No.058

2023年01月21日

三条公友情の松

太宰府市


三条公手植えの松

一貫屋敷の手植え松
 太宰府市通古賀(とおのこが)に、素敵に剪定された松の木が植えられている。その傍には、巨大な石碑が。幕末この場所に居を構えていた陶山一貫先生の屋敷である。
 記念碑には、「三条公手裁の松」(さんじょうこうてうえのまつ)と彫られていて、この地方の歴史の深さを感じさせてくれる。幕末期に尊王攘夷派の一人であった三条実美(さんじょうさねとみ)公が、親交の深かった陶山氏の庭に手植えしたものだとか。このときの松は枯れ、現在あるのは二代目だそうな。医者だった陶山氏と、歴史上も有名な三条公との関係はいかがなものであったのだろうか。

五卿の地域交流
 ときは明治維新直前の慶応元年(1865年)。九州・大宰府に移動させられた5人の公家たちが住んだ場所である。
  
公家:朝廷や天皇に仕えるものたちのこと。
 大宰府に移された公家とは、三条実美(さんじょうさねとみ)、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、四条隆調(しじょうたかうた)、壬生基修(みぶもとなが)の5人のこと。彼らが落ち着いた先は、天満宮境内の延寿王院であった。現在の天満宮宮司西高辻氏が住む場所である。


三条公らが居住した延寿王院



 5人の公家を預かる福岡藩などは、しばらくは見張りが厳しかったが、そのうちに緩やかになった。もともと朝廷で行動に長けていた公家らは、監視が緩むと近くを散策したり都での遊びを復活したりして、暮らしを豊かにするための工夫を凝らした。


都府楼跡


 正月には、都府楼を訪れたり、天満宮の鷽替え(うそがえ)祭りに参加したりもした。また晴れた日には「発砲」に出かけたり、馬を駆って遠出したり、遊びの世界にはまっていた。雨天の日は、「論語輪講」と言って勉強会も開いたという。まさしく晴耕雨読の気ままな日常を送っていたわけだ。
 天満宮から東に聳える豊満山への登山も頻繁であった。足腰を鍛えたり景色を楽しんだり、都に負けない筑紫野の景色を満喫していたらしい。 中でも三条実美は、山地に生える枝振りの良い小松を引き抜いては持ち帰り、鉢植えにして楽しんだ。
 幕末の監視の中でも、五卿のもとへは薩摩の西郷隆盛や土佐の坂本龍馬など討幕派の志士たちが立ち寄り、情報を持ち寄ったとも言われる。また実美らは、周辺で暮らす高い教養を持つ者らとの交流も盛んになしていた。王院から御笠川沿いに観世音寺や戒壇院、政庁跡など歴史を追い求めてその後の活躍の糧を築こうと、地域の知識人らとの交流を欠かさなかった。


菅原道真が謫居された榎神社


 都府楼跡を西に下ると、菅原道真が謫居を余儀なくされた榎寺があり、そのむこうが通古賀である。実美公は、そこに居を構える医者の陶山一貫邸によく立ち寄って深夜まで天下国家を語り合った。陶山邸の裏手に建つ王城神社の静かな境内は、彼らにとって語り合うのに絶好の環境であった。

王政復古と帰京
 それからの日本は、激動の季節に入る。その年の暮れ、五卿は復官して京に帰ることになった。三条公は、わずかに枝振りが自慢できるようになった豊満山の小松を下げて、陶山の屋敷にやってきた。
「九州に住んでいる間に、品評会に出せるほどの盆栽にしようと思っていたのだが・・・」


王城神社


 三条公は照れ笑いしながら小松を鉢からとりだして、陶山邸の庭先に植え込んだ。その時、記念の松に添えたのが、次の一句である。
  
植えおきし手なれの松のおいさきを生きて再び見むよしもがな
 
 やがて、世は明治元年(1868年)へと突入する。鳥羽伏見の戦いー江戸城開城ー明治改元へと。
 その後、三条ら五卿に王政復古と京都召還の知らせが届き、1月17日に出発し、彼らの幕末は終わった」と太宰府市市史資料室の矢野健太郎さんは結んでいる。(完)

大宰府市資料室 矢野健太郎著「大宰府人物志」参考 

後、肥前から使者が尋ねてきて、母子は無事に三河守の許に帰り、彼は稲荷の霊験を聞いて感じ入り、上田某を遣わして小祠を建立し、祠堂金一封を年々送ったという。この地蔵を俗に「子安稲荷」と言っている
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