、今日は初夏でありながら太陽は燻っていた。
「降りるの?」
と、訊ねると、
「いや。やめよう」
と答えて抱き寄せた。何度めかの接吻をした。そこへ人の気配がして、二人は自然にはなれた。
また向こう町から、今度は三人組の男が来た。
やはり五十年配くらいに見える男たちは、階段を降りていこうとしているらしく、私たちは場所を譲った。私は極まり悪く端野の陰に後ずさったが、端野はなんの頓着も見せずに、話しかけた。
「降りると、何かありますか?」
男たちは、ちらちら視線を投げつつ、筍取りですよ、と口々に言った。
「そういう季節ですか?」
何食わぬ顔で端野は続ける。私は男たちの好奇な視線から逃れようとして、口をすべらせた。
「でも、まだ早いんでしょ……」
一斉に男たちは、そうなのかと息巻くように反応したので、端野はあわてて、
「いや。さっき会った人たちがそんなことを言ってたけれど」
と、取りなすように言った。
そしていきなり話の矛先を変えて、
「そちらの町までどのくらいありますかね」
と、訊ねた。
男たちはまた、くちぐちに、十五分かそこらかね、と言いあった。そしてちらちら私を気にした。
「そんなもんですか……」
と端野が答えると、
「そんなもんだよなあ」
「たいしてかからねえよ」
「ああ。かかんねえ」
と口々にうなずきあう。
端野はありがとうとはっきりと言って、区切りをつけた。三人は、パイプ階段を降りて行った。
私と端野は、男たちが来た方向を見た。
この五年ほどの間に、この辺りまでは幾度か来たが、その先に行ったことはない。
「行ってみようか」
端野が尋ねる。
私はミュールの足先を気にしながら、すこし迷った。竹矢来からここまで二十分くらい。さらに十五分とすると、片道三四十分はある。また戻ってくる難儀を考えた。
それでも、私は端野が行く気になっているならばと思う。
それに、しばらくは瓦礫のない道のようだ。
「じゃ、行ってみよう」
端野は日向道を歩き出した。
山道はいつも往きが長く感じられるものだが、時間の目処がついていることがせめてもの救いだ。
日向の一本道が途切れると、木立にはいった。林間の舗道のようなその道は細かい瓦礫の道だった。ミュールは布張りだけに、履きこんだトウシューズのように薄汚れてしまった。
隣の町へ。
ただ黙々と目的に向かって足を運んだ。
ミュールの爪先を交互に瓦礫の上で踏みかえていく。
時折、端野に追い付き並んだが、場違いな靴のことには二度と触れなかった。
安易な優しさを求めるならば、とうてい端野との関係など続けられないのだ。
私が端野に惹かれたのは、優しさではなかったろう。むしろ邪慳にされることで、愛を疑い、愛を確保しようとし続けてきたのだ。
ただ、この男は、いざとなると万難を排して道を切り開き、目の前の女を守った。雪道で車が立ち往生したときも、虻がホテルの部屋に飛びこんだ時にもそう思った。
強い男だった。
ただ最近はすこし優しい、気がする。
五年前にはなかった優しさに触れることがある。それは老いの仕業だろう。
端野は、また優しくして欲しがってもいた。それは以前からそうだったかもしれないが、隠さなくなったところに老いがあるのだと思う。
私がふんだんに優しかったころ、彼はそれを当然のように享受したものだ。
今は私に優しさが足りないと思っているだろう。だろう、としかいいようがない。
私たちは多くを語れなかった。それが二十八という年の差であり、必然的に言葉で埋めあえない関係だった。
林間の道は緩やかな坂道となって、終わりが見えて来た。まるでゴールのようにコンクリ製の門が見える。黄色信号を点滅させて雨量が増えたときの侵入を禁じる門だが、あのぶしつけな竹矢来はない。立ち塞がるというよりはここが街の裏口だよとでもいうような控え目な門にみえた。
