【2016年06月01日】

くるめんあきんど
会場:西日本文化サークル(久留米市リベール内)
主催:久留米水曜会
受講人数:約30人

講演要旨


維新後取り壊し前の久留米城本丸

久留米という町

「久留米市中は開けたね  三本松は陽気だね  諸品買うのは集産場  通じの早いは電信機、郵便、活版便利だね  界紙の機械は竹彦で  呉服反物安売りは、荒甚、森新、古賀勝か  国産かすりは赤松社  地縞のよいのは小川トク  槌屋の足袋は丈夫だね  音に名高いかすり店、魚喜に松屋に福童屋  綿太もこの頃大繁盛、オッペケペ、オッペケペ、オッペケペッポウ、ペポーポン」
明治22年当時に久留米市内で歌われたはやり歌である。
「竹彦」とは、金物商の今村彦平商店(屋号は竹の屋)を指す。「界紙」とは罫紙のこと。綿太は、木綿太物の略である。

 久留米は、明治維新を挟んで、それまでの城下町が短時日の間に県内有数の商業都市に生まれ変わった町です。維新以前は、食べ物・衣服・雑貨・農機具など日常的な衣食住と作業に必要なものを製作・販売する商いと祭事や法事などに関するものの他は、特に目立った商いや産業は見えません。
(例)周囲に海がないから、大規模漁業は無理。
越中富山の薬とか陶磁器産業・観光なども見当たらない。神社仏閣等。
維新のあと、いったいどんな環境のもとにどんな人たちの働きがあって、「一夜にして」商業都市が出来上がったのでしょう。

芽吹き

 その中でも、江戸時代に辛うじて他藩まで知れ渡っていた産業といえば、久留米絣くらいです。そのかすりにして、幕末になってようやく藩の特産品に指定され、「久留米絣」の名称が確定したのです。 
 久留米絣の起源を造ったのは、城下町(通外町)にあって、家計の手助けにと始めたはた織り娘・井上伝です。生まれたのは、明治維新(1868年)から遡ること丁度80年前の天明8年(1788年)です。女史が亡くなったのが明治2年(1869年)82歳ですから、幕末の80年間を目撃した生き証人ということになります。
 井上伝が久留米絣を考え完成させたのが、13歳時の1800年(寛政12年)でした。別話だが、伝の家の目と鼻の先の櫛原で、高山彦九郎が自殺しています。そこから、時代は倒幕の機運が燃え盛る混乱の時代に突入するのです。
 彼女のはた織り技術を助けたのが、福童屋・松屋など問屋とか機屋・紺屋などの職人で、からくり儀右ヱ門もその一人です。
 維新後、国武喜次郎は井上伝のかすりをほぼ独占的に扱っています。彼は維新直前に、井上伝から版木をいただいて、親代々の魚行商からかすり売りに転身しています。
維新前夜には、黒船来航や藩の緊縮財政の中にあっても、あきんどの卵たちは辛抱強く出番を待っていました。
 倉田雲平(足袋)、野村生助(活版印刷)、山本平四郎(洋食屋・牛・豚肉店)などは、近代的商いを学ぶべく長崎に出向きました。大工の棟梁宗野末吉は、藩主有馬頼威の後押しもあって、横浜で時計修理の技術を学びました。久留米つつじを世に広めた赤司喜次郎は、入院中に窓辺に飾った花卉にヒントを得て、植物の交配を思いつきます。これが後の、久留米つつじの成功につながるのです。

明治維新後

 維新前後の都や城内は、天と地が逆さまになるほどの渦の中にありました。
一方城下にあって修業を重ねた若者らは、文明開化の匂いを嗅ぎながら、好機至ると広い世界に打って出ます。
 倉田雲平(足袋製造販売)・宗野末吉(西洋時計販売修理)・石橋徳次郎(仕立屋)・赤司喜次郎(花卉販売)・国武喜次郎(木綿売り)・中村勝次(写真館)・野村生助(活版印刷)・川崎峯次郎(籃胎漆器)・山本平四郎(西洋料理・精肉店)らが、修業を終えて動き出し、かつて三本松や通町などで幅をきかせていたベテランあきんどたちの間に割って入りました。
 以上のほとんどが、明治6年(1874年)にスタートしています。奇しくもこの新年から、暦が旧暦(大陰暦)から新暦(太陽暦)に変更された年と重なります。
中でも、国武喜次郎は、近江商人の影響を受けて、一気に全国区の商人に名乗りを上げました。

