2011,8月上旬撮影
クチャの歴史は古く起源前2世紀末から西域36国のなかで最も栄え「亀茲国」と呼ばれていた。天山山脈の南麗に位置し山脈の雪解け水にはぐくまれ鉱物資源にも恵まれたシルクロードの要衝であり東西文化の交流が盛んでイスラム教と仏教文化が混在したオアシス都市であった。翻訳僧として名高い鳩摩羅什の生地として名高く,管弦伎楽などの音楽が盛んな豊かな国家でありここで使われていた五弦琵琶や横笛は、日本の雅楽に影響を及ぼしたとされる。 仏教文化が栄え玄奘三蔵が滞在した七世紀の亀ジ国には伽藍100、僧侶5000余人がいたという。しかし唐の時代に勢力が衰え九世紀にウイグル族がこの地に勢力を持ちウイグル化していった経過がある。 現在も仏教とイスラムが混在するが人口38万人のうちウイグル人が88%を占める。街中には大型トラックは進入禁止、ポプラ、ネムなどの街路樹が茂る綺麗な街であり一歩街の中心街を離れるとロバ車が走る、気候は穏やか、人々は人懐こくのんびりとしたオアシス都市である。周辺にはキジル千仏洞、スバシ故城、亀ジ故城跡等の仏教遺跡や500以上のモスクと数千人が収容できるといわれるクチャ大寺があリ往古の繁栄さを実感する。 |
スバシ故城 西域最大の仏教寺院遺跡。南北2キロmもの大伽藍跡である。クチャ川を挟んで東寺跡と西寺跡がある。玄奘三蔵が60日間滞在 したことでも知られる。広大ながれ場に咲く可憐な原種のスイカの花を目にしながら境内跡を進む。 西寺西方に高さ20mを越す巨大な崩れかっかたガンダーラ様式の仏塔が残る。 許可されている仏塔に恐る恐る登る。広大な遺跡に全く人を見ない。 天山山脈を背に広大な遺跡は日干し煉瓦の壁や寺院、住居跡が塹壕のように土の廃墟でちらばっている。クチャ川の彼方に東寺の遺跡を見る。故城からは漢、南北朝、唐時代の貨幣、銅器、木器、仏像などまた亀茲文字の木簡、ペルシャ時代の銀貨等古代シルクロードを語る上で不可欠の多くの文化遺物が発掘されている。 日本の国立博物館にも大谷探検隊が持ち帰った木製彩色の舎利容器(骨灰入れ)が所蔵されている。この容器は、蓋の部分に連珠円文中の有翼童子像、本体部が奏楽舞踊の列像が描かれた見事なものである。1978年、仏塔基壇の穴から女性のミイーラが出土した。このミイーラは頭部を平たく変形されており、当時女子の頭骨を扁平にし美人に見せる風習が確認されたという。壮大な歴史に身を委ね崩れかかるガンダーラ様式の異様な仏塔を祈る。西域の暑い風が語りかけるように吹き抜ける。 1978年、仏塔基壇の穴から女性のミイーラが出土した。このミイーラは頭部を平たく変形されており、当時女子の頭骨を扁平にし美人に見せる風習が確認されたという。 壮大な歴史に身を委ね崩れかかるガンダーラ様式の異様な仏塔を祈る。西域の暑い風が語りかけるように吹き抜ける。 |
![]() 前方にガンダラー様式の仏塔を見る |
![]() ガンダ-ラ様式仏塔 |
![]() スイカ原種の花 |
キジル石窟 タクラマカンの秘宝とも呼ばれるキジル千仏洞は、中国で最も早く開削された石窟で新疆地区石窟の6割を持ち中国4大石窟(敦煌、雲岡、龍門、キジル)のひとつである。壁画芸術は、ローマ、インド、ペルシャ、中国の外来芸術が融合し、独創的なものが見られる事で知られている。貴重な青い顔料「ラピスラズリ」で描かれた輝く壁画を最大の楽しみに訪れる。 クチャの西北67キロ、ムザルト河北側沿いの岩壁に東西約2キロに開削されている。3世紀末から9世紀まで造られた窟は確認されただけで236窟、壁画は面積にして約1万㎡といわれている。しかし自然崩壊とイスラム教徒による破壊、20世紀のドイツの探検隊 ル・コックや日本の大谷隊等の剥ぎ取り持ち出しにより本来の姿をとどめるものは135窟ともいわれている。不幸にもドイツ隊の持ち出した過半数は第二次世界大戦でベゼクリク寺院のものと同様に焼失してしまっている。 1986年より修復作業が行われ日本でも1988年「日中友好キジル千仏洞修復保存協力会」が浄土宗の僧侶である小島康誉氏の発案で募金活動が行われた。 石窟は保護のためCO2管理を行い一日の入窟者を制限をしている。ひんやりして薄暗い石窟に入る。必要に応じ懐中電灯を照らす。もろく崩れるような砂岩で出来た石窟は中心柱窟、方形窟、僧房室の三種類がある。主室、中心柱、回廊の3つの部分からなる中心柱窟が特徴である主要窟に進む。参拝の順路は主室の側面に描かれている釈迦の前世、本生図,在世,生涯の所行の話法図を見ながら中心柱の本尊釈迦仏を拝む。