それをくぐり抜け、坂道に沿って降りていくと、木立が民家の塀に変わり、町が始まった。
町が始まるというのはいかにも可笑しい。
しかし四ツ辻にくると家が並び出す。そこがすり鉢状のこの町のいちばん低いところのようだ。四方に伸びる道はみないずれ高まっていく。
端野はその中の裏山に通じる道を選択した。どうしても山が好きだ。
町全体を舞台とするならば、背景のように低い山並みが迫っており、そこに向かって家々が並んでいる。
どの家も、ここ十年くらいの間に建てられたような新しさだ。こじんまりと体裁よく洋風にしてあったりする。なんだか、ミュールがしっくりくる感じだ。端野とふたり親戚の家でも訪問しにきたような感じである。
明るい色のベランダに洗濯ものがはためいており、玄関ポーチの真上に飼い犬がいて、こちらを見ていたりする。けれどまるで人の気配がなかった。もぬけのからのような印象だ。昼時には、人々はちゃんと昼の食卓の膳を囲んでいるものだ、とでもいうような掟がありそうなほどに。
一軒の家の脇から山にむかって長い石段が通じていた。私が先に見つけた。
「相模四十八番札所ってかいてある」
と言って、立て札を指した。端野は、その前に行き、いかにも面白そうなものを見つけたときの目をして脇書きに目をとおした。
石段は梯子を立てかけたように、急勾配で幅もかなりせまい。しかもぼろぼろに石段がこぼれている。見上げる中ほどに鳥居がみえた。さらに先があるようだ。
「や、面白そうだ」
むろん、端野は惹き付けられる。上がり始める。
疲れ知らずな男だ。私もミュールで追いかける。
端野は日本史だけではなく、民俗学の教師でもあったから、こういうことには、底なしの興味を示すのだった。
おかげで、わたしもまたこの五年間に、いくつものお社や古い民家を訪ねることになった。端野と会わなければ、こんなところへは近付かない人間だったのだが。
崖に沿って石段を上がっていくと、民家の二階部分を越えてしまった。屋根も通り越し、さらに上がっていくと、ぽっかり空間が現れた。
そこには、お神楽ができそうな小屋があり、いくらかの見物人がいても大丈夫なほどの広さがあった。そしてその広場の中程に数段の階段があって、さっき見えた鳥居があり、社がある。
わたしはその広場に留まった。私は、信じる信仰のせいでお詣りはしない。
彼はそれを知っているから、何も言わずに一人で上がっていった。呼吸も乱さず歩調も緩めずあがっていく。彼は私の目が追っていることを知っている。彼がどこかに緩みをみせるなどということはないのだった。そして実際、疲れ知らずの男だった。でも今はどこかでそう、思わねばと思っていることも確かだ。
端野の背中をぼんやり見送ったあと、私は町のほうに目を転じた。
崖に張り出すようにして大きく枝を張った大木があり、私はその下に立った。
町はひと目で見渡せる。小さな箱庭のようだ。
町の中程を吊り橋が横切っている。風景をちょうど真ん中で区切って、美しいアーチ状のループがつながっている。
橋のたもとは民家と街路樹で隠れていた。
だから、四ツ辻を走り抜けて行くミニカーのような車は、入口あたりで一瞬姿を消してしまう。そして数秒後に橋にあらわれて橋をわたって行った。
反対からすれちがったライトバンも同じくらいのスピードで走って来て袂で消えたが、まもなく四ツ辻の道を上がって来た。
箱庭にミニカーののどかさだ。
四ツ辻の手前に、大人と幼い子供の影がふたつ動いていた。人影はそれだけだ。
歩くというテンポではなかった。お婆さんと孫のように見える。なかなかまっすぐに進まない子供にあわせてゆっくりと進んでいるらしい。
その影もやがて民家の軒下に隠れてしまった。
「何をみているの?」
いつの間にか背後に端野がいた。言いながら、躊躇いもなく私を羽交い締めする。薄いサマーセーターの上から胸をつかむ。どこにも人影はないけれど、見えない人影に向かってどうぞ見てくれといわんばかりの大胆さだ。
