承久の乱と後鳥羽上皇
年号 | 西暦 | 出来事参考 |
文治2年 | 1186 | 源義経追討の宣旨。鎌倉幕府成立。 |
3年 | 1187 | 源義経、陸奥の藤原秀衡を頼る。将軍と御家人の主従関係 |
1191 | 栄西、帰朝。臨済宗を広める。 | |
建久3年 | 1192 | 後白河法皇没。源頼朝、征夷大将軍に。 |
正治元年 | 1199 | 源頼朝、没。嫡子より家が家督相続。北条時政ら13人による合議制採用。 |
建仁3年 | 1203 | 頼家、病のため地頭職を子の一幡と弟実朝に譲る。 源実朝、将軍となり、頼家を修善寺に幽閉。翌年殺される。 北条時政、執権となる。 |
元久2年 | 1205 | 北条時政の子義時、執権を握る。 |
建保元年 | 1213 | 北条義時、侍所別当を兼ねる。 |
1214 | 後鳥羽上皇、笠懸をする。 | |
承久元年 | 1219 | 実朝、源頼家の遺児公暁(甥)に鶴岡八幡宮で殺される。 北条義時、公暁を殺す。源氏の正統、三代で断絶。 執権政治の確立。 |
承久3年 | 1221 | 後鳥羽上皇(第82代天皇)、幕府の中心北条義時追討の院宣を諸国の武士に発する。 承久の乱。上皇の思惑に反し、多数の武士は動かなかず、北条方に結集。 北条義時は、東海・東山・北陸の三道から大軍を京都に進ませ、宇治川の防衛線 を突破して入京した。 幕府軍は、鎌倉を発して1ヶ月足らずで朝廷軍を壊滅させて、京都を占拠する。 上皇方、惨敗。 |
承久の乱の後始末。 後鳥羽上皇の嫡孫仲恭天皇を退位させ、上皇の兄の子の後堀川天皇を即位させる。 後鳥羽上皇を隠岐(苅田御所)に移す。順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐に配流。 計画の中心にあった多くの貴族・武士を斬罪に。 上皇方の所領はすべて幕府が没収。 |
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承久の乱後の体制 北条義時の子泰時と弟の時房、京都に残って六波羅探題と呼ばれ、京都に残る。 探題は尾張以西の御家人を統括し、西国の行政・司法を行う。 |
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元仁元年 | 1224 | 北条義時、死去。嫡子泰時、執権に。 |
元仁2年 | 1225 | 北条政子、死去。 |
延応元年 | 1239 | 後鳥羽上皇、配流先の隠岐で死去。60歳。 遺骨は山城大原の西林寺に移され、後に大原の法華堂に安置される。 御陵は京都市左京区の大原陵と島根県海士町の火葬塚がある。(この項、背振村史) |
後鳥羽上皇関連系図 |