伝説紀行 花月の座り石  添田町(英彦山)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第255話 2006年04月30日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

彦山の七つ隠し

「花月の座り石」由来

福岡県添田町


花月の座石(ざせき)

 旅僧(ワキ)「あら不思議やこれなる花月をよく見れば、それがしが童にて失ひし子にて候はいかに、名のって逢はばやと思い候。いかに花月に申すべきことの候」
花月(シテ)「われ七つの年彦の山に登りしが、天狗にとらわれてかように諸国を巡り候」

 これは、室町時代の世阿弥元清が作った代表的な謡曲「花月(かげつ)」の一節である。物語の舞台となる英彦山は、筑後・肥前・肥後・日向など、大名から農民までの幅広い層から篤い信仰を集めた山であった。
 英彦山周辺では、子供が7歳になる頃に、よく神隠しに遭うことから“七つ隠し”と呼ばれた。子供を隠すのは天狗だと言われ、恐れられた。「花月」は、その代表的例として語り継がれ、能狂言の題材ともなったのである。
 長い急階段を登り詰めて、間もなく英彦山神宮の奉幣殿が見えてくるあたりを左折する。修験道館に続く細道の脇に、平べったい巨石が転がっていた。この石、龍子(花月の幼名)が天狗に浚われる直前に座っていたと言われることから、花月の座石と名づけられた。写真は、道の駅ひこさんの天狗

清水寺で喝食が踊っている 

 時代を仮に鎌倉時代とする。季節は2月(旧暦)の桜真っ盛りの頃。丁度桜が真っ盛りの2月(旧暦)の頃であった。


晩秋の英彦山


 一人の旅の僧が産寧坂(さんねんざか)の長い石段を登ってきた。音羽山清水寺(京都)に願をかけに行く途中であった。それがこの男の癖なのか、考え込むように眉を寄せて俯(うつむ)き加減に一段また一段と力を込めて足を運んでいる。
「喝食かっじき)だ!」、そばにいた幼子(おさなご)が、母親の手を振りほどいて駆け出した。喝食は、清水寺の縁起を小唄にして、面白おかしく踊っている。
「花月の喉(のど)は、やっぱり日本一やで」、「いやあ、なんたって、身振りががええなあ。女にしたいぐらいの男前や」。
 立ち止まって見入っている男と女がしきりと感心している。
 つられて覗き込んだ旅僧の目が、踊る若者の一挙手一動に釘付けにされた。
「もしや、もしや? 清水観音さんのお導きではあるまいか・・・」

産寧坂:京都の清水寺に通じる二年坂と清水坂の中間の石段の道。安産祈願で知られる子安観音への参道だったことからつけられた名前。転ぶと3年で死ぬと言われることから「三年坂」ともいう。

謡曲:能楽の詞章。また、その詞章を謡うこと。能の謡い。

喝食:本来は禅寺の食卓に侍して、いろいろな命令を伝達する少年。禅学修業の候補生のような者を指す。身分は、禅宗の修行者である。

生き別れの我が子なり

「そなたの生国は?」
 観客が立ち去った後、旅僧は舞い終えた若者に問いかけた。
「花月」と名乗る喝食(かっじき)は、案の定、彦山麓の津野村で生まれ、幼名を龍子だと答えた。
 佐藤左衛門と名乗る旅僧は、「自分も豊前の津野村で、地頭を勤めていた」のだと告げた。
 待ちに待った男の子が産まれて7年たったある日、息子は学び舎の霊仙寺に登ったまま行方がわからなくなった。左衛門は、近所の住神社に願をかけたり、村人を総動員して山中を捜したりしたが徒労に終った。


高住神社境内の紅葉


 彦山の政所坊(まんどころぼう)近くの路傍の石に腰をかけて休んでいるところを見たと言う、村人の証言を得た。そこには、龍子の大事な硯が残されていた。写真は、天狗神といわれる高住神社
「もしかして・・・。豊前坊(彦山脇の高住神社)天狗神(てんぐのかみ)ち言うじゃなかですか。だから・・・、お坊ちゃまは天狗に連れて行かれたとか」
 村人が持ち出した“天狗の七つ隠し説”が出たところで、捜索は打ち切られることになった。しかし、諦めきれない左衛門は、地位も家族も捨てて出家し、全国行脚の旅に出たのだった。13年前のことである。