それから目の前の太い幹に私を抱きつかせて押しつけ、下着に手を伸ばす。私はこういう状況に加担できるよう、腿までのガーター式ストッキングを選んでいる。パンテイーストッキングやガードルはずいぶん前に放棄した。それらをいっしょくたに下ろされると、後で直すのにややこしくなると学習したからだ。
端野は私と木の幹を同化させて、さらに自分も後ろから同化しようとする。しかし私の背をかがませるくらいでは、完全に押し入れない。そこはあまり私も協力的ではなかった。わたしの腿のあいだで、すりつけるように彼のものは行きつ戻りつする。
箱庭の町をのぞみながら、お社の真ん前で、端野はこんなことがしたい。ギャラリーがあれば、いっそう歓迎なのだ。しかし私はこんな姿勢ではとうてい満足を得られないのだが。
町のどこからか廃品回収車のアナウンスが聞こえてきた。ゆっくりとしたテンポで、それは町中に緩やかに反響した。
「……何でもお引き取りにうかがいます。……聞こえなくなったオーデイオ機器……、見えなくなったテレビ……、壊れた家具、なんでもお引き取りいたします……」
下半身を蹂躙されながら、わたしはその音の主を探した。そして、やけにゆっくり橋をわたってくるトラックだなと思った。
木に同化するように揺らされながら、私はそのトラックの遅い移動を、目で追いかけていた。
「ああ、あのトラックだね」
彼の方でもそれを見ていた。
そしていいかげんのところでやめた。彼は堅く自己主張する一物を示せればいいのだろう。二人は痴態にけりをつけてそれぞれに身支度を整える。端野は、
「つまらなかったね。来るんじゃなかった」
と呟いた。どうして?と私は訊ねる。
「こっちに、なにがあるか知らないままにしておくんだった」
それは判らないでもないが、そうとも思わなかった。こちら町はかつて見たことのない箱庭じみて面白かった。後になれば嘘だったかと思うような町ではないか。それに、ミュールでここまで来たんだし……、と思った。
二人は何食わぬふたりにもどって石段を下りて行った。廃品回収車は四ツ辻をゆっくりゆっくり上がってくる。
「……何でもお引き取りいたします」
間髪をいれず、端野が、
「動けなくなった老人……」
と、ふざける。私も考えをめぐらす。
「笑わなくなった子ども……」
彼が、いいね、と言う感じで悦に入っているのがわかる。
「……歌わなくなったカナリヤ……」
これもかなりいい、と思う。柳の鞭でたたいても歌わないのなら、廃品回収に出してやろ、が正しい。そうしてそのカナリヤはあたしかも、といくばくか思う。
帰りの石段はすぐに尽きてしまった。思いきって悪ぶった。
「感じなくなったバイブ……」
「あ、それいいね。回収したらあのトラックのおっちゃんが自分で使うだろ」
「おっちゃんは、使わないと思うけど……」
「そうか。あれは女が使うんだ?」
「さあ……?」
かつてこんなふうに軽薄だった自分はなかったのにと思った。だが別段淋しく思うわけでもなかった。それは私のなかの情熱と比例していた。
収束ということばが浮かんで消えた。
私は端野に飛びついて手を繋いだ。繋いだ手の上からもういっぽうの手を重ねて揺さぶるように見つめた。見つめても見つめられるままでいられる男だった。
二人はふたたび箱庭の町に埋没した。
廃品回収車はどこかで止まったようだ。だれか呼び止めたひとがあるらしい。どこにも見あたらないが、人は生活をしているようだ。
洗濯物がはためき、犬は尾をふってこちらを見ていた。
さっきの辻で、私はお社の方を振り返った。
しかしそこはただの山の茂みで、鳥居さえ見えなかった。二人が同化しようとした大木も枝垂れた枝がすこし見えるだけだ。高みからはあんなによく見わたせたのに、私たちのした行いは恥じようにもまるで痕跡がない。