国武喜次郎の飛躍

 魚屋から木綿売りに転身した国武は、1反、2反を売り歩く行商から身を起こし、農村部の婦人方に浸透していきました。近江商人の鍋屋と鶴屋に請われて、突然1万反のかすりを調達することになります。宿題を成就するためには労働力と原材料の調達を満たす苦労を重ねなければなりません。大商人への一歩は、その苦労から始まったのです。
 久留米城下から飛び出した国武は、藩領内から九州全域に、更には山口県から広島県まで走りまわりました。
 近江商人から大阪と京都(鶴屋)の太物問屋を紹介された彼が、全国区の商人にのし上がっていくのに、10年も要していません。

文明開化とくるめんあきんど

 明治維新後、新政府は、西洋の文化と産業を積極的に取り入れました。
早くも明治4年には、新橋・横浜間に鉄道が敷かれ、同じ年にイギリスの技術を採用した富岡製糸場が操業を開始しています。その直前には、鹿児島紡績所に次いで堺紡績所も。特に玉島紡績所は、久留米の木綿産業に大きく貢献しました。
 鉄道に次いで、全国を網羅する通信と全国一律料金の郵便制度も。
 維新とともにスタートを切った久留米商人たちは、これらの文明開化の風を巧みにとらえる知恵を有していたといえます。からくり儀右ヱ門(田中重久)や江戸からやってきた小川トクも、井上伝死後の久留米の木綿産業を飛躍させるために大いに貢献しました。

西南戦争の光と影

 順風満帆だったはずの久留米の商人たちも、明治10年に勃発した西南戦争で、完膚なきまでに叩きのめされることになります。
 久留米のあきんどたちは、西南戦争をさらなる飛躍のための絶好期と捉えて動きました。倉田雲平は大量の足袋と被服を、国武喜次郎はかすりを、宗野末吉は5000個もの高級懐中時計など、大方の商人が軍需品を軍に納めて大金を手中にします。
 また戦争帰りの兵たちにみやげ品を売ることで、町は一気に活気づきます。
 味をしめた倉田・国武らは、無茶な商いに打って出ました。倉田は、有り金すべてをはたいた上に、仕入れた品物が屑に化し無一文になります。戦争帰りの兵たちに粗悪品を売りまくったかすり業者は、全国の問屋や消費者から総すかんを食って、培った信用を一瞬にして失うことになりました。
 久留米商人にとって最大のピンチは西南戦争にあったのです。

危機をチャンスに

 久留米商人が背負った最大のピンチと信用失墜は、内国勧業博覧会など新政府が推し進める近代化を取り入れることで逆転に導きます。
 紡績糸の採用、同業組合の発足、織替え制度の廃止とマニュファクチュア(工場制手工業)、自動織機の導入など、近代化へ一気に駆けあがっていきました。縄手から荘島・松ヶ枝・白山などに一大工場地帯が出現するのはこの頃からです。
 短期間での改革には副作用も伴いました。職工らのストライキなどがそれです。国武らは一時の足踏みを甘受せざるをえませんでした。
 国武は、琵琶湖の自然資源を取り入れた近江商人から「三方良し」の商魂を学びました。機織りや染色の合理化、堺紡績・玉島紡績への積極的参入などがその一例です。
その間に、久留米では洪水や日清・日露戦争も重なりますが、七転び八起きの精神でかすりの生産はうなぎ上りに飛躍しました。
 国武らが立ちあがった明治6年時、総出荷量がわずか6万反だった久留米絣が、久留米縞との相乗効果もあって、明治の終わりには100万反を突破するまでに飛躍したのです。
 明治22年の市制施行と九州鉄道の開通は、倉田の槌屋、石橋徳次郎と息子(重太郎・正二郎)兄弟の嶋屋など、木綿の次のゴム産業の台頭を誘発して、久留米が城下町から筑後地方の中軸をなす商業都市へと変貌していくことになります。
 因みに、現在久留米の花形であるゴム産業(地下足袋・革靴・タイヤ)が、かすりや縞織りを抜いて生産高のトップに立つのは、それから30年後の大正9年のことです。

筑紫次郎の世界のURL
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga

w

目次へ    表紙へ