No.050

2022年09月04日

父恋しさの長旅
人丸神社由来

福岡県新宮町


人丸神社本殿

 

 JR九州の福工大前駅から北へ1キロほど行ったところの小高い丘に、「人丸神社」が祀ってある。聞きなれな い神社名は、どうやら人の名前らしい。それも女性だとか。

生来不遇の運命なのか
壇ノ浦で平家が消滅してしばらくたった平安時代終盤の話。京都の北嵯峨に「人丸(ひとまる)」という13歳の娘がいた。人丸とは、この娘が生まれたのが治承2(1178年)年3月15日、丁度陽が昇る時間であった。そのため、朝日は「旭」の文字から「日と」「丸」を合わせて「人丸」としたと伝えられている。
 娘の父は平景清(たいらのかげきよ)といい、壇ノ浦合戦にも参戦した平家の武将である。景清の出自はまさしく平家の筋金入りだ。父は藤原忠清で景清はその七男。景清が兵衛尉(皇居を守護する兵衛府の武官)に任官されていたコトや、その勇猛ぶりから「悪党並みに強い兵衛府の七郎」を意味するところから、悪七兵衛の異名放って敵から怖れられていた。
 景清は壇ノ浦合戦以後に、源氏の総帥である源頼朝の暗殺を企てた罪で捕らえられ、両目を潰された末に日向国(ひゅうがのくに)に流された。


壇ノ浦合戦の図


 人丸姫は、母も早くなくしていたために、乳母のトヨノと二人きりになっていた。景清の弟景房は、兄の意思を受けて人丸姫とトヨノを引き取り、将来の再興にかけた。だが、子らが成長するにつれて、人丸姫の居場所も次第に狭くなっていった。
「お姫さま、もうしばらくの辛抱でございます。必ずお父上がお迎えに来られます」と励ますトヨノだったが、その言葉も次第に空しくなっていった。
「会いたい、お父上さまに会いたい」と、父への思いが募るばかりの人丸姫に、叔父の景房も少々うんざり気味であった。
「それほどまでに父に会いたいのなら、兄景清の幼馴染だった坊主が筑紫国におるゆえ、手紙を書こう。その坊主は、天台宗の独鈷寺(とっこじ)の住職で仁徳と名乗ている。トヨノと一緒に尋ねるがよかろう」と、景房は人丸を突き放した。
 人丸姫と乳母のトヨノは、見送るものもない旅に出ることになった。姫15歳になっていた。わずかばかりの叔父からの餞別を頼りに、西国にいる父の面影を追っての旅立ちであった。関門海峡を渡って、筑紫国にたどり着いた時は、乳母トヨノともども体力の限界を超えていた。京の都を発って半年の月日が経過していた。


独鈷寺境内



独鈷寺の由来
 人丸姫と乳母のトヨノがたどり着いた独鈷寺(とっこじ)は、南に立花山を見上げる静かな山里の一角にあった。寺は、延暦年間に建立された天台宗の寺である。寺内には、伝教大師(最澄)が唐からもち帰ったとされる独鈷(とっこ)という鏡が祭られているという。境内には年間絶え間なく清水が湧き出る独鈷水や、最澄が座禅を組んだといわれる石も残っている。
「よく生きてここまでおいでなさったなあ」
 住職の仁徳和尚は、やつれ果てた人丸姫とトヨノを心から歓迎した。
「そなたの父親とは、幼い頃に京の鴨川あたりで悪さばかりした友なのだ。負けず嫌いでな、景清は。喧嘩に負ける愚僧の仇を、よくかばってくれたものじゃ。そなたが父に会いたい気持ちはよくわかる。何とかしてあげたいが…」
 自分の言葉を断ち切った和尚は、そのまま黙り込んでしまった。
「なんでも言ってください。覚悟は決めていますゆえ」
 すがる人丸姫を見据えたまま和尚が語り始めた。
「都から見れば、筑紫も日向も隣組に見えるやもしれん。ところが、そなたたちが歩いてきた距離以上に、ここから日向までの距離は遠い。それに…」
 また、僧の言葉が途切れた。しばらく経って、搾りだすように口から出た言葉は、人丸姫には信じがたい残酷なものだった。
「いないんだよ、もう。そなたの父はこの世に」
 不思議なくらいに冷静に和尚の話を聞く人丸姫を、信じられない思いで見つめるトヨノであった。気丈に見えるのは表向きで、人丸姫の体は、疲れに加えて病もが蝕んでいたのだった。息絶え絶えにトヨノに残した言葉。
「トヨノには、最期まで無理ばかり言って…」


人丸神社の正面入り口


「なんでもおっしゃってくだされ。私の一生は、お姫さまの影になって働くことでございます」
「ならば、最期にもう一つだけ。わらわが死んだら、遺体を父が生きた日向国を見渡せる高いところに埋めてくだされ。頼みます」
 それから間を置かずして、人丸姫はこの世をあとにして、二度と引き返せない世界に旅立ったのであった。建久年(1192)11月9日のことであった。
 後の世の村人は、人丸姫の父を慕う心情を察して、「子供の無事成長を願う場」として、姫を葬った場所に神社を置いた。これが旧下府の小字飛山に人丸姫を祭神として祀る人丸神社の由来である。

その後、肥前から使者が尋ねてきて、母子は無事に三河守の許に帰り、彼は稲荷の霊験を聞いて感じ入り、上田某を遣わして小祠を建立し、祠堂金一封を年々送ったという。この地蔵を俗に「子安稲荷」と言っている
048 筑後の念仏踊 白拍子の鎮魂 城島

    

表紙へ    目次へ     


ご意見ご感想をどうぞ 一人ぼっちになった藤枝は、この先の自分の運命が全く読めなくなった。その時である。急激な腹痛が襲った。陣痛である。あたりに人がいなければ、お産を手伝ってくれる人はいない。自分も赤ん坊の命もここまでか。

「八幡さま、お助けください。私の命は差し上げますので、お腹の赤ん坊を生かしてください」、藤枝は、後ろの松林を向いて必死に拝んだ。すると松林を掻き分けるようにして、一人の白衣を纏った女が駆け寄ってきた。女は持ってきた衣類を手際よく仕分けながら、藤枝のお腹をさすり始めた。遠ざかる意識の中で、藤枝は「あなたさまは?」と尋ねた。「大丈夫ですよ、わたしはそこなる箱崎八幡さまのお使いですから。まもなく赤ちゃんの誕生ですよ」。

その直後、「おギャー」と大きな赤子の泣き声が。「元気な男の子ですよ」と言うなり、女は後ろ足を跳ねるようにして、西に向かって走り出した。その後ろ姿は、人間の女性というより、神がかった白狐の飛び跳ねるさまであった。脇に置かれた赤ん坊には、女が持ってきた白衣が着せられていた。