私は、端野にぶらさがるようにして振り向いていたが、端野は振りかえらなかった。
まっすぐ、来た道を辿りなおしていく。ねえ。ねえ。と、私はよく言ったが、その先が続かないことが多いから、端野は聞き返さなくなった。あるいは、なに?と言いながら、答えを当てにしないことも多かった。
「ううん。好きなだけ」と言って私はよく終わりにしてしまった。二人に未来がない以上、深く語る何ものもみつからないからだ。
黄色い旋回灯で照らすコンクリの門柱は、ここでも降水量が150ミリ以上で立ち入り禁止といったことを記しているが、いかめしさがない。だれもこの裏口に用はないのだろう。
しかし門をくぐったところで、さっきの三人組と出くわした。筍取りから戻ってきたらしい。さらにもう二人地元の人間らしいひとがいて、皆で親しげにしゃべっていた。
端野の手をはなして少しだけ遅れてついていく。端野はその間を知らぬげに通り抜けていく。いくばくかの好奇の目を浴びることはおり込み済みだ。
そして実際、新しい二人が、遠慮会釈のない好奇の目でこちらを見ていた。わたしは端野の後ろから、彼らに一応会釈した。
「あの靴じゃ無理だ」
という声が聞こえた。同情を浮かべて忠告しているようなので、少し振り返って大丈夫ですからという振りをしてみせた。
するとさっきの三人の一人が、
「いやあ、あっちから来られたんだから」
とその男に向かって言った。
その来られたの、られが、場違いな敬語のように聞こえた。それともCANの意味だろうか、微妙だった。
端野は背中で後ろの会話を聞いていた。少しさきまで来て、
「あっちから来られたんだから、なんて敬語使っちゃてね……」
と、笑った。
やはり敬語なのかしら? ただ、同年代か、いやむしろ彼より若いはずの彼等は、山育ちでくたびれており、端野のことは紳士にみただろう。それに彼はもう随分長くなった大学教授の世間の扱いに慣れきってしまったのだ。そして娘くらい年の離れた女をつれていることを誇ってもいる。
私はなにか胸の内に微かなつまずきを覚えた。それがすとんと胸の内に落ちていかない屈託をかんじた。
帰り道はやはりはやかった。往きの行程をあっという間に巻き戻していき、見なれた風景に戻っていく。心の方がわずかについて行ききらないような感じだ。
竹矢来を抜け、車をおいたところに戻った時、ミュールの踵に手応えが消えた。
右足をもちあげると、真半分で折れて裏皮一枚でつながったヒールがぶらさがった。
また地面におろすと、その場はつながる。歩けなくはなかった。
後はホテルに直行だし、家の近くまで送りとどけてもらえるし、なんとかなるはずだ。絶妙なタイミングでこわれたのだ。端野は気づいていない。私はそのことを端野に告げないまま、車に乗り込んだ。
エンジンをかけながら、端野はまたしても呟いた。
「行くんじゃなかったね……。あの先に何かがある、と思っていたほうがよかっ
たね」
そうなんだろうか。私は折れたヒールを車の床に押し付けながら言う。
「でも今行って来た町はなにか嘘みたいだった。ほんとにあった気がしない」
そうだね、といいながら、端野は車を出した。
彼の中のなにかがきっと潰えたのだろう。けれど、私はそれを救いきらない自分にまざまざ気づいている。
私はここにいるけれど、体が此処にあるだけなのだ。心で抱きしめて、悲哀を吸いとり、死が二人を分かたない確かな絆を示すことが、今の私にはもうできないのかもしれない。
最後の女になるチャンスを不意にするかもしれなかった。
タイヤの下で何かがはじける音がした。何かの実の固い殻がはじけたようだった。すこしだけ二人は目を合わせ笑いあったがやはり何も語らなかった。
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