コラム 古賀 勝

      


【2024年04月21日更新】


ゴミ収集車に感謝

 福岡市内に住むボクには、週2度夜中に来るゴミ収集車に、感謝の言葉しかありません。狭い路地を走り回って、家の前に出した袋を回収するのですが、すぐ傍に眠っていても、機械の音や話し声で目が覚めたことは一度もないのです。市民のために静かにせよとのお達しかも知れませんが、ただただ頭が下がる思いです。(2024年4月21日)


移ろい

 待ちに待ったさくらが見頃になったら、すぐにどんより天気が続き、その次は土砂降り。とうとう花見も中途半端のままで終わりました。でもそんなに嘆くこともないですよ。ソメイヨシノは終わっても、入れ替わりに八重の里桜が優雅に開花しました。そして、我が猫額庭には真っ赤なアザレアが開き誇っています。
散歩中のお庭では、ぼたんの花が大口を開けて呼び込みをしていましたよ。通学路となっている家の前では、格好良く着飾った若いお母さんに手を引かれたピカピカの新1年生が入学式に向かって大急ぎ。昨日まで中学生だった子は、高校生になってすまし顔。立派な娘さんに早変わりしていました。

かくいうボクは、ただ今同窓会の準備で大わらわ。来年春には86歳になり、数えで88歳の「米寿」が待っているのです。季節の移ろいはよいのですが、こちらの方はもう少しゆっくりでお願いしますよ。(2024年4月14日)


さくらさくら

 物心ついてから今日まで、「さくらが咲いた」と聞くと、心が躍ったものだ。陽気のせいなのか、寒すぎた時節から抜け出した開放感なのか、そこはよく分からない。それでも家でじっとしていられないため、さくらを求めて、ついつい遠くまで足が伸びてしまう。
昨日もそうだった。気がついたら山に向かうバスに乗っている。上の方から降りてくる匂いに誘われているためだ。行けるところまで行ったら、そこは広大な団地の中だった。中庭に座り込んで、じっと花を見上げていた。団地の住民だろうか、主婦らしい人が怪訝な表情でボクを見下ろしていた。慌てて近くの小川に下りていった。山から下ってきた冷たさそうな流れに乗って、花筏が下ってきた。またまたそこで、何かを連想している。
「こんな遅くまで、何処に行っていたの?」とかみさんに睨み付けられた。(2024年04月07日)


地下鉄銀座駅

 久しぶりの東京旅行で、地下鉄銀座線に乗った。車両はそれなりに新しい。でも、発射時に流れる「銀座カンカン娘」には驚いてしまった。やむを得ないことかも知れないが、銀座駅ホームは、建設時からまったく変わることがない。狭いのである。ホームドアを備えたから、事故リスクは最小限になったかも知れないが、なんとかならないものか、小池さん。
明治維新から156年が経過している。表向きだけ化粧しても、そこは日本列島のど真ん中である。真に都民や日本人のことを考えて、まずは地下鉄銀座駅の改修をお願いします。(2024年3月31日)


メディアの差別意識か

 最近テレビニュースを観ていて気になること。殺人や強盗など凶悪犯罪からこそ泥・詐欺事件まで、犯人を特定するのに使われる用語のことである。
「○○を殺した犯人は、××会社派遣社員の▲▲であった」など、職業を区別するとき使われる言葉です。聞きようによっては、職務上の差別を、必要以上に強調しているようにもとれる。
そんなことを言わずに、「××会社の従業員」で括れば済むことなのに。どんな立場の人間でも罪を犯すことだってありうるのにだ。派遣社員やアルバイトであることに、不満を持っている普通の人々を傷つける代名詞や職業紹介はやめて欲しい。
差別を駄目だとキャンペーンを貼るテレビ局の人たち。もしかして、貴方自身が社員であることに優越感を持ち過ぎているんじゃありませんか?(2024年03月10日)


確定申告

 年中で一番嫌な時期がきた。確定申告のことだ。特に今年は、怒りと憂鬱が重なって、ストレスも最高潮。

2月29日と3月1日、国会では政治倫理審査会が開かれた。ここで最も話を聞きたい人、森喜朗と安倍晋三(この方は死亡して無理)、それに二階俊博、羽生田氏などである。が、ちゃっかり出席を拒否。呼びもしない岸田さんだけはご出席してなさる。
話を聞いていても、何をしに出てきたのかちんぷんかんぷん。国民は、1円単位まで細かく収支を記入して、領収書や証明するものを添付しなければならない。先生方は、何千万円であろうが何億円だって、政治活動費と書くだけで「領収書はいらない」んだって。冗談じゃない。みんな汗水垂らして働いて得たお金を、税金にとられているというに。
まったく当たり前のような顔をして、「秘書が…」「秘書が…」を連発なさる。確定申告が終わっても、この恨み忘れまいぞ。(2024年3月1日)


匂うが如く

 間もなく2月も終わる。我が家の猫額庭では、山茶花に始まり、勿忘草とか早咲きのスミレがぽちぽち咲いた。「春が来た春が来た」と口ずさむ。
次は、日本水仙が微笑んだ。間を置かずして紅梅・白梅が誘いをかけた。そして、強烈な香りを放つ沈丁花である。少し間引いて仏壇に飾ったら、「ケチケチしないで、もっとたくさん持ってこい!」と怒鳴る声。盆栽や植物が好きだった父親が、仏壇の奥から呼び止めたのだ。わかったよ、と返事して足したら、今度は「匂いがきつすぎる」と文句を言っている。
間もなく、黄水仙が咲くからさ、まっててよ、と断り言って逃げてきた。(2024年2月23日)


