伝説紀行 羽金山の埋蔵金 佐賀市(富士町) 古賀 勝作


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作:古賀 勝

第340話 2008年11月02日版
再編集:2011年07月03日 2015年8月 2018年06月17日

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。

 

刈萱物語
父恋しや石動丸

大宰府市・福岡市・朝倉市(杷木町)


旧往還脇に建つ苅萱の関碑

 大宰府周辺を散策していて、「苅萱の関」跡なる石碑を見つけた。聞き覚えのある名詞だと考え込んでいたら、遥かむかしの祖母の柔和な顔が現れた。 明治7年生まれの祖母の実家は、水城土塁のすぐ近くだったそうである。苅萱の関跡のすぐ近くだ。その祖母は、大宰府あたりの言い伝えを、孫の私によく話してくれた。「石動丸」も、彼女の持ちネタの一つ。
 父を慕って病弱の母と二人して高野山に登った幼い石動丸。女人禁制の山なれば、母を山下の女人堂(にょにんどう)に残し、一人で聖地に登って行った。


高野山金剛峯寺

 金剛峯寺(こんごうぶじ)近くでお坊さんに父の消息を尋ねると、「そのお方なら、亡くなりました」との返事が返ってきた。泣く泣く麓で待つ母の元に下りていくと、母は既にこの世の人ではなかった。
 この悲話の基は、能や仏教説話、浄瑠璃(じょうるり)、琵琶(びわ)などで有名な苅萱道心(かるかやどうしん)」だそうな。祖母は、子守唄代わりに話してくれ、僕も何とはなしに聞いていた。そんなむかしの思い出の中の「カルカヤ」が、突然目の前に現われたのだから、伝説紀行作者としては放っておけない。
 自分が祖母の年齢になって、初めて蘇る祖先ルーツの口承文化を探す旅となった。

何故捨てた、妻と子を

 時は平安時代の終わり頃、崇徳天皇の時代(11231141年)である。ところは、高野山の麓の学文路(かむろ)の宿で、母の千里と息子の石動丸が、深刻な表情で語り合っている。
「石動丸よ、お父上の現在の名前は、『苅萱(かるかや)』と言う。必ず見つけだしてこの宿まで連れてきてたもれ」
 母は、幼な子一人で入山させることに不憫を感じながらも、厳しく言いつけた。
「母さま、私はもう10歳です。このくらいの山なら平気で登れます。私とて、母さま以上に父さまに会いたいのですから。それより、母さまのお体は大丈夫ですか?」
「そなたの父に会うまでは、どんなことがあっても死ねぬわ」
 この母子、ひと月前に筑紫国の坂本村(現福岡県大宰府市)を出立した。もともと心の臓に持病を持つ母の千里は、旅の途中で何度もしゃがみこんだ。その都度息子が心配して、「坂本に戻りましょう」とすすめるが、母は、頑として聞き入れなかった。
「何としてもそなたの父さまに質したいのじゃ。どうして、妻と子を捨てて出家されたのか、その理由(わけ)を・・・」
 風の噂では、京で法然上人(ほうねんしょうにん)の教えを受けた後、高野山に登られたとか。千里の夫とは、加藤左衛門繁氏(かとうさえもんしげうじ)のことで、苅萱の関守(せきもり)の職にあった。苅萱の関は、大宰府を護る大切な関所である。
 側室の身でありながら、正妻と何の分け隔てなく愛してくれる夫に感謝し、心から尽くしてきたつもりである。そして、間もなく臨月を迎えようとする矢先、繁氏は姿を消した。

幼児、単身高野山へ

 あれから10年、繁氏失踪直後に誕生した石動丸も、立派な少年に成長した。千里は、この時を待っていたように、息子の手を引いて坂本村を旅立った。山坂を越えての長旅も、「もう一度繁氏殿に会いたい」との、千里の強い意志があったればこそであった。
 しかし、高野山は女人禁制である。千里は息子に、父を学文路(かむろ)の宿まで連れて来るようよくよく言いつけて送り出した。学文路は、紀ノ川近くに位置する。石堂丸は、未だ10歳の子供である。見上げるほどの急坂を杖を頼りに登っていった。


