伝説紀行 木引地蔵  みやき町(北茂安町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第180話 2004年10月17日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
木引地蔵の不思議

佐賀県みやき町(北茂安)

 筑後川の右岸が佐賀県三養基郡の北茂安町と三根町、そして左岸が福岡県久留米市安武と大善寺に位置するあたり。本来福岡県であるはずの左岸に佐賀県三根町が居座っている。「土居外」という聞きなれない地名が、その間の事情を説明してくれそうだ。
 このあたりではむかしから、大川の土居(土手)を挟んで外側を「土居内」と呼び、内側を「土居外」と言っていた。つまりは、主人公である人間が住む場所が「内」で、人が住まない川や河川敷は「外」なのである。先の三根町土居外は、蛇行する筑後川の直線化によって取り残された佐賀県に属する土手の中だった。

村のために神木を伐る

 今から約300年ほどむかしの元禄時代。江口村(現北茂安町江口)の男たちが集まって何やら深刻な相談中。
「土居外の木をそのままにしておると、増水したらまた死人が出るわ」
「ばってん、あの木には神さまが宿っておられるそうじゃけん。人の命も大事じゃが、神さまの怒りに触れるほうがもっとえずか(恐い)」
 土居外ににょっきり立つ樹齢数百年の木のことである。大木には、筑後川が増水するたびに、濁流が激突して流れを変え、土居を破って人家や家畜を襲うのだからたまったものじゃない。あの木さえ伐れば、災害ば防げるのに・・・。
「よし、あした切り倒そう」
 庄屋の甚兵衛さんの一言で、大木を切り倒すことになった。

大木を寺の梁(はり)に

 甚兵衛さんの陣頭指揮で、江口村の男たちが招集され、半日がかりで見上げるばかりの大きな木を切り倒した。
「庄屋さん、切った木はどこに運びますんで?」
 藤八が訊いた。
「さて、そこまでは考えておらんじゃった。材木の使い道はそのうち考えるとして、とりあえず藤八の休耕田にでも置いておけ」
 甚兵衛さんの命令で、男たちが100人がかりで前後ろから担ごうとするが、木は根が生えたようにびくともしない。
「どうしたこっちゃろかね?」


(写真は、筑後川が蛇行していた時の旧河川。向かって左方が久留米市安武町の住吉地区、右が佐賀県三根町の土居外地区。この区割りだけはむかしと変わらない)

 甚兵衛さんが頭をかしげながら、翌日運ぶことにして家路についた。翌朝枕元にお地蔵さんが立たれた。
「おい、甚兵衛。神が宿る木を伐ったそちたちの罪は重いぞ。だが、それも大勢の村人のためを思ってのことゆえ、そのことは許さないでもない。ただし、伐った木の使い道も決めずに土居外にほったらかしにするとは何事か。よいか、あのご神木は江口村の善法寺の本堂の梁に使うよう」
 厳しい顔で言いつけて、お地蔵さんの姿が消えた。甚兵衛さんは間もなく目を覚ました。
「そういうことだったのか!」
 甚兵衛さんは喜んで、再び男たちを集めた。

台風でもびくともしない

「お地蔵さんのお告げにより、昨日切り倒した木を善法寺に運び込め」
 甚兵衛さんが命令して男たちが担ぎ上げると、何のことはない、4〜5人ででも担げそうに軽かった。
「お地蔵さまの言いつけどおりにしたら、力まで貸してくれた」
 村人たちは、木が立っていた土居内の宮村に夢枕のお地蔵さんと瓜二つの顔をした仏像を彫って祀った。それが、今も残る「木引地蔵」である。そして、1年がかりで善法寺本堂が建て替えられ、基礎をなす梁には、言いつけどおり土居外に立っていた神木を使った。
 それから100年以上もたって、文政11(1828)年秋のこと。「子の年の台風」が肥前地方を襲った。多くの家が倒され、収獲直前の稲も壊滅状態に。人々は食べるものを求めてさまよい、道端に倒れて死んでいった。だが、土居外の集落と江口村だけは信じられないほどに被害が少なかった。1度は傾いた善法寺の本堂も、いつの間にか元通りにしゃんと立っている。
「あれもこれも、木引地蔵さんのお陰たい」
 本堂は300年以上もたった現在も、いくら台風が来ても寸分の狂いもない。村人は喜び、ますます信仰を深めたそうな。(完)

 だが、人間は良いことが続くと、先人から受けた恩など忘れてしまいがちだ。
昭和20年代になって、曲がりくねった筑後川は直線化された。そのために、土居外地区だけが三根町からは遠い向こう岸に取り残されてしまった。可哀そうなは子供たち。すぐ側に安武の学校があるというのに、小学から中学生まで渡し舟で大川を渡らなければならない。ギッチラギッチラ手漕ぎの舟は、波穏やかな時は川風が気持ちの良いものだ。


学童の悲劇を伝える

 だが、不幸はすぐ後に待っていた。昭和25年2月13日、それはそれは寒い北風が吹き荒れる朝であった。飛び地が故に41人の生徒たちが、通学のために天建寺の渡し場から舟に乗り込んだ。舟は間もなく向こう岸に着こうとするそのとき、ひときわ強い風にあおられ転覆してしまった。凍りつく大川に投げ出された子供たちは、必死で助けを求めたが、そのうち6人はとうとう帰らぬ人になってしまった。
「河川工事をする際に、行政区画もいっしょに立て直していれば・・・」こんなことにはならなかったとは、当時の大人たちの繰り言。父母たちは協力して嘆願し、すぐ近くに橋を架けさせた。それが天建寺橋である。そのときの天建寺橋も、今では公共工事の落とし子たちによって、1日に何台も通らない場違いの立派な橋に架け替えられた。土居外の子供たちは、今もその橋を渡って元気に学校に通っている。

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