No.056

2023年01月01日

空飛ぶ、カンコー
        菅公

伝衣塔由来

太宰府市


伝衣塔

  太宰府の国立博物館通りに、光明禅寺が建っている。現在は寺院改修中で、2023年春まで一般参観はできない。光明寺脇を流れる藍染川の岸辺に、そうとう年季の入った石塔が建っている。伝衣塔(でんえのとう)という。今回は、光明禅寺縁の、その塔の由来である。
 光明禅寺は、鎌倉中期に鉄牛円心という和尚さんが創建したと伝わっている。それも、大陸の影響を受けての開山だというから、なお詳しいことを知りたくなる。


修理閉館中の光明寺(太宰府市)

菅神が禅の教えを乞うた
 聖一国師(本名円爾)が大宰府政庁近くの崇福寺(現在の横岳山崇福寺別院)にお住まいだった頃の話である。聖一国師とは本名を円爾(えんに)と称し、日本で最初に「国師」の称号を授かった歴史上有名な高僧である。静岡で生まれ、大陸での修行の後京都の東福寺などを創建。博多に来てからは、悪病退散などを唱えて、現在に繋がる博多山笠を提唱した僧として有名だ。
 ある夜その円爾和尚の前に、菅神(菅原道真の霊のこと)が現われた。菅神は、国師に対して、「余は都にあって、未だ禅の神髄を心得ていない。よって、大和における最高の禅の道に優れた貴殿に、その道の奥義を教わりたい」と、頭を下げた。
 平安時代の名高い菅原道真公の頼みとあれば、簡単に断るわけにもいかない。そこで円爾和尚、「貴公のごとき天才に教えるには、わたしではちと荷が重すぎる。宋の国におわす無準師範を紹介しよう」
 これを聞いた菅神、生前都で会得した学問と黄泉(よみ)の世界で得た教書を握りしめて、呪文を唱えた。菅神の姿は円爾和尚の前から消えた。姿を消した菅神は、自ら発する読経の声波に乗って宙に舞い上がり、一夜のうちに宋の国の無準師範の庭に降り立った。


菅原道真(左)と無準師範(右)

僧衣いただく
 深い眠りから覚めた無準師範、いつもの習慣で庭に降り立った。「おかしい、こんなところに菅草(すげぐさ)など生えていなかったはず」と首をかしげる。その時、師範の足下に跪く男がいる。大和の大宰府崇福寺から一夜にして飛んできた菅神である。
 「何者か?」と師範が問うた。菅神は目の前の菅の葉先を指さして、即座に自作の和歌を詠み上げた。

 無準師範は、菅神の心意気と記憶力の鋭さに打たれて、禅の道の神髄を語って聞かせた。頷きながら聞く菅神。
「奥深き教えをいただき、ありがたき幸せ」と、感極まった表情で礼を述べた。師範の説法を短時に悟る菅神の聡明さに、無準師範は悟りの証として梅花紋の入った僧衣を授けた。
「ありがたき幸せ」を繰り返し、地に額を着けて礼を述べる菅神。再び黄泉の世界で会得した呪文を唱えながら、無準師範から授かった僧衣を胸に抱き、姿を消したのだった。


崇福寺別院



菅神、僧衣を収めよと
 呪文の声波に乗って、一夜のうちに横岳山崇福寺に舞い戻った菅神。出迎えた聖一国師の円爾に、菅神は無準師範より授かった禅道悟りの証である梅花紋の僧衣を活かす法を質した。
 その後、菅神は承天寺の庭に立った。出迎えた鉄牛和尚に対して、無準師範から授かった僧衣を、大切にお祀りするよう進言した。これを受けて鉄牛和尚、藍染川のほとりに記念の石碑を建てたのである。記念塔には「伝衣塔(でんえのとう)と名付けた。鉄牛和尚、伝衣塔のすぐ近くにお堂も建てた。現在存在する光明禅寺は、その時の名残である。
 鉄牛和尚の禅道に対する本気度を確かめた菅神は、神としての自らの役目を終えて、改めて、呪文を唱えながら静かに人間の世界から消えていったのだった。
(完)

登場人物

鉄牛和尚:臨済宗にあって、東福寺の円爾の法を継ぐ。後、筑前(博多)の承天寺住持となった。

聖一国師(本名円爾):日本と宋(中国)の寺で修行を積み、後に京都五山の一つ東福寺を創建。僧侶として最高の栄誉である「国師」の号を日本で最初に授かった高僧である。静岡茶の始祖として知られる。

菅神:菅原道真の霊のこと

無準師範(むじゅん しはん):中国・南宋の高僧。

後、肥前から使者が尋ねてきて、母子は無事に三河守の許に帰り、彼は稲荷の霊験を聞いて感じ入り、上田某を遣わして小祠を建立し、祠堂金一封を年々送ったという。この地蔵を俗に「子安稲荷」と言っている
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