伝説紀行 徐福渡来 佐賀市(諸富)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

080話 20021006日版
再編:
2019.07.28
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
恋する徐福さん


07.04.22

佐賀県諸富町

【徐福関係資料】


徐福上陸地

古代史の謎

 日本古代史の中でも謎だらけの「徐福渡来伝説」について。北は青森から南は鹿児島県の屋久島まで17の都道府県で、「うちこそ、徐福が上陸しなさった地」だと言って譲ろうとしない。
「歴史」と一口に言っても、わが「筑紫次郎の世界」では、最古となる2200年前。中国史でいう秦国時代のことだ。
 中国の統一を果たした始皇帝は、文字や貨幣、度量衡まで一つにまとめ、挙句の果てには自分の考えることが絶対だと信じて、人民の思想統一までやってのけた。全権を掌握した後、今度は「朕(ちん)は死にとうない」と我が儘を言いだした。中国には道教なる宗教があって、その中心的思想が「深山に住む仙人が不老不死の薬をつくっている」などの「神仙思想」だといわれる。方士(道教のお坊さん)の一人である徐福が、「東海に蓬莱島あり、島上に仙山あり、山上に仙草あり、食すれば不老不死を得る」と上奏するのを聞き、始皇帝は、「それならお前がそこに行って探せ」と厳命した。そこから徐福の日本を目指した航海が始まったのである。

大船団来襲

「あれはなんだ!」
 搦浜(からみはま)で漁をしていたヨシが下流方向を指さした。仲間のキヨが振り向くと、有明の海から逆流に乗って無数の船がこちらに向かってやってくる。二人は漁具を投げ捨てて陸に上がり、村長(むらおさ)に告げた。
 長の緊急招集で集まった村人が固唾を呑んで見守る中、見知らぬ外国人が次々に船を飛び降り、葦の林を掻き分けて上陸を開始した。


金立山全景

 上陸した人数はざっと3000人。鎧兜姿(よろいかぶとすがた)の兵士もいれば年寄りや女子供も大勢いる。集団の中から村長の前に進み出た大男が、深々と頭を下げた。
「我れは、海の向こうの秦の国からやってきた呉平と申す。あちらにおわすは、総大将の徐福さまである」
 呉平に促されて進み出た徐福。
「我れらはあなた方と戦うために来たのではない。皇帝さまから不老不死の薬を探すよう命じられて参った」
「そんな不思議な薬がこのあたりに生えているなど信じられない。それに、たかが薬草を探すのに、この大人数は解せません」
 村の最長老が、捨て身で徐福に食ってかかった。
「ごもっともなことではある。実はここにいるものはすべて私の血縁のものでござる。もし薬草が見つからないときは、一族皆殺しにされますゆえ」
「皆までおっしゃいますな。さて、皆さまおもおすきでしょうが、これだけの人数を賄うとなると、とても…」
「心配ご無用。当座の食料は船の中に積んでありますゆえ」

五穀を伝える

徐福がしきりに北の方角を気にしている。どうかしたかと(おさ)が問うた。
「はい、占いでは、薬草の在り処は上陸地点の真北に聳える山だと」
「あの山は金立山と申します」
「それこそ、目指す仙山なり」と徐福が唱えると、呉平の号令の元、一行は隊列を作って17キロ先の金立山を目指した。山に到着するや、手分けして昼夜を分かたず不老不死の薬草を探しまわった。だが、薬草など簡単に見つかるはずもない。徐福はある決断をした。


金立山中腹の金立神社

「こうなったら腰を据えるしかなかろう」
「どうなさるので?」
 呉平が訊いた。
「持参した食料は間もなく底をつく。自分たちの食い扶持は自ら生み出さなければならない。食料を生産するのじゃ。国から持ってきた五穀と野菜の種を船から下ろせ。薬草を探す者は女と子供に任せ、残りの者は雑木や草を取り払え。土地を耕して米と野菜を作るのじゃ」
 兵たちは急ぎ搦浜(からみはま)に戻り、停泊中の船に積んであった種と耕作のための農具を陸に運びあげた。五穀とは米・麦・・豆・稗または黍(きび)のこと。当時中国の民が常食としていたものであった。