高野山奥の院

 半日かかって高野山を登ってきた石動丸は、まず金剛峰寺の主殿に額づいた。高野山は、弘法大師(空海)が開いた真言密教の聖地である。石動丸は、まだ見ぬ父上に会わせて下さるよう、ご本尊の如来さまに向かって何度も頭を下げた。


高野山刈萱堂


 全山に100以上の寺を有する高野山である。疲れた体に鞭打ちながら、筑紫国縁(つくしのくにゆかり)の「苅萱」の名を持つお坊さんを尋ね歩いた。

父の懺悔を聞かされて

「そのお方なら
 奥之院の無明(むみょう)橋の上で、石動丸の問いに立ち止まった30歳半ばの背の高いお坊さんが応えた。
「親しくしていたお坊さんだったが・・・。昨年の秋、風邪をこじらせて亡くなられました。わざわざ訪ねて来られたのに、・・・お気の毒に」
 石動丸の全身から力が抜けた。その時、お坊さんの表情が険しくなったことに、少年は気がついていなかった。
「父のことをもう少しお聞かせください。父さまは、生まれ来る私の顔も見ないまま、何故に坂本の家を出てしまわれたのでしょう?そしてまた・・・
 うつむいたままで聞き入るお坊さん。
「心からお慕いしている母上をも、捨てられた理由を知りたいのです」
 すがる石動丸に、お坊さんは地面を見つめたままで答えた。
「あのお方・道心さまは、自分が犯した罪に耐えられなかったのだと・・・」
「道心と言われるのですか、父上の名前は。その父が犯した罪とは・・・?」
「そう、道心は出家後のお名前じゃ。大野城(福岡県)の城主の子に生まれ、ご養子先の加藤家でも将来の出世が約束されていた。しかも賢い妻と美しい側室までおいでになった。何の不自由もない毎日であったのだが・・・
・・・・・・」
 繁氏が政庁での花見の宴を済ませて帰宅すると、妻と側室の笑い声が玄関先まで聞こえた。ところが、障子に映る2人の影を見て動転した。
 逆立った黒髪の1本1本が、真っ赤な口をあけた蛇であり、2匹の蛇は絡み合いながら、お互いの喉笛に喰らいつこうとしている。
 呆然として立ち尽くす繁氏が我れに返ったとき、屋敷から離れた水城の土塁のそばに立っていた。


写真は、水城土塁史蹟

「苅萱道心さまは、それまで奥方と側室が憎みあい妬みあっていることなぞまったく気がつかなかった。それだけに、己の罪の深さを悟っておられたのじゃな。何の罪もないお子にまで、苦労をかけていることを悔いながら、道心殿は昨年秋に亡くなられました」

戻ってみれば、母は冷たく

 お坊さんの話を聞き終わって寺を出る時、「石動丸とやら、・・・して、そなたの母御は達者か?」と、問われた。
「はい、ただいま、麓の学文路の旅籠で父をお連れする私の帰りを待っております」
 思わず崩れ落ちそうになる石堂丸の体を支えるお坊さん。
「くれぐれも体に気をつけて、坂本村に帰りなされよ。それから、母上にはいつまでも孝行を惜しむでないぞ」
 石動丸は、意識して振り向かず、高野山の長い急坂を下っていった。賢い読者の皆さんなら既におきづきであろう。石動丸に父の死を告げたお坊さんこそ、実は父親の加藤左衛門繁氏だったのである。
 父との再会を果たせないまま戻ってきた旅籠で待っていたのは、冷たくなった母の亡骸(なきがら)であった。「母さま、母さま」、どんなに叫んでも、目を覚ますことのない母の寝顔。長旅がよほど辛かったのであろう。しかし、血のひいた唇は、悩み苦しんでいた生前と違い、微笑んでいるようにも見えた。女人禁制の山の上で、息子と対面した時の夫の告白が、霊により伝わったのだろうか。
 未だ10歳の石動丸には、そんな大人の心の揺れが理解できるわけなどなかった。

