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コンピュータとの出会い


アナログコンピュータ


 コンピュータというものを初めて知ったのは,大学3年のときであった.建築学科の学生であった私は,構造力学の時間に,担当の成岡昌夫先生が,撓み角法で導かれる33元の連立方程式が1時間ぐらいで解けるようになったということを感激的に話されたことを覚えている.


 一方,4年になって,アナログコンピュータというものを知った.超高層建築として「霞が関ビル」の地震応答解析を初めとして,建築物の非線形地震応答解析が盛んに行われていた頃であるが,解析のための唯一の手段として,アナログコンピュータは時代の華であった(デジタルコンピュータは,まだ計算速度が遅く,実用的ではなかった)が,そういうことも知らずに訪れた小堀研究室にそれがあったのだ.


 研究室には,水畑耕治先生(故人)手製のアナログコンピュータがあって,5自由度までの非線形地震応答計算ができたが,新しもの好きの私は,これに飛びついて,以後,10年ぐらいの間,アナログコンピュータのお世話になった.昭和40年頃には,三菱電機のMELCOM-7500?という大型アナログコンピュータが導入されて,10質点系までの非線形地震応答計算ができるようになった.

 水畑先生手作りのアナコン

 この計算機を入れるために,前室付き3スパン分の部屋が用意され,この計算機のために大型クーラーが設置された.時代からいえば,トランジスタが普及し始めたころであったが,100Vの演算電圧をもつ低速型アナログ計算機は真空管式のものに限られ,積分器20台,加算器20台,汎用増幅器60台を有し,係数設定用のポテンショメータ40個は,リレー式4桁計数管で係数を設定きるという高性能のものであった.計算回路は,汎用パッチボードの上で行うが,数百本のパッチコードを接続して,結線ミスがないかどうかチェックするのは大変な作業であった.


 あらかじめデータレコーダーに記録されている地震加速度データを再生して,計算回路に入力電圧として与え,増幅器の出力をペンレコーダーで記録するのであるが,一つの地震波形を処理するのに5分ぐらいかかるので,別のチャンネルには音声が録音されていて,同時に再生しながら,計算の進行状況を監視し,もうすぐ終わるなどといっていた.EL CENTRO地震の当たりには,イーグルズの「朝日のあたる家」などが入っていて,何度も何度も繰り返し聞いたものだった.


KDC-1


 このころ,やっと,デジタル計算機が実用的に利用され初め,大学には,KDC-1という名前の日立電気の大型計算機があった.これは,トランジスタを用いて,メモリは4,000語(古いことなので記憶も定かではない)程度,操作卓(これが本当のコンソール)には,押しボタンとランプがズラッと配置されて,ピカピカ点滅しているというものであった.何しろ,ランプの点滅状況を見ていれば,今,計算機がプログラムのどの辺を処理しているかが分かったものだ.


  KDC-1  中央にコンソール,その右にテレタイプ

 つい最近WEBページでKDC-1のことを知ることができた.それによると,Geトランジスタ8,500個,ダイオード50,000個を使用し,コアメモリ50語,磁気ドラム4,200語,クロック230KHzということである.いまでいうメモリというのは,磁気ドラムだったのかなあ.納入されたのは,1960年(昭和35年)とある.


 プログラム言語は,機械語のみで,アセンブラもなく,一応,記号でソーステキストを作成するが,あとは,対応コードと番地の計算をして,14桁?の数値で表して,これを紙テープにパンチした.プログラムのデバッグは,パンチのし直しになるので,簡単なところは,パンチの穴あけと穴埋めを行った.テープの穴を見て,文字を読んでいたのだから,ASCIIコードや2進数というものを体で覚えていた.この計算機で作ったプログラムには,5自由度系の固有値方程式を解くプログラムがある.今なら,関数がいくらでも用意されているが,当時は,Stodola法で逐次計算を行った.今から考えると,現在の電卓程度の能力も持たない計算機で,相関関数やパワースペクトラムの計算もやっていたのだから,すごいものであったことが分かる.後になって,今でいう,アセンブラも導入されたが,使い方が面倒で,FORTRANが動く次世代のKDC-2が導入されたので,使用することはなかった.KDC-1を使用しなくなったので,そのマニュアルも処分してしまった.最初に利用したデジタル計算機の記念としてとっておけば良かったと思っている.


HITAC-10


 大型計算機に対して,ミニコンピュータいうものが出てきたが,その中で,HITAC-10もなつかしい.メモリは,多分,4KByteしかないのに,本体だけで500万円もしたが,大学で特別整備費というものがあって,小堀先生にお願いして買ってもらった.KDC-1は7億円もする大学全体の大型計算機であったが,それ以上の能力を持つミニコンピュータが研究室でもてるようになった.



 このプログラミングにも往生した.一応アセンブラが付いていたが,テレタイプによる入出力の方法が分からない.キー入力した文字の受け取り方や,数値データの印字の仕方といった肝心の所が,全く分からず,日立の人に簡単な入出力ルーチンを作ってもらって(有償で10万円),それを解析して,自分なりに理解した.


