No.026

2022年02月06日

お綱の怨念
扇坂門の怪(東御門)


扇坂御門跡の階段

 

すべては殿から出た災い 

黒田官兵衛・長政父子が築いた福岡城には、数々の〝物語“が伝わっている。代表的なのは,
なのは、日本三大騒動事件として有名な「黒田騒動」だ。この度紹介する「扇坂御門の怪」も、黒田騒動と同様に、二代目黒田忠之が引き起こす話である。
 扇坂御門とは、二の丸梅園の東側にある出入口のこと。東西二つの方向に階段が伸びていて、扇方の坂道になっていたことから「扇坂御門」と呼ぶようになった。この門、別名「お綱門」ともいう。付近の石垣に触ると熱病に悩まされるということで、ここを通る人々に怖れられていた。


扇坂御門の石垣

夫に裏切られ

 扇坂御門の代名詞ともなった「お綱門」のお綱とは、黒田家お側用人浅野四郎左衛門が妻の名前である。お綱は、本宅(簀の子=現大手門1丁目あたり)から1里以上も離れた箱崎(現馬出)に設けられた別宅で、幼な子2人とともに暮らしていた。
 簀の子(現大手門1丁目あたり)の本宅には、夫四郎左衛門と側女(そばめ)の采女(うねめ)が住んでいる。お綱は、例え側女と立ち位置が逆さまになっていても、ここが武士の妻の我慢のしどころだと心得て、不満を言うことなく暮らしていた


福岡城の図


 どうしてこんなことになったのか。元をただせば殿さまの無責任な振舞いから起こったことである。忠之(二代目黒田忠之)は、江戸参勤の帰りに大坂から連れてきた遊女采女を第二夫人に取り立てようとした。ところが忠之の正室久姫は、徳川家と深い関わりのある下総石宿(現千葉県)藩主の次女であるところから、ただで済むわけがない。ことが幕府にでも知れようものなら、黒田家取り潰しにも発展しかねない。
 先代の黒田長政時代から仕える
筆頭家老の栗山大膳が、命がけで忠之を諫めた。仕方なく折れた忠之は、采女を側用人の浅野四郎左衛門に下げ渡した。四郎左衛門は、殿の命令とあれば断ることも出来ず、妻お綱を別宅に遠ざけて、本宅には采女を住まわせたのである。

 月日がたつにつれて、浅野四郎左衛門はお綱から遠ざかり、その内に生活費の仕送りすら怠るようになった。

堪忍袋の緒が切れて

暮らしに支障が出るようになるとお綱は、「長女のひな祭りがしたいので」という名目で、下男の善作を簀の子(現大手門1~3丁目)の本宅に遣わした。だが、善作は二度と箱崎には戻ってこなかった。それどころか、近くの松林(箱崎松原)で死体となって見つかったのである。駆け込んできた本宅の女中おその話だと、善作が訪れたとき四郎左衛門は登城中で、采女が応対したと言う。采女は善作に、庭箒を振り回しながら、「わらわを誰だと心得るか。本丸のお殿さまの寵愛を受けたる身ぞ。帰ってお綱に伝えるがよい。そのように身分の低いおなごにくれてやる金なぞないわとな」、膝まずいて願いを乞う善作を足蹴にしたのだった。


箱崎松原の名残りの松か? 稱名寺


「それで、善作はどこに…」。
 采女に足蹴にされた善作が気になったおそのは後をつけた。
「やっと追いついたとき、善作さんは松の枝に紐を下げて首を吊った後でした。奥さまからの言いつけを果たせなかった責任を感じたのでしょうか」
 俯いたまま話を聞いていたお綱が再び顔を上げたとき、おそのは思わず尻もちをついた。お綱の眉は逆立ち、唇はわなわなと震えて、鬼の形相に変わっていたからだ。立ち上がるなり、床の間に立てかけていた薙刀を手にした。「母さま、お待ちください」と止める二人の子供に、「邪魔する出ない!」と一喝すると、素足のままで外に飛び出した。
 お綱は、砂利道が続く路を、本宅のある簀の子まで走った。出てきたのは用心棒として雇っている明石彦五郎。「殿は登城中である。ご内儀さまの命により成敗いたす」と、抜刀してお綱の額目掛けて一撃。噴き出す鮮血を掌で払いつつ、踵を返してお城の扇坂門へ。長い髪は逆立ち、大蛇が踊る如く逆立って顔中は血だらけ。砂利道を走ったために足は干物ののごとし。
「浅野四郎左衛門の妻である、夫に合わせよ」。お綱は、息も絶え絶えに門番に迫った。いかに血気迫っていたとはいえ、お綱の体力は限界に。眼前の石垣にもたれかかったところで座り込み、そのまま息絶えた。周辺の石垣は、額から口から噴き出す血潮で真っ赤に染まった。

お綱の祟り

 お綱の怨霊で、東御門周辺はその後も忌まわしい事件が続いた。そのために桜坂御門は、浅野家跡に建てられた長宮院に移された。そして、血で染められた石垣は、触ると皮膚が腐ると噂され、武士も城下の人も、「お綱門」に近寄ることすらなかったという。400年前の寛永7年(1630年)桃の節句の頃の事件であった。

 事件その後。お綱の追及から逃れた浅野四郎左衛門は、怨霊に悩まされ続けて1年後に狂い死にした。怨霊はさらに、四郎左衛門の正室に収まった采女にも祟って、短い人生を閉じることに。お綱に深手を負わせた明石彦五郎もまた、別件で捕獲され、火あぶりの刑に処されたという。
 黒田藩とてお綱の怨霊から逃れることはできなかったようだ。そこで、霊をお城近くの長宮院(家庭裁判所構内)にお祀りした。(後に戦災で焼失して消滅)
 悲惨な幕切れの舞台となった扇坂門や別宅のあった馬出から福岡城までの道のりは、草も生えぬくらいだったと気味悪がれた。あれから400年も経過すれば、それも伝説の世界でしか思い起こされることはなくなった。 


東区馬出に設けられたお綱母子の墓
右からお綱。長男・長女

筆者は最近、東区馬出(まいだし)にあるお綱母子の墓にお参りした。松尾芭蕉の高弟が、箱崎の「枯野家」そばの敷地に「芭蕉翁の墓」を建てている。芭蕉翁のすぐ隣にお綱さん(戒名:圓通院義操妙綱大姉)の大きな石碑と、隣には可愛い自然石に彫られた「〇〇子」と「〇〇童女」の二つの墓が並べられていた。気が動転したお綱が、薙刀で突き殺した我が子の墓である。
 これもみな、殿さまの我が儘が家来に及び、その家族にまで底知れぬ悲劇をもたらしたこと。同情した後世のお方の供養であったろう。(完)

 このお話は、昭和11年1月に発行された佐々木滋覚さん作の「九州傳説夜話」をもとに、構成したものです。

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