霊仙寺:神仏習合時代、もともと「霊山」と称していたものを「霊仙寺」と改めた。九州一円を檀家とし、四方七里を寺領にあて、3000の宗徒を置いて天台の教えを学ばせた。現在も参道下の銅の鳥居そばに寺がある。

浚ったのは「天狗神」なり

「私が連れて行かれた13年前までのことは、微かに覚えております」
 縁台に並んで座った若者は、左衛門を向いて静かに語り始めた。
 物心ついた頃、龍子は、広い地頭屋敷で何不自由なく暮らしていた。父親の勧めで、霊仙寺に学問を習いに行くことにもなった。
 そんなある日、習い事を終えて帰り道、岩に腰をおろして休んでいるところを天狗に浚われてしまった。
「都に着いて、義理の父親から、厳しく小唄や踊りを仕込まれました。その義父も昨年他界して今では天涯孤独の身でございます」
 若者は、寂しさを紛らすかのように目を伏せた。
「おお、そなたは間違いなく我が子じゃ。清水の観音さまへの願いが通じた」
 左衛門は、顔中涙でくしゃくしゃにしながら、夢に見てきた我が子を抱きしめた。

父子してふるさとに戻る

 13年ぶりに対面した父子は、揃って都をあとにした。二人を巡り会わせてくれた仏さまへのお礼の旅であった。そしてようやく津野村にたどり着いたのは、それから1年後のことであったという。


英彦山境内の小路


 英彦山麓の津野村(現福岡県添田町津野)には、かつて左衛門の屋敷跡(花月屋敷跡ともいう)と言われるところがあったそうな。(今は跡形もないが)
 物語に出てくる「彦山の七つ隠し」は、この地方の俗信で、「遅くまで外で遊んでいると天狗に浚われる」という親の躾の文句であろう。

 英彦山は、豊前・豊後・筑前の境界線が交差するところ。従って、英彦山参りのルートもさまざまである。今回は「筑前ルート」つまり、大分自動車道の杷木インターを降りて、小石原から入山した。
 何度も通っているうちに、茶店の主人ともすっかり馴染みになった
(こちらが勝手にそう思っている)。「花月」のことを訊いたら、座り石の場所を詳しく教えてくれた。生まれたばかりの清水が地面を濡らしていて、座り石も真っ青に苔むしていた。
 直線距離で1里麓の津野村
(現添田町津野)から、数え年齢7歳の子供が一人で登ってきて学問に励む姿を想像してみる。700年むかしから、親はやっぱり教育熱心だったんだ。でも、そのために子供が神隠しに遭ったとなれば、どんな苦労も厭わずに捜し回るのか。北朝鮮による拉致被害者の親兄弟が、あらゆる犠牲をモノともせずに救出運動をしていることと重なってしまう。
 それにしても、急階段の参道と並行して、モノレールが設けられているのには参った。厳かな霊山も、観光客が気軽に来てくれなければたっていかないということだろうか。

「英彦山」「彦山」の使い分け

英彦山の略歴
大昔英彦山のことを、祭神が天照大神の子供である天忍穂耳命であることから、「日の子の山」「日子山」と呼んでいた。
弘仁10(819)年、詔によって「日子」を「彦」に改める。
享保14(1729)年、院宣により「英」の字をつけ「英彦山」となった。(この時を境に「彦山」が「英彦山」に変わる。
中世以降は神仏習合により修験道場「英彦山大権現霊仙寺」として栄えた。
明治維新時の神仏分離令により英彦山神社となる。
戦後、全国3番目の「神宮」に改称、英彦山神宮となった。
祭神天忍穂耳命は、農業生産の守護神として崇敬されてきた。


謡曲がもとになってできたと思われる伝説として、これまでに「第2話 綾の鼓」「第99話 蝉丸塔」、「第252話 熊谷淵」などを紹介してきた。
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