PDP-11


 さらにコンピュータの大衆化が進むことになり,マイコンの時代を迎える.FUJITSUやNECの8ビットCPUの組立キットがさかんになって,マイコンクラブというものできたりして,コンピュータが自作できるようになった.私は,コンピュータの組立経験は今もってないが,製品として売られていたものとして,DECのPDP-11という8ビットコンピュータがあった.本体だけで100万円もしたと思うが,これも小堀先生におねだりして買ってもらった.ところが,このコンピュータが一筋縄では動かない.結局,この計算機は買ってもらったものの,ほとんど,使われることなく,100万円を捨ててしまったようなものだった.とにかく,このころは,少しでも新しい計算機を買ってもらいたくて,小堀先生にああだこうだと説明して,研究室費の大半を使わせてもらった.


NOVA 3/12


 昭和50年代の始め頃になると,大型計算機の進歩は加速度的なものとなり,大半の計算は,計算センターに設けられた大型計算機を使用して行われるようになった.一方で,計測データの解析,特に,観測地震波形や微動計測波形のスペクトル解析,加振機を使った建築物の定常強制振動実験のデータ解析といった実験データ処理を大型計算機で行うことはできなかったので,研究室自前のコンピュータがどうしても欲しくなってきた.研究室で,コンピュータ関係の取扱をすべて引き受けていたので,コンピュータとその周辺機器の進歩には常に敏感になっていた.当時の計算機の入出力装置はテレタイプというタイプライタと紙テープの読みとり装置を持ったもので,今のように,キーボードやディスプレイがあるわけではない.タイプの印字速度や紙テープの読みとり速度は1秒間10文字に決まっていて,ガチャガチャ音がして騒々しいものであった.今でいうところのインクジェット式のプリンタができて,1秒間30文字の印字ができ,それに音が静かというのが出て,これも手に入れた.シャープだったかなあ.はっきりとは覚えていないが,定価は130万円だった.


 マイクロコンピュータの本格的なものとして入手したのが,NOVA 3/12である.これは,DECの製品であったが,日本では日本ミニコン,日本データゼネラル,日本DECとめまぐるしく社名が変わったところが扱っていた.新品ではなく中古品が500万位で入手できることになった.


 このシステムは,32KBの記憶メモリを持ち,1.2MBのディスク装置,カードリーダー,キャラクタディスプレイ,XYプロッタ,AD/DA変換装置などを持った本格的なものであった.ディスク装置はカートリッジ式で直径40cm位の円盤で,中には金属ディスクが入っていたので,リムーバブルハードディスクというところか.今のフロッピディスク1枚分の容量と同じでOSが入っていた.カードリーダー以下の周辺装置は,最初からあったものではなく,後から年々追加していったものである.キャラクタディスプレイという言葉もなかったと思う.ブラウン管に文字が表示されるというだけで,それまでのテレタイプではなしに,音もせず紙もいらず,その速さには感動した.でも,これも100万位したと思う.このころの周辺機器は何でも高価であった.XYプロッタだって200万近くした.しかも,本体だけで,これを動かすのには全部自分でプログラムを組む必要があった.


HIDAS 5200
 これは,コンピューターではない.日立電子のAD変換器である.地震観測や振動実験の計測データはペン書きオシログラフで波形を表示する,あるいは,モニターしながら,データレコーダーに記録した.このデータを処理するために,AD変換器が必要になり,研究室に導入された.16チャンネルまでの信号が数値化されたが,その結果は,10インチの磁気テープ上にバイナリデータして記録された.



TEAC PS-85


 コンピュータが手頃な値段(100万円以下)で買えるようになった.FDOSというフロッピディスクベースのOSを持ったコンピュータで,5インチフロッピディスクは200kbyteの容量であった.
 昭和57年,福山大学に移る際に,大学にお願いしてもらって,PS-85の完全システムを買ってもらった.AD変換ボード,グラフィックボードといった増設ボードをつけて,350万円,TRS-DOS(Tandy Radio Shackという名前もなつかしい)のもとで,BASICやFORTRANが実行できた.
 プログラミングは,ラインエディタというコマンド記述式のエディタで編集するが,変数名は2文字以内とか,今では考えられないようなものであった.
 このコンピュータを使って,強制振動実験で振動計測データを取り込み,共振曲線を描くプログラムを作成したり,また,タブレットを組み込んで,EQLISTで使用している日本地図データを作成して,地震震源分布図を描いたりもした.
 地震応答スペクトラムの計算には,一つの地震波形の解析に一昼夜を必要とし,前日プログラムをスタートさせれば,翌日に結果が得られるというものであった.

       
           (TEAC 末広氏提供)


FUJITSU FM-11
 パソコンが普及し始めた.初代PC-9800も出てきた.1MBのフロッピディスクを一番早く取り入れたFM-11を購入することにした.フロッピディスクは1枚1,200円もしたから驚きである.
 しかし,基本言語がFBASICというやつで,NECのものとは微妙に違っており,その頃出ていたパソコン誌のNBASIC用のプログラムを移植するのは結構面倒であった.

NEC PC9800/VM2
 FM-11を購入したのは,1MBのフロッピディスクが使えること漢字プリンタが使えたためであるが,PC9800シリーズが急速に普及した.