文禄・慶長の役

豊臣秀吉の天下統一

年号 西暦 秀吉関連 筑前・筑後
天正10 1582 本能寺の変。織田信長没。
山崎の戦い。明智光秀を討つ。
太閤検地(~98)。
天正11 1583 賤ヶ岳の戦い。柴田勝家を討つ。
大阪城築城。石山本願寺跡に築城。
天正12 1584 小牧・長久手の戦い(~86)。 立花道雪・高橋紹運、筑後に進出。
天正13 1585 四国平定。長宗我部元親降伏。
秀吉、関白になる。
天正14 1586 秀吉、太政大臣となり、豊臣姓を賜る。 島津、筑後・筑前に侵入、諸城を落とす。
島津勢、立花城の囲いを解いて薩摩に引き揚げる。
天正15 1587 05 島津義久、降伏。九州平定。 秀吉、小早川隆景に筑前・筑後を与える。
バテレン追放令。九州平定後、博多で発布。
06 秀吉、朝鮮国王に来日を要求。
天正16 1588 秀吉、箱崎で茶会を開く。
天正18 1590 小田原平定。北条氏政を討つ。
秀吉、奥州を平定して全国統一なす。
天正19 1591 09 秀吉、朝鮮出兵を命じる。
天正20 1592 文禄の役。名護屋に本陣を置く。
慶長01 1596 09 秀吉、明の国書の無礼を怒り、明使を追放する。
26聖人の殉教。
慶長02 1597 01 慶長の役。再度朝鮮に出兵。
慶長03 1598 08 秀吉、没。
12 日本軍の朝鮮からの撤兵終了。

桃山時代、豊臣秀吉の2度の朝鮮侵略戦争。秀吉は大陸征服を企て、李氏朝鮮が明侵入の道案内を拒絶したのを怒って出兵。宇喜多秀家を総帥に、加藤清正・小西行長を先鋒として平城まで進出。民の援軍を破り講和となったが、秀吉は明の国書中に「日本国王に封ず」とあったのを怒って、97年再び開戦となった。
翌年秀吉の死去により撤兵。豊臣氏の滅亡を早めたが、朝鮮活字の輸入による書籍印刷(活字印刷)、捕虜にした陶工による陶磁器の発達などをもたらした。
しかし、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱といわれて国土の破壊と社会の混乱を招いた。(日本史事典)

文禄の役では15万余の軍勢を送り、明の援軍とも戦った。遠征軍は九手に分けられ、黒田長政は大友義統と第三軍、毛利勝信は島津義弘などと第四軍、小早川隆景は小早川秀包・立花宗茂・高橋直次・筑紫広門とともに第六軍に編成された。
慶長の役では14万余を派遣したが、抗日運動が激しく、水軍も振るわず苦戦して、秀吉の遺言により撤退した。

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