久商同窓会紙に寄稿文「図南の翼」が掲載されました。

 

シリーズ「久留米商人魂」A
近江商人と久留米の商業

 徳川慶喜による大政奉還の上表から王政復古の大号令、さらには日本国中を内戦に巻き込んだ戊辰戦争の勃発など、明治維新前夜の久留米での出来事でした。
 通町でかすり屋を営む青年に、行商中の近江商人が「久留米絣を1万反調達してくれ」と頼みます。頼まれた青年とは、後に“機業王”とうたわれる国武喜次郎です。
 かすり売りになってわずか4年しかたっていない青年にとって、1万反とは途方もない数量でした。広い筑後平野の農家を訪ね歩き、主婦らに機織りを頼みこみました。未だ藩の外に出て自由に商売ができなかった時代です。それでも喜次郎は、幕末までにかすり4万反を揃えたといいます。写真:旧国武商店の蔵に彫られた屋号「魚喜」
 喜次郎の腕を見込んだ近江商人は、長州(山口県)と長崎の問屋を紹介します。さらに、大阪と京都にある大手太物問屋(絹織物を呉服といい、木綿・麻織物を太物という)に引き合わせると、1万反、2万反といった単位で注文がくるようになりました。そうなると、これまでのように、主婦や娘が農業の合間に綿を紡ぎ、糸を染め、窮屈な居座り機(いざりばた)で、何日もかけて織る方式では間に合わなくなります。
 喜次郎は、琵琶湖の東岸を訪ねました。日本全国を股にかける近江の商人に、上布(麻織物)の織り方や商いのあり様を学ぶためでした。名古屋地方の「佐々機」や愛媛地方の「伊予機」など、優れた織機と技術を積極的に取り入れました。また、大阪や岡山の紡績所に赴いては、大掛かりな蒸気機関による紡績機械から産み出される原料糸を大量に確保しました。写真:明治期に建てられた国武の倉庫
 東京上野で開催された内国勧業博覧会に久留米絣を出品して、全国の業者に売り込んだのも、販路を飛躍的に拡張するためでした。
 久留米絣が、押しも押されもせぬ全国ブランドに格付けされた明治20年から30年代にかけて、年間生産量が100万反を突破します。これら明治期の商人の活躍が、「商都久留米」の出発点になったのです。
 福岡県下で最初の商業学校として明治29年に開校した久留米簡易商業学校(久商の前身)は、国武のような優れた商人(あきんど)を育成するために創設されたものです。(敬称略)


行商中の近江商人

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