雨乞いも農業のうち

 兵たちは鎧や武器を鎌や鍬に持ち替えて開墾を始めた。
「面白そう、私にも手伝わせて」
 みんなが止めるのを振り切って、野良着姿の若い娘がしゃしゃり出た。村長の娘タツである。タツにつられてヨシもキヨも鍬を持った。溝を掘る、原野を耕す、種を蒔く。何しろ、水稲栽培など見たことも聞いたこともない連中である。
「底が深い川の水をどうやって田に上げるので?」


金立山ふもとのコスモス公園

 ヨシが農業の指南役に尋ねた。彼は背振山地から流れ落ちる川の上流をせき止めるよう教えた。せき止めて溜まった水を、人手で造った溝に流し込み、田んぼを潤す仕組みである。
「長い日照りで川の水が干上がりました」と言われれば、徐福が金立山の頂上に登り、祭主となり、天に向かって雨乞いをした。すると、不思議なことに間もなく雨が降りだした。
「雨乞いも、農業の一つなり」
 徐福は、噛んでふくめるように、村長らに言って聞かせた。

徐福は農業技術の伝来者

 徐福とその一行の人気は上がる一方であった。彼の指導で筑後川周辺の堆積平野は見る見る農地に生まれ変わっていった。身の回りの世話を買って出たお辰に徐福が惚れた。そして結婚、やがて玉のような男の子が誕生した。
「ご主人さま、始皇帝のご命令から既に5年が経過しました。いまだ薬草は見当たらず、これからいかがなさいますので?」
 恐る恐る側に仕える呉平が尋ねた。お辰も心配顔で訴えた。
「私もそのことが一番心配です。もしあなたさまがお国に帰られたら、残された坊やと私はどうなるのでしょう?」
「おまえらに寂しい思いはさせぬ。もともと人が生き続けられる薬などあろうはずもない。だからと言って皇帝に逆らえばその場で処刑じゃ。我れはこの(やまと)に骨を埋めようと思う。そのために幾千もの親戚郎党を伴ってきた。だが…、こちらの方々にお世話になるだけでは申訳ない。我れらが大陸で取得した農業技術を伝えて、いっしょに五穀を生み出そうぞ」写真は、徐福像
 徐福の死後、彼から教わった数々の農業技術のお陰で村は栄えた。そして渡来した者と地元民は融合していった。金立山500bの斜面に建つ神社には、大恩ある徐福が神として祀られている。村人は、徐福の霊を神輿(みこし)に乗せて山を下り、上陸地点の搦浜(からみはま)までお連れして、故郷の中国大陸を拝ませた。その行事は後々まで続き、いつしか祭りは「雨乞い行事」に変化していったという。(完)

 徐福の上陸地と主張する場所は資料のごとく日本全国数多い。だが、筑後川で産湯を使った筑紫次郎としては、義理にも諸富上陸説以外をを支持するわけにはいかない。そこで、諸富説に反対する勢力を説得するために、証拠探しの旅に出た。
 有名な
諸富町の昇開橋近くに「徐福上陸の地」の看板が立てられていて、そばに「徐福の泉」なるものがあった。徐福が長旅の垢を洗い落とすために使ったものと言うが、見た目単なる古井戸。近くには「浮盃(ぶばい)」という地名がある。徐福が大盃を浮かべ上陸地点を占った場所とか。いかにもとってつけたような名前が気になる。村人が徐福の通り道に千反の布を敷き詰めたことからつけられた千布(ちふ)という地名もしかり。
 そんなこと言っていたら、証拠なんて何にもないよと叱られそう。もう一度「徐福上陸の地」の川岸に立ち戻り、筑後川の下流を展望した。そこでようやく結論が出た。日本列島は縦長だ。徐福らが東シナ海の荒波を乗り越えてようやく日本の陸地(平戸あたりか)を見つけたとき、もうこれ以上の船旅に飽き飽きしていたはず。彼らは「見つけた陸地が目的地」と決めてかかったのではなかろうか。早く陸(おか)に上がりたい一心を、波穏やかな有明海が誘い込んだと考えるのが一番わかりやすい。
 いったんは納得した「諸富上陸」だったが、帰り道徐福一行が血眼になって薬草を探し求めた峠を車で走っていて、また一つの疑問が噴出してしまった。
「さてさて、徐福さん。本当に日本列島に上陸したのかなあ」

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