次に中心柱周囲に穿たれた回廊を右周りに回り中心柱を拝みながら後室に入る。石窟の最も奥深く暗い場所の後室は釈迦の死、釈迦の涅槃図か涅槃の塑像を目にする。背後には広目天,多門天など四天王が見守っている。主室入口上部の半円形壁画は未来仏の弥勒菩薩が描かれている。石窟は大小いろいろの大きさだがごく小さいものから高さ10mから14m間口5m位奥行き14m-20m位のものが多い。概して敦煌莫高窟に比べ小さいがキジルの壁画は躍動感がありしかも絢爛たる色彩、繊細にして美しい。残念なのは14世紀にイスラム教徒の仏教弾圧により壁画の殆どの顔は目、口を削り取られてしまっていることである。偶像崇拝を認めないイスラム教徒にとって特に目、口は霊力を感じていたのだろうか。 キジルを代表する特別窟第38窟に有料料金100元を払い入る。この窟は4世紀に作られ音楽窟と呼ばれてる。広さ15㎡位だろうか、入口には弥勒菩薩と壁面いっぱいに伎楽天が描かれている。男女対の伎楽天は男が琵琶弾き、女が横笛を吹く。やはり残念ながら顔は悲惨なほど削り取られている。痛ましい。楽器を奏る指先の描き方等は実に繊細なタッチで躍動感に溢れている。石窟の人物は、いずれも顔の描き方に特長があり顔は丸く、目鼻、眉、唇に白いハイライトが用いれている。アーチ型の天井には太陽、月を配して天空を表現する天象図と本生故事という釈迦の前世の物語が菱形に区切られたな中に描かれている。菱形は仏教の世界感で、世界の中心に聳えたつ須弥山を表すという。絵のベースは鮮やかな青色で色が深い。20世紀初頭この石窟を砂の中から掘り起こしたドイツの探検隊ル・コックが天空の群青色と表現した色である。ラテン語の石を意味するラピス、アラビア語の天空を意味するラズリに由来する「ラピスラズリ」である。キジル石窟を豪華にする青色。日本には奈良時代に遣唐使からもたらされ「瑠璃」と呼ばれた最高級の青。金よりも高価な顔料で遠くアフガニスタンのバダクシャン地方などでしか産出しない青金石の鉱物から作る青色顔料である。 「ラビスラズリ」はシルクロードを東へ、西へと運ばれ古代エジプトのツタンカーメンの黄金マスクに埋め込まれもいる。スケールの大きいシルクロードの話である。亀茲国もそれだけのものを使う財力と、文化国家であった。ふんだんに使われている天然ウルトラマンブルーともいわれる青、キジルが別名「青い石窟」と呼ばれている由縁である。赤、緑、黒、青とさまざまに絢爛豪華に使われた色は時代と共に酸化、変色しているが「ラピスラズリ」の青は変退色が見られずこれからも「キジル」の青で輝きつづけるだろう。 ル・コックが剥ぎ取り持ち帰ったフラスコ漆喰彩色の壁画菩薩像、人物像は山梨県の平山郁夫シルクロード美術館に所蔵されている。 |
![]() 鳩摩羅什の像 |
![]() 17窟 弥勒説法図 |
![]() 舎身飼虎 |
![]() 38窟 痛ましい天宮亀茲楽 |
クズルガハ烽火台 クチャ西北12キロにある漢代に造られた辺境警備用の狼煙台が整然として残る。高さ15m、東西の幅6m、南北4,5mで上部に観望の場所もある。当時15キロ間隔で作られておりこの烽火台はシルクロード北道上の最古のもので最も保存の良い遺跡である。 |
![]() 新疆地区最大のクズルガハ烽火台 |
クズルガハ千仏洞 クズルガハ千仏洞は 烽火台の近く小高い砂山の中腹に洞穴にある。キジル石窟よりやや新しい唐時代の仏殿と僧坊である。現在六つの壁画が残り特徴的な第24窟で亀茲国の生活を知ることが出来るといわれ、過っては見学者も多かったようだが最近は殆ど門が開けられる事が無いようで沙漠の廃墟のような佇まいである。 |
沙漠の舟 ふたこぶラクダ クチャの郊外で駱駝の群れに遭遇する。親が子供の駱駝を気遣いながら怒涛の如く障害物を越えていく。この地方の駱駝は性格のおとなしい、ふたこぶ駱駝である。沙漠の舟といわれる駱駝は一頭で200キロ位の荷物を運ぶ。高さ2メートル余、身長3メートル以上余もある。乾燥に強く3,4日は水を飲まなくてもよく、72日も水なしに耐えた駱駝がいたと訊く。従順で働き者、大きな鼻で風の向をかぎ分け水源を探す事ができる沙漠のキャラバン(隊商)の仲間は車、汽車、飛行機等にとって変わられ観光や山間の小規模運送又は食用以外あまりみられなくられなった。かってキャラバンの駱駝が鳴らした鈴は30cmもあり「カラン、カラン」と鳴り響き2,3キロ先まで聞こえたという。駱駝との出会いは昔日のシルクロードに思いを馳せたひと時であった。 |