No.057

2023年01月15日

菅公、宰府に左遷

衣掛天満宮

太宰府市


衣掛天満宮

 東門から宰府入り


 寒すぎた冬も遠退いて、筑紫路でもちらほら花(梅)の便りが聞こえてくるようになった平安時代の中期の頃。水城大堤防の東門に、10人ほどの旅姿の一行がやってきた。一行の中には、10才足らずの幼子も二人混じっている。京の都を発ってからやっとたどり着いた大宰府である。
「ひと休みいたしましょう」。一行の先導役らしい男が、東門を潜ったところで後ろを歩く主人らしい男に顔を向けた。主人は、道端の切り株に腰を下ろした。
「お疲れでございましょう。お住まいになられる南の館(現在の榎社)まであと半里でございますよ」と聞くと、主人は急ぎ立ち上がった。
「主人」とは、京の都で政敵の藤原時平に敗れて右大臣の席を追われ、大宰府権師に格下げされたうえ、遠い筑紫に左遷された菅原道真のこと。道真に寄り添って旅の指揮を執っているのは、一番弟子の味酒安行(うまさかのやすゆき)である。また、一行の中の二人の幼子は、道真の子隈麿と紅姫であった。

関連記事は、 No.044 菅公を看取った神牛参照

 道真は、宰府への入場を前に身だしなみを整えようと、着ている旅着を脱ぎ、傍に立つ松の枝に吊した。このとき旅衣を掛けた松の子孫が、今日に残る「衣掛天満宮(きぬかけてんまんぐう)」の境内に残っている。


姿見の井戸



疲れ顔に落胆
 「哀れよ、我が姿なり」。近くにあった池の水に映った自分の顔のあまりにもやつれように、思わず膝をついてしまった。都人のプライドともいえようか。
「しっかりなさいませ、ご主人さま。陥れたお方を見返す戦いは、これからでございますよ」
 味酒安行は、主人の両肩をゆすりながら元気づけようとする。気を取り直した菅原道真は、このときいくつかの和歌を詠んでいる。

引き結ぶ花田の帯も解けよけふ刈萱のつかねをにせん

 道真は、これらの和歌を短冊に記して、関守の花田某に渡した。受け取った花田某は、道真の優しさに痛み入り、脱いだ衣とともに大切に保管した。
 このとき道真が旅衣を掛けた松の木はその後枯れてしまったので、「板」にして、一枚は絵馬に、もう一枚は「衣掛天満宮」と記した扁額に変わっている。
 道真は、身なりを整えた後、官道を通って政庁から朱雀通を南に進んだ南の館に落ち着くことになる。


旧官道


 それからわずか2年後の903年、道真は都恋しさの感情を抱いたまま天国へと旅発ったのである。


菅公の大宰府入り
 菅原道真が都落ちして左遷先の大宰府に到着するまで、その道程にはいくつもの説が言い伝えられている。その一例が九州一の歓楽街・福岡支店人にある。

水鏡天満宮
 京の都から海路博多に上陸した道真は、今泉を流れる四十川(現在の新川)の水面に自分の姿を映して、やつれた己の姿を嘆き悲しんだ。その後、村(庄村=現在の今泉)に社殿が建造され、「水鏡天神」「容見天神(すがたみてんじん)」と呼ばれた。


水鏡天満宮


 江戸時代に入り、初代藩主黒田長政によって「水鏡天満宮」とし、現在の明治通りに移された。現福岡市の中心をなす「天神」の地名は、この天満宮に由来する。
(完)

後、肥前から使者が尋ねてきて、母子は無事に三河守の許に帰り、彼は稲荷の霊験を聞いて感じ入り、上田某を遣わして小祠を建立し、祠堂金一封を年々送ったという。この地蔵を俗に「子安稲荷」と言っている
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