少しは日本の話もしてよ

 最近のテレビを観ていると、「オータニ、オータニ」のオンパレード。ボクだって、大谷君が嫌いなわけじゃない。だが、あまりにも偏りすぎていて、押しつけ過ぎていて、飽き飽きしているんだよ、ボクは。
大谷選手が嫌いな読者・視聴者だって大勢いるはずじゃないか。それより何より、日本のプロ野球はどうなっているんだい。ただ今、シーズンに向けたキャンプの真っ最中だっちいうに。「やっていますよ、ほかのことも」と、関係者から言い返されそうだが、そんなの最後にとってつけたように、「見せてやる」態度じゃ駄目だよ。
我がフォークスの仕上がり具合だって心配だし、野球以外のスポーツも知りたいよ。大谷君の愛犬がどうしたとか、キャンプ用の帽子を間違えたとか、そんなことを幾度も幾度も繰り返す。メディアの劣化具合がどうなんだって、繰り返す。言いたくはないが、アメリカ野球に興味のない日本人のために、もう少し番組編成を考えて欲しいな。そんなことやってるから、不人気の岸田さんが、「自分の趣味のため、わざわざ3月20日にソウルに出張する」なんて馬鹿なことを言い出すんだよ。(2024年2月16日)


一気に春期到来


2月8日 福岡城址の梅園

 2月に入ってからはっきりしない天気が続いていた。が、やっと雨雲が東に去った。さあいまだ!とばかりに家を飛び出して古城のお庭へ。赤白の梅花が咲きそろっていた。なんだか、遠い世界から今朝戻って来たみたいにきもちがいい。。風がないせいもあって、嘘のように暖かい。一気に春期到来である。
そうなれば、やりたいことがいっぱいある。まずは猫額庭の手入れだ。早く植えてくれと、草花の苗が呼んでいる。それから、書きかけの望東尼伝の現地調査も待ったなし。同窓生との再会もあるよ。何から手を付けるかと考え込んでいると、「あなた!」と後から機嫌のあまりよくない声が飛んできた。「何よりも、汚くなった窓を拭くことでしょう」ときた。急激に気持ちは酷寒の候に後ずさり。(2024年2月8日)


機種変更

 もう2月。つい先日新年を迎えたばかりなのに。それよりも、あの忌まわしい能登半島地震から1ヶ月も経過しているのには驚くばかりだ。

1月から2月の変わり目に、手持ちのスマフォを機種変更した。何か新しい発見でもあるのかなと思いきや、前の機種と変わることはない。相変わらず苦手な横文字・カタカナ文字のオンパレードで四苦八苦のし通しである。スマフォの役割は?と問われれば、結局、連れ合いとの間の連絡手段以上の役目は少ない、と答えるしかない。
それでも、毎日の万歩計と血圧記録、「マップ」などは、欠かせなくなっているじゃないか。もう少し勉強して、Myスマフォのありがたみを手にしなければね。2月は、花見の場面での活躍を期待しましょう。(2024年02月04日)


懐かしい別府マラソン

 2月が近づくと思い出すのが大昔の別府マラソンのこと。小学校から高校まで一緒した中尾隆行君が、高校生ながら出場して、いきなり4位入賞したのだから、新聞もラジオも大騒ぎ。マスコミだけじゃなかった、母校の中学校も高校も、「信じられない」の連発だった。
ボクも実況をラジオで聞いていて、興奮しまくった。荒木(出身地三潴郡荒木町)に帰ってきたら、みんなでお祝いしようと待っていたら、なんと中京大学の梅村学長までご一緒なされたから更にびっくり。結局彼は高校(久留米商業高校)卒業後、名古屋の中京大学に引っ張られてしまった。あのときのタイムがどんなものだったか忘れたが、彼も期待されながら東京オリンピックには出場できなかった。(2024年01月28日)


  旧友との別れ

 散歩から帰ったら郵便箱にはがきが1枚。遅ればせながらの年賀状かと思ったら、寒中見舞いだった。ああその時期だと本文を読んで肩を落とした。中学時代の同級生T君が亡くなったとの知らせであった。差出人は奥様。昨年12月に亡くなったと書いてある。年賀状が来ないなと思っていた矢先の悲しい知らせである。

彼(T君)とは、中学時代に陸上競技部でしのぎを削った仲である。同じ800bリレーのメンバーで、T君は3走、ボクはアンカー。平和台陸上競技場でのリレーカーニバルに始まり、三潴郡大会、筑後地区大会、そして福岡県大会と、負け知らずでついに頂点に達した。1走のI君(10年前に死去)がスタートダッシュで他校を押さえれば、2走のY君と3走のT君が引き離す。最後はボクが逃げ切る。念のためであるが、当時中学校の大会では、「県大会」が最高の対外試合だったから、最高峰なのである。
試合のことばかり書いたが、実はそこに行き着くまでの練習が大変だった。試合に出るにも、ユニホームがない。部活担当の先生が不祥事でいなくなる。基本を教える監督もいない中、キャプテンのボクを中心になって、練習練習、朝から晩まで、土曜日曜もなしに走り続けた。腹が減ったら自分たちで作った畑で採れたサツマイモをかじってグラウンドへ。先生や父兄からは、学業を放り出しての稽古に問題ありと叱られたことも数知れず。

思い出せばきりがないが、中学卒業とともに陸上から遠ざかったボクは、いつも「これでよかったのか」と悔いることばかり。そんなときT君は、「よかくさ、俺もサラリーマンでがんばるけん、おまえも頑張れ」と励ましてくれた。その頃1走のI君は10年前に鬼籍に入った。今度はT君。寂しいなあ。おれも間もなくそっちに行くけん、とは言うものの、やっぱり皆で生きていたかったなあ。(2024年01月14日)

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