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茶房ドラマを書く/作品紹介


エッセイ

先生が倒れて

小泉八重子



先生が倒れて、報せを受けた久保さんが私に電話してきた。四月二十二日の教室が始まる二、三日前だった。先生は両耳が聞こえなくなり、両目が痛み、先週末に即入院の診断を受けたのだという。

「金曜日に入院て言われたらしいわ。それでね、先生は自分では脳腫瘍やて思うてはるみたい」

久保さんはまるで隣の人のことを話してるように「驚いた」といった感じで教えてくれた。私は思わず「そうかもしれない、そうだと思う」と答え、「自分の躰は自分が一番ようわかってるもんやもん」ととどめを刺すように続けた。「はああっ、そう」と久保さんは溜息をついた。

受話器を置いてしばらくぼうっとした。かあっとするようなぼうっとなるようなつまりは真空状態だった。どうしようとかどうなるのという前に最悪の状況を口走ってひとまず落ち着きたかった。先生は脳腫瘍。それでわれるような頭痛に悩まされてこの世を去る。そう決めるとすっと気持ちが楽になった。

「これでもう終った」

何が? 何かわからないが終った。たとえ先生が健康になって戻られたとしても終った。書くことが先にあった人生が終った。全速力で駆け抜けていくジープにすがりつかずとも、これからは自分で命の選択をしようと思った。書く目的が途轍もなく広がったような気がした。

これまで教室という小舞台に金を払ってきた。金を払ってでも自分の書いたものを読んでほしかったのだ。どんなに悪評でも答えてほしかった。教室以外の私は、夫と子供、実家とも縁を切り、たった一人仕事もなく、マンションにこもりっきりで創作といえば聞こえがいいが、実のところパソコンでチャット仲間と無言の会話をする時間が圧倒的に多い。「うつ病の談話室」というその部屋はおよそ希望のない人生を何とかごまかしながら生きている人々の群れる港だ。そんな人々との会話に現をぬかす自分に嫌気がさしていざ仕事を始めようと目論むと途端に激鬱に見舞われ、カウンセラーに泣きつく始末である。だから、月に二回のこの教室のために、「せめて人間らしく」過去を振り返り恨みを書いてきた。うわっ。初めて客観的に自分の生活を描いてみて、そのあまりの昏さにたじろぐ。この暮しを選びとっているのは他ならぬ自分なのだが。

もし先生が死んだとしたら、教室はなくなる。

この暮らしもなくなる。

そしてとりあえず目の前の締め切りもなくなる!

「最後」の教室にあがった私の作品「母へ」に対する先生の評がこだまする。

「これは(こうして)これで終った」

それは私には「構成を無視した心情を吐露するだけの作品は終った」と聞こえた。この作品は「死んで下さい」で始まる母への訣別の序章だった。言い過ぎて言い足りない作品だった。そのとき私は丁度長姉から母の八十を祝う食事会に誘われていた。この作品にすがりついてやっとの思いでその誘いを断ったというのが本音だ。今度母の家にいくときは「取材」になるだろうと言ったのが精一杯だった。肉親を切りスタートを切った。

だから実は困るのだ。こんな所で倒れられたら一体どうしたら、私は……

いいのですか、先生。「母へ」に続く「家出」も、あれは書いといた方がいいなと煙草くわえながら明るい蛙のようにおっしゃったもんだから、そうか、やっぱりなと、どこにいても不真面目な私が先生の前では殊勝に襟を正し、昏い気分で近過去に向おうとした矢先だったのだ。で、やはりといえば何だが結局不真面目に喜んでしまうのだ。とりあえず締め切りはなくなったと!

日頃学校にはけだるく死にかけの足取りですすむのに、嵐になると爛々と張り切って家を出る私でした。

お守りを買いに鎌倉に行った。これまで願いごとが叶わないことのなかった鶴ヶ岡八幡宮を目指した。他人の幸福ばかり祈る私はしばらく「家出」に鬱々と取り組んでいたので外が眩しかった。眩しさにくらくらになって気がつくと由比ヶ浜通りを長谷に向って歩みのとまらない次第となった。途中、揚げたてのコロッケを立ち食いさせてくれる肉屋があって、外の丸テーブルでビールを喉越しに鳴らしながら、焼きソバのコロッケという不思議な楕円形をアイスキャンディーの棒ふうでつまみもって立ち食いした。ホフホフのゴクゴクであれはたまらなかった。死んでもいいと思った。

気がつくと真っ暗だった。こりゃあいけねえと思って、八幡宮に戻った頃には辺りに人影はなかった。ここで(お守りを)買えなきゃ先生はもうだめだなと勝手に決め込み、とりあえず拍手をうって灯りのともっている社務所を目指した。白い裃を着た神官がガラス障子を開けた。明日は十時からという。何だか今日でないと有難みがないようなのでねだると、物によってはお守りはあるという。そうですかっと現金にたたみかけて尋ねると病気平癒があった。
万歳これで先生は治ったと快哉した。

それでも「台風に登校」の喜びはとどまる所を知らなかった。皆を巻き込んでのつづり方教室を開催の運びとした。日頃死にたえている一発屋の莫迦力ほど怖ろしいものはない。メンバーに手紙でよびかけ、「先生が倒れて」に続く文を書くようにすすめた。そんなことでへとへとになりながら憂鬱に遊んだ。

「物書きって、特に小説家はこもりっきりで一途に書くでしょ。憂鬱になるんじゃない? だから昔の文士はしょっちゅう酒のんではやりあったりしてたんじゃないかなあ::。わかるよなあ」

俺も昔小説書いて気が狂いそうになったと先生は言う。劇はそうじゃないと言う。なんなんだ。何で小説をそんな救いのない方向にもっていこうとする。一途でこもるからこそホフホフのグビグビが輝くんじゃないか。

先生が脳腫瘍だったら締め切りがなくなり、「せめて人間らしく」あろうとした時間と場所が消える。かまわない。闇に広がる舞台に向けて爪をとごう。

金をもとめて。といってこの間私にできたことは何もなかった。やっとの思いでこの原稿を仕上げることだけだった。

五月五日再び久保さんから電話があった。検査の結果単なる顔面麻痺であったという。まだ右半分の顔が歪み、耳も聞こえない状況だというが先ずは一安心というところだった。久保さんは言った。

「だからね、思ったの。先生はみんなの痛み背負いはったんやわ。キリストみたい……」

覚えてるだろうか久保さんは、この台詞を。気のゆるんだ拍子に本音が口をついて出るという。顔の右半分麻痺のキリストはまた無精髭をたくわえ、くわえ煙草に松葉杖をついてやってくる。何が「せめて人間らしく」なのか知らないが、私は次の教室を考えた。近所の朝日カルチャーセンターにしょうかなあとたらたら思いついてた私は結構ユダ。

でもユダは思う。傷だらけのキリストを後ろから抱いたのは気持ちよかったと。彼のジャケットは分厚くかたい綿だった。私はその分厚さに疲れを感じた。ああ、彼は働いてる。こんな粗末な鎧をきて。抱きながら抱かれてるのは私だという気がしてきた。とりあえずまだいい男のキリストいないようだからよろしくお願いします。

平成16年5月20日(木)