No.034

2022年04月10日

唐船の塔

福岡市筥崎八幡宮


筥崎宮境内の唐船塔


 鎌倉時代から室町時代にかけて、東シナ海沿岸に出没した倭寇(わこう)、即ち日本の海賊が〝活躍”した。彼らは、ニンポー(寧波)など中国大陸沿岸で、他国の船を襲い、船ごと強奪して日本の港に持ち帰った。寄港する主な港が博多の箱崎港であったらしい。奪った積み荷は有力商人に売り払う。拉致した乗組員は、土地の有力者に奴隷として引き渡す。なんとも恐ろしい集団ではあった。そのような歴史を物語る「史跡」が、筥崎宮境内に設けられた「唐船塔(からふねのとう)」である。


大陸から迎えの船が


現在の箱崎港


 
ある晴れた日の夕刻、中国からの貨物船が箱崎の桟橋に接岸した。降り立った人物の中に、年の頃なら20歳台半ばの逞しい男性がいた。男の後ろには、随行員らしい屈強な男が2人ついている。一行は重そうな荷物を荷車に載せると、目前の建物に入って行った。そこは、箱崎一帯を仕切る領主・秦遠久の館であった。
 遠久の館は、博多湾を一望する松原に囲まれた中にあり、人夫らしい男たちがひっきりなしに行き交っている。ニンポーの役人の紹介状を携えた男は、自分の名前を張善福と名乗り、大和流の丁重な挨拶を済ませると、早速来日の本題に入った。
「私は、ニンポーの港で商いをする者です。本日まかり越したるわけは、祖慶なるニンポー(寧波)人のことについて…」と前口上を述べた後、随行人に運ばせた重そうな荷を解かせた。男は積み荷のわけを説明した。
「祖慶なる50歳くらいの男を捜しております。その男は私の父です。20年もむかしに、乗っていた船ごと行方が分からなくなりました。嵐に遭ったか何者かに強奪されたか…。私は、その父が生きているとは思えません。ですが、国に残してきた母は、どうしても諦めきれず、風の噂で知った大和の箱崎に行けと私に命じました。そこで私は、父がこの世にいないことを確かめたら、その場所に供養塔として建ててもらおうと、この石塔を運んでまいった次第です」
 一気に来訪の意図を話し終わった男は、じっと遠久の顔をうかがった。


説得


箱崎浜



「これは、私が幼少の砌より、コツコツと貯めたお金でございます。国にいます母から、大和の箱崎におわす父を迎えに行くよう命じられて参りました。この金は、父が故国に帰るための必要資金です」
 そこまで語ったところで、秦遠久が話を遮り、庭で働いている男を指さした。
「あそこで荷揚げを指揮している者こそ、そなたの父の祖慶でござる。言われる通り、20年前にある船主から買った男だ。この男、それはもう陰日向なくよう働いた。その生真面目さが気に入って、彼を外国人として扱わず、わしの一族として迎え入れた。遠縁にあたる娘を嫁に宛て、小さいながらも家も建ててやった。その後、二人の子供もできて、今は幸せに暮らしておる」。聞いてびっくり、早速男は祖慶と対面することになった。
 目の前の老人がわが父だと言われても、にわかには信じることができない。生まれて間もなくの別れであったため、父に関する記憶がまったくなかったからである。国にいる母のことや故郷の家、景色などを話すうちに、祖慶の心も打ち解けていった。
「どうして息子のあなたが、死んだと思ったわたしを訪ねてきたのか?」と父が息子に問う。
「私よりも母上があなたと暮らしたいと言うておるのです。暮らしも順調ですから、どうかいっしょに中国へお戻り下さい」
「そんなに言われても、今ではこちらに妻もいるし子供も2人います。それに…」
 すっかり忘れていたことだが、男と祖慶の会話には、館の主である遠久も加わっていたのだった。
「わしのことなら案ずるな。そなたを買ったのは遠いむかしのこと。いまの祖慶は誰はばかることもない我が一族の人間じゃ。遠慮することはない。ニンポーにおられる奥方のもとにお帰えりなされ。こちらの息子二人も、いっしょに連れて行けばよい」
「それでは、妻は」
「わしが言い聞かせるゆえ、心配するでない」

 


望郷


筥崎宮


父子の会話が進むにしたがって、20年前に暮らした大陸での「平和」が、祖慶の体中に蘇ってきた。

「いま暮らしている息子二人とは、時間があれば箱崎の浜辺に出て、大陸の方角を望んでいたよ。あちらが父さんの生まれ故郷のニンポーだって。あちらに残したもう一人のお母さんのことや、お隣に住んでいたお婆ちゃんに可愛がられたことなど話して聞かせたよ。『父さん、また泣いているね』と子供たちに冷やかされたものだ。父さんだって帰りたいよ、ニンポーへ」
 泣き崩れる祖慶の肩を息子と養父が交互に撫でてあげた。
いよいよ、祖慶と息子の張善福が父子して旅立つ日がやって来た。祖慶と同じく海賊に拉致された仲間たちが、松林の陰から複雑な表情で見送っている。もう一人静かに一行を見送る中に、現在の妻がいた。桟橋に転がっている角の取れた石に腰かけた祖慶と妻は、誰に遠慮することもなく、お互いの目から溢れる涙を拭きあった。「ごめんな、ごめんな」を繰り返す祖慶。妻は、「息子さんが来なさったときからこうなることを覚悟していました」と、自分の宿命を吐露した。


祖慶と妻が語り合った腰かけ石


 出航して遠ざかる貨物船を、いつまでも見送ったのは、夫婦が最後の別れを惜しんでいた2個の丸い石だった。現在、箱崎八幡の境内に「夫婦石」と名付けられて保存されているものだ。降り注ぐ小雨を、白く乾いていた石が吸い込むように灰色に変っていった。
 そしてもう一つ、取り残されたように立ちすくむものが。息子がニンポーから運んで来た石碑(五重塔)である。箱崎の美しい松林の陰に包まれるように静かに佇んでいた。

 時代は明治に下って、祖慶の話を知った聖福寺の住持仙厓和尚が、次のような歌を詠んでいる。

箱崎の磯の千鳥の親と子が 泣きにし声を残す唐船


 本編の出所は、謡曲「唐船」である。石碑横の説明板には次のように記されている。「日本に捕らわれた唐人祖慶官人が、箱崎殿(筥崎宮大宮司)に仕え、日本人妻との間に二人の子供をなして平和に暮らしていた。やがて唐土に残した子供二人が迎えに来たので、箱崎殿はこれを憐れみ、日本で生まれた子も連れて帰ることを許した。親子ともども喜んで帰ったが、夫婦、親子別れも絡まった物語である。迎えに来た子が、父がもし死んでいたら建てようと持ってきた供養塔がこの塔だといわれる」と(完)


唐船塔

    
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