No.055

2022年12月25日


住宅の中の祠(イメージ)

通古賀のお薬師さん
太宰府市

 史跡・大宰府政庁跡から朱雀通りを南へ500㍍。菅原道真公が謫居(たっきょ)されたという南ノ館(現榎社)に着く。すぐ横を走る西鉄電車の線路を挟んで、周辺一帯を「通古賀(とおのこが)」と呼ぶ。筆者と同姓の町並みだ。立派なお屋敷が建ち並んでいて、そのむかし大宰府政庁で働く官人の社宅街ではと連想させる。
 通古賀の精神的支柱をなすのが「王城神社(おうぎじんじゃ)」である。あるお宅のお屋敷の一角に祀られている祠の主は、薬師如来だとか。今回は、その「お薬師さん」にまつわる物語である。(王城神社縁起より)


鷺田川



旅の僧がやってきた
 鷺田川(さぎたがわ)に沿って、年の頃なら四十を超えたくらいの旅の僧がやってきた。時は江戸時代より以前の、天正初め頃である。旅の僧は、通古賀の王城神社近くのお屋敷に一夜の宿を願い出た。心優しい主人が僧の願いを受け入れて、座敷に通した。
 実はこの旅人、僧侶とは仮の姿で、下野国(しもつけのくに)は(栃木県)佐野という在に住む松田新入齊と名乗る武士であった。訳あっての一人旅だったのである。宿を取ったその夜から目の奥が痛みだし、翌朝の出立が難しくなった。主人の心遣いもあって、当分の間当家に留まることになった。松田新入齊は、ご近所に祀ってあるお薬師さんにすがりついて、眼病治癒の願いをかけた。願いが叶ってか、一時は失明も覚悟した目の痛みも和らぎ、快方に向かった。


王城神社ご祭神



捜し求めた男の子
 すっかり居着いた通古賀で、新入齊は得意の学問や剣術などを村の子供たちに指南しながら時を過ごしていた。お世話になった通古賀の皆さまへの恩返しのつもりであった。
 そんなある日、王城神社の境内で、一人しょんぼり座り込んでいる男の子に話しかけた。
「名前は?」と尋ねると、子供は「金六」と答えた。「苗字は?」には、「松田」と言う。新入齊が目の前の子供を見つめていて、涙が止まらなくなった。急ぎ、手を引いて松田の家に走った。
「みどもは遠い下野国から参ったもの。子宝に恵まれず、信仰する薬師如来に願っていたところ、ある朝夢枕に立たれた如来さまが、『文武に優れた子を求めるなら、西海道(九州)に行くがよい。そなたと同じ『松田』を名乗る武士を探し出し、その子を養子に迎えよ』とのお告げがござった。半年前に九州に参って、隈無く『松田』の氏を捜し回ったが、ついに見つからず、先日通古賀についたところでござった。そこで目を患い、望みも絶えたかと観念しかかったところに、そなたのお子に出合った次第。この子供こそ、薬師如来さまがみどもに与えてくれた子宝なりと確信いたした。是非とも、お子を我が養子にいただきたい」
 驚いたのは金六の父親である。いかなる事情があろうと、我が子を簡単に他国の者に引き渡すわけにはいかない。
「お断り申す。さっさとお国へお帰りなされ」と、父は新入齊の願いを突っぱねた。


強硬手段が結末を生む
 諦めきれないのは旅の僧である。考えを巡らせた上で、金六を騙して連れ出した。所謂、誘拐である。
 ことの重大さを知った金六の父親の依頼により、村の衆総出で金六の取り返しにかかった。大宰府から博多湾に向かう往還を、新入齊らしき旅の僧と金六を捜した。そしてついに道ばたで泣いている男の子を見つけた。父親が金六を抱きしめたところで、旅の僧の行方などどうでもよくなっていた。


水城周辺の旧官道



如来の化身を祀る
 金六を背負って、今来た道を通古賀へと急いだ。途中水城の土手までたどり着いたとき、東の空が輝きだした。背負っている子供を下ろそうとすると、何とそれは人ではなかった。
「そのお方は、薬師如来さまじゃ」
 加勢にきた村の若者が、引きつったような高い声を発して尻餅ついた。まさしく金六の父が背負っていたのは、身の丈一尺ほどの薬師如来像であった。
 父は息子のことが諦めきれなくて、妻女と抱き合って泣くばかり。これも運命と心に決めて、庭に祠を築き、いただいた如来像をお祀りした。この仏さまが、今日通古賀の一角に安置されている薬師如来像である。その後当如来さまは、霊験あらたかということで、正月七日の七薬師詣りなど近郷の信仰の対象となったという。また彼岸には、筑紫西国八十八カ所の札所の一つとして、お遍路さんがお参りにおいでになるそうな。
 さて連れ去られた金六はというと、成人して松田金七郎秀宣と名乗り、関ヶ原の戦いではめざましい手柄を立てたんだって。(完)

の後、肥前から使者が尋ねてきて、母子は無事に三河守の許に帰り、彼は稲荷の霊験を聞いて感じ入り、上田某を遣わして小祠を建立し、祠堂金一封を年々送ったという。この地蔵を俗に「子安稲荷」と言っている

    

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