伝説紀行 絹巻観音  神埼市(脊振村)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第216話 2005年07月10日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

絹巻の里の観音さま

原題:絹巻観音

佐賀県脊振村


絹巻の里の佇まい

 脊振村鳥羽院地区を再び訪ねた。同村を源にして筑後川に注ぐ城原川(じょうばるがわ)に、国が巨大ダムを造るという。そうなれば、愛してやまない日本の原風景がまた一つ消え去るわけで、今のうちにこの目に焼き付けておかなければならないからだ。
 それにもう一つ。この地の観音さまに願をかけると、親不孝者が孝行者に生まれ変れるとも聞いた。「孝行したい時に親は無し」を痛感している筆者にとって、見過ごせない仏さまである。

継母に虐められ

 天正の時代(1573〜92)。鳥羽院村にやよいという女の子がいた。年齢は10歳で、父と継母と生まれて間もない弟の4人で暮らしている。実の母には物心ついてすぐに死に別れた。
 継母のヨシは、やよいを家事から畑仕事、休む間もなく弟の子守りとこき使った。やよいは、辛くなると裏の納屋に隠れて絹糸を紡いだ。紡ぎは、遠いむかしに亡くなった母の思い出に繋がっている。
「またこげなとこで…」
 納屋にいるところを継母に見つかってしまい、強引に赤ん坊を背負わされた。
「坊やのお守はどこへ行った あの山越えて里へ行った 里のみやげに何もろた。でんでん太鼓に笙の笛 起き上がりこぼしにふじ太鼓 叩いて聞かせよねんねしな」(背振地方の子守唄)
 物心ついた頃、優しかった生みの母が歌ってくれた子守唄を、背中の弟に歌って聞かせる。そのたびに小さな目から涙が零(こぼ)れ落ちた。

見知らぬ女に援けられ

 そんなある日、眠っているはずの赤ん坊が這い出して、土間に転げ落ちる事件が起きた。火がついたように泣く赤ん坊に興奮したヨシが、やよいを放り出してしまった。秋も深まって、背振の山中に吹く風は冷たかった。やよいは、実の母の名を呼びながら彷徨(さまよ)った。追い出される時持ってきた母の形見の絹糸巻を握り締めて。歩き疲れて道端の石に座り込んでいるうちに、眠り込んでしまった。
「目が覚めたかい」
 気がつくと知らない家の布団に寝ていた。にっこり微笑みながら覗き込む女の優しさと、それまでに着たこともない布団の温かさに生まれ変った心地であった。
「ここはどこ?」
「服巻(はらまき)というところさ。あのまま寝込んでいたら凍え死ぬところだったよ。この絹糸巻はおまえのおまじないかい?」
 女は、やよいが眠っても離そうとしなかった糸巻を見ながらまた笑った。

継母を実の母と思え

「・・・しばらくここにいるんだね」
 女はやよいのこれまでの苦労話を聞いた後で、いっしょに暮らすことを勧めた。
 服巻での星霜は移って、10歳だったやよいは娘盛りの20歳に成長した。
「もういいだろう、おまえも立派な大人になったんだから。…帰るんだよ、自分の家に」
 ある日突然女が切り出した。そんなことを言われても自分は継母に家を追われた身、帰るところなどありゃしない。不安げなやよいを見て女は言う。写真:後鳥羽院集落
「大丈夫、それだけの機織りの技量と人間としての行儀を心得ていれば、立派に生きていけるさ。ただし…」
「……」
「いつまでも死んだ母親にばかりこだわっていちゃいけないよ。これからは、継母(かか)さまを本当の母さまだと思って孝行するんだ、わかったね」
 女は、別れを惜しむ弥生の背中を押した。

親切な女が消えた

 額の皺が深くなった父が、10年ぶりに帰ってきたやよいを迎えた。後ろに立っている継母のヨシと腹違いの弟が、身の置き場に困っている。
「お母さん、私が悪うございました。これからは、お母さんに孝行しますから許してください」
 やよいは、服巻の女に教えられた作法で継母に頭を下げた。お世話になったお礼を言いたいと言う父を案内して、やよいは再び女のもとを訪ねた。ところが、そこに家などはなく、世話になった女の姿もなかった。
「そんなはずはない」
 やよいは、キツネにでもつままれたような気分で、荒れた竹薮の中を捜し回った。
「これは?」
 父の声の先の竹藪一面に、蜘蛛の巣でも張っているように、絹糸が張り廻らされていた。竹の根元には、女の家に祭られていた5寸足らずの観音像が1体と、やよいが置き忘れてきた絹糸巻が置かれていた。

観音像の行方は?

「ありがたや、ありがたや」
 父は、神々しい観音像を見て繰り返した。
「あのおばさんは、かすかに覚えている私を産んでくれたお母さんだよ。頼りない我が子が心配で、私の前に現われて、逞しく生きる術を教えてくれたんだ。お母さんは、継母(かか)さんと末永く仲良くすることも教えてくれたんだ」と、やよいが言えば、「その人は、お母さんが観音さまになられた姿なんだよ、きっと。これからは、本当の母子で暮らそうね」と継母が応えた。
 やよいは、それからも、服巻の女に教わった機織りの腕をますます磨いていったとのこと。そして父は、家族の絆を強固にしてくれた恩に報いるため、鳥羽院の家の側にお堂を建て、服巻の竹藪から持ち帰った観音像と絹糸巻をいっしょにお祭りした。
 観音さまの噂はたちまち広がり、「お参りすると、親不孝もんが孝行もんに生まれ変るそうな」と、たくさんの善男善女が参拝するようになった。
 その後である、鳥羽院のことを「絹巻の里」とも呼ぶようになったのは。(完)

 城原川の水源地帯である鳥羽院地区に赴いて、やよいの父が建てたという観音堂を探した。「そんなものはありませんよ」とは、地元のお年寄りの答え。そんなはずはないと、役場近くに戻って物知り博士に尋ねた。
「ああ、あの観音さんね。ご存知のように鳥羽院はあまりにも山ん中でっしょ。じゃけん、お参りする人が不便かちゅうて、佐賀の街の中に移しなさったそうですよ」、「引越し先はどこですな?」、「何でも、佐賀市内の高木瀬町ちゅうところに長瀬ちゅう地名があって、そこで『天神さま』とも崇められておりなさるそうでなた」だって。観音さまが天神さまに…、そんな話を聞くと、捜しに出かけようとする気持ちが萎えてしまう。

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