No.046

2022年07月24日

寺塚観音の連絡路

福岡市中央区


寺塚の穴観音


今回のお話しは、本サイトNo.24「帳付けの石」の姉妹編です。



興宗寺山門


 福岡市南区に興宗寺という曹洞宗のお寺がある。このお寺、別名「穴観音」とも呼ばれている。境内一帯が「円墳」の形状をなす古代人の墓所だからだ。円墳の頂上近くまで石段を登ると、まず拝殿が待っていて、その先の洞窟が、観音さまの居場所である。丁寧に首を垂れた後見上げると、そこには三体の仏の像が彫られていた。中央には阿弥陀如来さまが、脇侍は観音菩薩と勢至菩薩さまだ。円墳は1400年前のお墓だというが、仏像の制作がいつかははっきりしない。


お城の石垣に観音さまの寝具を

 この観音さま、辛うじて生き延びた歴史をもっている。福岡藩主の黒田長政が、筑前国52万石を与えられて博多に乗り込んできたのが慶長5年(1600年)であった。関が原合戦の直後である。前任藩士が住んだ名島城で荷解きを終えた後、那珂郡警固村福崎(現在の福岡城跡)の丘陵にに本城を移すことになった。
 福岡藩としては、広過ぎる丘陵をより強固により美しく築かなければならない宿命を負っている。まずは、広大な城域を取り囲む石垣を築かなければならない。なにせ8万坪(264,800㎡)というスケールだから、城を囲む石材の数も半端なものじゃどうにもならない。
 藩主の長政は、普請奉行の野口佐助一成をそばに侍らせて、一日中石材の調達に頭を巡らせた。まず名島城で使われた石材をすべて運び込んで活用すること。それだけではとてもとても足りない。そこで、博多を取り巻く山々に転がる巨石を捜すことになる。南方に聳える油山には、石垣に適当な石が多数あるがそれだけでも足りない。周辺の墓石はすべていただきだ。油山より更に近い寺塚という丘陵地帯には、無数の墳墓が軒を連ねている。
 すべての墳墓を掘り返した後は、相当な位を有するお方が眠る観音窟の番だ。直径約20㍍。盛り土の南向きには横穴式石室があり、その奥の壁に阿弥陀如来と観音菩薩と勢至菩薩像がくっきりと刻まれている。石室には巨岩が敷き詰められていた。掘削現場を指揮している権八郎が、仏像の破壊に一瞬腰を引いた。
「構わぬ、仏もろとも運び出せばよい」、と居丈高に叫ぶのは普請奉行に仕える侍であった。


福岡城跡全面図



枕元に観音さまが
 普請奉行が石垣の材料不足で頭を抱えている最中、藩主の黒田長政は本丸と天守閣の設計に大忙しであった。その瞬間に、寺塚に点在する墳墓が跡形もなく壊されていくことなど思考の中になかったのだ。
 疲労困憊でその場に寝込んでしまった長政を揺り起こす者がいる。目をこすりながら眺めると、目の前に観世音菩薩さまが後光を放ちながら座っておられる。びっくり仰天、畳に額をこすりつけて非礼を詫びた。すると菩薩さま、「なぜ謝る。悪いことでもやらかしたか」と、厳しい目つきで迫ってこられた。そう言われても、咄嗟のことで観音さまの詰問に答えようがなかった。
「まだわからぬか!お前は南方の寺塚にある墓をすべて壊したであろう。それも、自分の城を築くためにだ」



円墳(左)と観音拝殿(右)


「それは…」
「言い訳するではないぞ。それだけではすまず、我ら仏の世界にまで鉄槌をくわえようとしている。許せぬ」
「それは、知りません。石材を掘りだせとは命令しましたが、仏さまを壊せとは…」
「言っておらぬと申すか。仏の道に逆らうものがどんな目に遭うか、分からせて進ぜよう」
「お許しください。それなる観音窟と石材掘り出しは即刻止めさせます故」
 そこで長政の目が醒めた。枕元には普請奉行の野口佐助が控えている。
「殿、寺塚の最後の墳墓はそのままにいたします。ご安心ください」、野口佐助はその場に現場担当の武士を呼びつけて、以後の作業を打ち切るよう命令を下した。



幻の天守閣


 そして7年後、福岡藩五十二万石の大城は完成した。だが、仏の世界を破壊したものに対する懲罰は、簡単には許してくれない。陰に陽に
、藩主黒田家に降りかかる不幸は止みそうになかった。


伝説紀行第82話 大膳崩れ


 長政亡き後二代目藩主の座に就いた黒田忠之は、穴観音と呼ばれる石窟内の仏像信仰を高めるべく拝殿を創設した。現在の曹洞宗興宗寺の前身である。寺塚周辺も当時とはすっかり景色が変わってしまった。住宅や飲食店などが立ち並び、点在する墳墓群など目を凝らしても何処にも見当たらない。12月14日の赤穂浪士討ち入りの日にだけは、浪士の墓に大勢の人が集まって賑やかなこと。寺の世話をするお方に訊いたら、穴観音へのお参りも、ますます盛んになっているとか。(完)

    
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