子もまた仏門に

 最愛の母をなくした石動丸は、再び高野山を目指した。あの親切なお坊さんに、弟子入りを願うためである。お坊さんも、「せっかくだから、愚僧はそなたの父の名をいただいて、苅萱道心を名乗ろう」と言い、快く弟子入りを許した。(完)

 筑後川のほとりの建立寺(朝倉市杷木町)には、母千里が詠んだという和歌一首と片身の念持仏が石動丸の遺品として残されているという。石動丸が高野山から下りてきて、母の亡骸と対面したとき、宿の主人に託したものだそうな。
念持仏:日常念持し礼拝する仏像

 苅萱道心は、石動丸を弟子に迎えた後、父子の名乗りをしないまま二人で全国を行脚し、信濃の善光寺に落ち着いた。その寺が今日に残る西光寺だとか。その西光寺には2体の地蔵尊が安置されている。道心と石動丸の合作だとも伝えられる。
 さて、またまた話を遠いむかしに亡くなった祖母の息づかいに後戻りする。
「父ちゃんは、我が子とわかりながら、どうして本当のことを言わなかったか、おまえならわかるじゃろう、もう立派な大人じゃから」と、祖母が私の両肩を掴んで問うているような気がする。

「苅萱物語」のスタートは、福岡市博多区を流れる御笠川(2級河川)河口付近の石動丸橋付近にある。どうしても実子がほしい加藤繁昌は香椎宮に願をかけ、満願の日に大切な石を授かった。すると、間もなく妻が元気な子供を産み落とす。喜んだ繁昌は、その子の名前を「石動丸」とつけた。


三笠川ほとりに建つ石動地蔵堂

 御笠川には、「石動丸橋」が架かっている。その側には地蔵堂が建ち、石動地蔵尊が祭られている。ここは、実に苅萱石動丸の国民的伝説の発祥の地なのである。(苅萱道心行状記より)

苅萱の関

平安期から戦国期に見える関名。筑前国御笠郡のうち。「刈萱関」とも書く。「新古今集」に菅原道真の歌として、「苅萱の、関守にのみ見えるつは、人も許さぬ道辺なりけり」とあり、10世紀初頭には大宰府での流罪の身を歌にしているので、これ以前から大宰府の関所として設けられていたものと推定される。
大宰府から博多に通じる交通の要衝。
当関は古来より歌枕として知られ、説教や謡曲の「苅萱」に登場する苅萱道心もこの地の人と伝えられる。
文明12年(1480)、当関を通った連歌師宗祗(そうし)は、「筑紫道記」に、「かるかやの関にかかる程に関守立ち出て、我行末をあやしげに見るも怖ろし、数ならぬ身をいかにとも事とはばいかなる名をかかるかやの関」と記している。
「続風土記」には、「通古賀村の城内、宰内往還の道の西の側に其址(そのあと)あり、世に天智天皇の時、置れける関なりといふ」と見え、現在大宰府市通古賀の関屋に「苅萱関跡」の標識が立っている。(角川地名事典)

 このたび、3度目の高野山詣でを二人の孫と一緒に果たした。主な目的は、お世話になったお方の墓参りであったが、お話の「苅萱堂」を訪れたのは初めてのこと。お堂には、線香の匂いがたちこめていて、壁には紙芝居風に石動丸の物語が紹介され、雰囲気十分の空間であった。高野山に参ったから、次は長野善光寺にある西光寺のみが残る。元気なうちに、こちらも訪ねて満願を果たしたい。
お祖母ちゃんに聞いた石動丸を、孫に引き継ぐことができた。さて、祖父ちゃんから聞いた石動丸の話を、二人の孫は誰に話して聞かせるのかな。

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