No.019

2021年12月19日

養巴先生と骨接ぎカッパ


養巴先生の旧養巴通り

  私・カッパの浜五郎は、筑後川から渡ってきて、ただ今博多の百道浜で暮らしております。この度、九州で一番賑やかな福岡の天神という街にやってまいりました。「天神」の名前の由来を水鏡天満宮さんにお聞きしましたところ、「菅原道真公が都から太宰府に流される途中博多に寄られ、水に映る自分のやつれた姿を見て、嘆かれた」からつけられた地名だそうです。
 私・浜五郎の血筋でもある乙次が、すぐそこの那珂川べりからひょいと飛び上がって寄ってきました。悩み事があるから、ぜひとも話を聞いて欲しいとのこと。聞いてみれば、こんな阿保らしいことってありませんよ。


天神4丁目の交差点

 

腕斬りとられた 

 乙次の言うことには。いつもの悪い癖で、棲み処(すみか)の那珂川からお城に向って

肥前堀から、ある武家屋敷に忍び込んだんでございますよ。住居侵入だけはやっちゃいけねえと、私はいつも戒めていたんですが…。乙次の奴、鷹取養巴(たかとりようは)なる黒田藩お抱え医者(今日でいう整形外科)の屋敷に忍び込んでしまったんです。そこまではまだよかったんですが、汲み取り口から便所の中に侵入してしまいました。見上げれば、養巴先生の奥方の豊満なお尻が丸見えではありませんか。あろうことか乙次の奴、水かきのついた右手を伸ばしてお尻を触っちまったんです。それでも養巴先生の奥さま、慌てず騒がず、平然とその場を立ち去りました。その直後すぐに戻ってきて、持ってきた懐剣で乙次の右腕を斬り落としてしまいなさったんです。
「ギャーッ」、片腕を斬り落とされた乙次は絶叫しました。乙次は泣き泣き、鷹取屋敷の裏庭に出て訴えました。「私が悪うございました。どうか私の右手を返してください」と。
 そこに奥方を従えて現れなさった養巴先生。
「腕を返してもらってなんとする」と、ごもっともなご返答。
「片腕だけじゃ、那珂川や博多湾を泳ぐこともままなりません」だと、乙次の泣き言。
「腕を返せと申してもな、一度身体から離れた腕はどうにもなるまいが。拙者も医者の端くれゆえそのくらいのことはわかっておる。しでかしたことは許してやるゆえ、さっさと川に戻れ!」と諭しました。 

鷹取養巴(たかとりよう)は、江戸時代に実在した人物で、黒田藩の御用医師である。
養巴町養巴町(ようはのちょう)は、藩医鷹取養巴が開業していた地名。養巴医師に因んでつけられた町名。現在の福岡市中央区大名1丁目。
明治末期から大正にかけて東養巴町には、海産肥料問屋・履物・菓子・文具・染物など商家が多かった。 

骨接ぎの技有り 

 そんなわけで、どうしたもんかと乙次の奴。私・浜五郎に助力を頼みに来たというわけでございます。


福岡城城を取り巻く堀


「だから言わんこっちゃねえ。下手な助べえ根性は、カッパにとって命取りにもなりかねねえんだ」
 浜五郎は、カッパが人間との付き合い方をコンコンとお説教しました。
「いいから俺についてこい」と、乙次に案内させて養巴先生の屋敷に戻って来ました。
「いくら拙者が名医だと言われても、一度体から離れた腕を元通りにはできん。観念してさっさと帰れ」と先生が追い帰そうとする。そこで浜五郎、
「お言葉を返すようですが養巴先生、私は何千年もむかしから、カッパの世界だけに伝わる骨接ぎの術を心得ておるのでございます」ときなさった。
 養巴先生、熟慮の末面白いことを思いつかれた。
「それなら、カッパの世界の骨接ぎの術とやらを拙者にも教えてくれんか」
「こんな大事なことを人間に教えたとなりゃ、今度は私がカッパ界から追放されてしまいまさあ」ときた。
 養巴先生も乗り出した舟を簡単には引き返せない。
「例え黒田の殿さんからの命令であっても、絶対に他言はしない。信じてくれ」と、半分剥げかかった頭を膝のあたりまで曲げてお願いした。そんなわけで養巴先生、カッパしか知らない貴重な“骨接ぎの術”を手に入れたんでございます。
 体から切り離された腕や足も、養巴医師にかかると、たちまち元通りになるそうな」の噂は、筑紫国から全国へと広がりました。もちろんここでは、「カッパ術」なんて言わずに、「養巴術」としてですがね。それからというもの、殿さまも上級家来たちも、鷹取養巴先生には一目も二目も置くようになったんだそうです。
 そのことが、浜五郎のカッパ世界での格付けをも相応に上げられたかどうか、そこまでは確認しておりません。
 そんなことはどうでもよろしいのです、カッパの乙次には。返してもらった片腕をすぐに元通りに繋いで、あとは「浜五郎親分、ありがとうよ」と言ったきり掘割に消えた。

 前回「幼子(おさなご)を祀る宮」の取材中、鷹取養巴先生のお墓を偶然発見しました。養巴先生、本当に実在した偉い人物だったのですね。そこは博多御供所町妙楽寺の墓所でした。墓所での隣近所は、なんと歴代の黒田家の家老さんとか偉い人ばかりなんです。養巴先生も、骨接ぎの術を覚えたお蔭で、偉いお武家さんと肩を並べなさったんですね。
 墓石は重要人物である黒田監物の斜め後ろで、ちょっと見えにくいですが、今度お邪魔したときに、真正面から撮影してきます。


養巴先生の墓(写真右端後方)

 養巴先生の医院兼屋敷があった大名1丁目の養巴通りを散策した。すぐそこの福岡城内掘を後方にしながら進む。車がやっと離合できるほどに狭い道路の両端は、飲食店がぎっしり。何せ、鍵型やSの字型の道路ばかりで、まともな十字路はなかなか見つからない。
 お城を取り巻く道は、敵の侵入を防ぐために、わざとそのように造られているのだろう。養巴先生や武士たちは、お城から那珂川へと伸びる水道を、朝夕の散歩道にしていたのかな。
 さて、カッパの乙次や浜五郎が通った、那珂川経由で養巴先生の裏庭に通じる道はどこかな? おそらくこのあたりに堀がっただろうと予測は立つが、確信が持てる材料は見つからなかった。

 

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